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2012-07-11

元長の雄姿

昨夜は書きかけで華麗に寝落ちしてしまったので、朝の更新www
ダメ人間度が増している昨今……_ノ乙(.ン、)_

さて陰徳記、これまでのあらすじ:
立花城を取り巻いて攻め寄せる毛利勢に背後から攻め寄る後詰の大友勢。
激しい戦いが続くなか、吉川衆も大活躍を見せて難局を乗り切っていく。
今回もその続きから。


五月十八日の合戦のこと(3)

また高野山入道の陣へは、元長様が粥を煮させて水と一緒に送っておいたので、
兵たちは皆粥を飲んで力を回復し、水で火矢を消して防ぎ戦った。
最終的に敵を追い払うと、敵の退却する後を追って、山の麓で手負いの者数百人の首を取って、
吉川・小早川両将の実検に臨んだ。両将は、「高野山の振る舞いは最高にすばらしい」と褒め称えた。

熊谷の陣には、佐伯・臼杵といった者たちが攻め寄せてきたが、
どちらも九州では屈指の強さを誇る侍大将だったので、
先陣が引いてくれば下知を下して押し返しながら切り込んでくる。
このままでは危ないというとき、熊谷伊豆守の三男、三須兵部少輔が、
足軽たちが鉄砲を撃っているのを見て、自分の陣が撃ちだす鉄砲はというと、
矢間から撃ち出す者は敵の鉄砲を恐れて首を矢間の下に隠し、手だけを上げて、
敵がどこにいるかもわからないまま撃っている。
また塀から外に出て撃っている者を見ると、鉄砲を頬に当てる者はなく、
皆腰だめにして撃っていたので、なかなか敵に命中しない。
三須は「私が撃って見せるから、これを手本にして撃て」と、足軽が持っていた鉄砲を奪い取って、
連続して四、五回撃って見せた。

ここで、誰かはわからないがおそらく一軍の大将だろうと思われる武者が一人、
団扇を持って下知して駆け回っていた。
三須はこれをよく狙ってドッと撃つ。
その弾はその武者の胸板を貫通し、武者はうつ伏せに倒れた。
この武者はよほど大切な者だったのか、その手勢たちは武者を肩に担いで退却していった。

宍戸の陣も敵にしきりに攻め立てられていたが、隆家はなかなかの勇士だったので、
下知に駆け回り、手勢の郎党たちの深瀬・末兼・奥垣・佐々部たちも身命を惜しまずに防戦したので、
豊後勢もこの陣を破ることができなかった。

こうして戦っているときに、もし後詰の敵と城中の兵たちが合流すれば一大事になると考えて、
両将は「城からの道に堀を作り柵を結い回せ。
しかし城から矢が届く距離で散々に射られてしまうだろうから、
堀を切ることができなければ誰かを置いておけ」と命じた。
桂上総介は元春に向かい、「お手勢の森脇市郎右衛門が適任ではないでしょうか」と申し入れる。
元春は「では」と森脇を呼び寄せ、このことを下知すると、
市郎右衛門はすぐに了承して、足軽数百人を連れてその場所に向かった。
すると案の定、城から散々に射掛けてくる。
しかし市郎右衛門はまったく意に介さず、道を掘り切り柵を二重に結い回して帰ってきた。

さて、後詰の勢は寄せ手の陣を破ることができずに、仕方なく引き上げていったが、
今日の合戦で勝利を得ることができなかったのを口惜しく思ったのか、また引き返してきた。
申の刻になって、小早川衆の椋梨次郎左衛門の陣に無二に切りかかってくる。
これを見て、浦兵部丞宗勝・坂新五左衛門・乃美少輔五郎・山田源五郎・豊嶋九郎右衛門が打って出ると、
敵はこの昼の負け戦の験を直そうと勇んで進んできた矢先だったので、
難なく突き立てられて柵際まで押し込まれ、この陣が危なく見えた。
吉田衆の材間越前守、小早川衆の末永源六郎・裳懸六郎・田中源七はここを破られてなるものかと
必死に戦ったものの、枕を並べて討ち死にした。
敵はさらに勝ちに乗って攻め入ってきて、味方は突き立てられ右往左往して退却した。

元長様はこれを見て、ここは自分の手を砕かなければ打開できないと考え、
手勢五百余騎を率い、藤の丸に三ツ引両の旗を夕暮れの風にたなびかせ、椋梨の陣へと向かっていく。
ここに、突き立てられて逃げてくる味方が雪崩れかかってきたので、
元長は井上五郎右衛門という者を遣わして、
「味方が利を失ったと見える。吉川元長が椋梨の陣へと、馳せ向かっている。
退却する者たちは、せめて道を空けてくれ」と呼びかけさせた。
これを聞いて多くの者は立ち止まった。

豊後勢がさらに進んで、柵の木を切り破って乗り込んでこようとするところに、
「吉川治部少輔元長である」と名乗り、五百余騎をひとまとめにして、
自らが先頭に立ち一直線に進んでいく。
宮庄・今田・桂・粟屋・香川・伊志・小坂・森脇・境・朝枝も、皆我先にと、身命を惜しまず突きかかった。

豊後勢も勝ち誇った勢いに乗って無手と渡り合い、しばらくの間は戦っていたものの、
新手の猛将・精鋭にかないようもなく、山の麓へとさっと引いていった。
味方は後を追おうとしたけれども目的は果たせず、
元長は百歩も進まないうちに「もう戻ってこい」と兵を引き上げさせた。
隆景をはじめとして、「元長の行動は立派である」と大いに褒め称えたので、
中国八ヶ国の武士たちも皆、称美しない者はなかった。

なかでも杉原播磨守盛重と三沢三郎左衛門は陣を並べて据え、
どちらも城を攻めていたので後詰の敵との合戦には参加していなかったが、
盛重が三沢に向かってこう言ったそうだ。
「それにしても、元就様の勇機智謀が三代も引き継がれるとは恐れ入った。
元長の今日の行動を見るにつけても、毛利家の武運は、
たとえ元就様が老いて死んでしまわれたとしても、なおいや増しに隆盛するだろう。
なぜなら輝元が良将の器だからだ。
また一族の元長がこのような人物であれば、私の予測は外れるわけがない。
私のような国人衆が傍から見ているだけでも、なんという勇将の振る舞いかと好もしく思う。
元春も親の身であるのだから、どんなにか嬉しくお思いだろうか」

盛重がこう語ると、為清も「私も本当にそう思う」と言って、
二人一緒に元長の本陣へと向かっていたところ、道でちょうど元長と行き会った。
元長様は緋縅の鎧を着けていたが、夕日に輝き渡って、まるであたりの景色を霞ませるかのようだ。
魯陽が夕日を三度呼び戻したという故事もこのようなものだったと思えるほどに勇壮な姿だった。
杉原が「なんと勇ましい強将ぶりでしょう」と正面から褒め称えると、
元長様も気分よさそうに本陣へと引き揚げていく。
その後、祖父の元就様もこの合戦の様子を聞いて大いに喜び、
すぐに近習の者を使いに立てて、左文字の御太刀や寒梅という駿馬などを贈ったという。


以上、テキトー訳。この章はおしまい。

びええぇぇぇぇ元長かっこいいいぃぃぃぃぃぃぃ!!!
惚れてまうやろおぉぉぉぉぉぉ!!!
そして隆景をはじめこの絶賛ぶりである。満足。

この戦いは「多々良浜の戦い」と呼ばれて、実際は毛利が敗軍したらしいけど、
いいんです、元長がかっこよければそれでいいんです!
小早川衆も宍戸さんもそれなりに活躍してるし、ちょっとホッとしたw

個人的に熊谷さんちの鉄砲隊が面白すぎる。
鉄砲の撃ち方がなってなくて注意されるとかw まじwww
実戦で使う前に一通り指導しとけよというwww
しかも「このままでは危ない」って段階になってからかい!とツッコミたくなるわ。
お茶目な人たちだなぁ(*´∇`*)
これは熊谷氏sageではなく、三須の活躍シーンだと思うね。

さて次章は、九州でこうした戦いを繰り広げているころの元就たちの様子ですぞ。
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>元長様はこれを見て、ここは自分の手を砕かなければ打開できないと考え、
手勢五百余騎を率い、藤の丸に三ツ引両の旗を夕暮れの風にたなびかせ、椋梨の陣へと向かっていく。
かっこいい文句付ける所が全く見つからないカッコよすぎる・・・。
これは香川先生の詩才のなせる業でしょうか?
元長の描写がとても印象的で、心に焼きつくシーンですね。
吉川家中に語り継がれてたんでしょうか。
二宮覚書や安西軍策ではどんなふうになってるんだろう。
比べてみたくなってきます。

前回の時に書かせていただいた、多々良浜の戦いの話ですが、ちょっと訂正です。
まず、「アンチさんがいっていた立花方の軍記物」ですが、筑前国続風土記の事のようでした。
この資料は貝原益軒(黒田藩士)により編集された筑前の歴史書です。
どうやら立花山城を撤退する時の描写がひどかったために、書いた人が叩かれていただけみたいでした。
二次資料ではありますが、大友、毛利、立花の影響は(比較的)薄い人物に書かれたためか、この資料はかなり信頼されているようです。
それと、もう一つ気になった所。
こちらの資料では、まず立花山城落城(5/3)→多々良浜の戦い(5/18)→押された毛利は立花山城へ撤退。防衛ライン後退
という流れになっているのですが、大日本史資料では立花山城落城は閏5/3になってるんですね。
つまり陰徳記と同じ。
しかしながら、その多くの出典が毛利系資料だから信頼されてないのか、創作物などでも多くが5/3落城説を採用しているようです(大友家文書録にも乗ってるらしいのに)。
正直落城日がいつかで戦況も変わってくるので、なんとか突き止めたいものです。
ちなみに、この多々良浜は京を追われた足利尊氏が再起を果たす名場面にもなっています(大河では出てこなかったけど私はそう思ってるw)。
太平記ファンの元春にとっては感慨深い戦いだったのでしょうね。

追伸

先日の抜け駆けの話ですが、ちょっと腑に落ちなかったので。
この頃まだ国人一揆の体制から抜け切らない毛利で単独行動を容認していくと、かえっての国人の反発や離反の元にもなるのではないでしょうか(手柄を取られた、仕事の皺寄せが来たなど。。)
むしろ軍政が未成熟故に押さえきれなかったというのが実状なのか、それとも春継さんが特別に与えられた特権なのか、気になる所です。
あと、関ケ原での例えですが、言葉足らずでした。
抜け駆け禁止の話は秀元が内通を知っていた説を否定する裏付けとして紹介されていたんです。
本戦後のNGMSや市松とのやり取りや徹底交戦を主張するあたり、広家とは一線隔していたのではないかと(というか、内通を知ってたんは本当に極一部だと思う)。
輝ちゃん的には広家が毛利に一番美味しい行動を取ってくれると信じて容認していたと思いますが、あれだけ多方面に兵出しといて本領安堵を信じるあたり、何というか、輝ちゃんかわいい。

Re: タイトルなし

ちえのわ様

なんというか、今回は非常に絵画的と言いますか、映像として浮かび上がってくるかのような描写でしたね。
うっとりさせてくれます。
こうした表現は他の合戦描写にはあまり見受けられないので、
正矩自身の文才というよりは、この場面を語り伝えてくれた古老の表現をなぞっているような気もします。
元長に心酔していた人が語り伝えたのではないかと。
前身の「安西軍策」などにも目を通したくなりますね!

あと、毎度情報ありがとうございます。益軒先生の著作でしたか。
忠之に追い出されて光之の代で重用された人ですね。
この方の書かれた「黒田家譜」にも毛利三家が多数登場するようなので、いつかちゃんと読んでみたいです。
チラ見したところでは、備中高松城のあたりで、隆景が元春を泣かしてましたw 萌える(*´∇`*)

立花城落城の日付、裏が取れたら是非教えてください。他人任せでアレですけどw
陰徳記ではちょっと先の章のことになりますが、ざっと目を通したところでは、
日付は見当たらないものの、尼子再興軍対策に兵を移動させはじめてから立花城が落ちたことになっています。

Re: 追伸

ちえのわ様

追伸見逃してました。申し訳ないです。
確かに国人衆が不安定な状況下では、抜け駆けも危ないですねw
軍記物なので、実際に抜け駆けが行われたかどうかも確実にはわかりませんし、
もしかしたら元春の指示によって動いていたのかもしれません。
自分の首が刎ねられたり所領を没収される危険を顧みずに忠戦に励むのがカッコイイ、
という風潮があったのかもしれず、それであえて「抜け駆けした」と描かれているのかも。
あるいは、他にも抜け駆けは多々あったものの、吉川衆のことだけ取り上げられているのか。
一次史料と呼ばれるものでは確認したことがないので、
私もよくわからないというのが本音です。

また秀元についても、そもそも知識が足りない上に、
逸話などで残っている諸説は後世に成立したものが多そうなので、内通を知っていたかどうかは、
現段階では判断を控えたいと思います。
秀元が内通を知らずに抜け駆けしたくともできなかったとするならば、
旗本などの将兵に福原や広家の息がかかっていて秀元の下知に従わなかった、とか、
長期戦を見込んであの時点では積極交戦の意思がなかったなど、
また別の見方もできるのかなと思いました。

参考にならずすみません(^ω^;)
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