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2012-07-11

一方そのころ輝元は

だいたいの流れ:
九州立花の城を取り囲んだ中国勢は、援軍に送られてきた大友の大軍と小競り合いを繰り返していた。
今回は、じゃあそのとき輝元は何をやっていたか、というところ。


元就朝臣・輝元朝臣、長府へ下向のこと

さて大友宗麟は、自身は豊州にいながらにして、立花表には、
弟の柳川左近・田原重忍を大将として、侍大将には戸次道雪などを差し向けていた。
大友勢は数万騎で寄せ手の毛利勢をくるくると取り巻いた。
中国勢は味方を引き入れようにも方法がなく、進んで戦うには敵が猛勢すぎて太刀打ちできない。

その知らせが届くと、輝元様は「こうして自分だけ吉田にいるのも後ろめたい」と考え、
すぐに長門の国府へと下向してきて、谷の長福寺に滞在した。
またその後潮音寺へと移り、九州表の味方がさらに難局に陥ったときには
さらに兵を掻き集めて味方のもとへ駆けつけようと奔走していた。

こうしたところへ、立花表から長府へと、五月十八日に討ち取った首級五百あまりが送られてきたので、
輝元様は「戦の首尾はいいようだ。九州退治は後退してはいない」と、ひとかたならず喜んで、
使者に褒美を与えた。
こうして長府に陣営を構えて様子を見守った。

このころ、内藤左衛門佐隆春の郎党の勝間田土佐守という者が長府に居を構えていたが、
ここへと大友から「元就・輝元を討ち取ってくれれば、
防長両国のうちで所領を望みのままに宛行おう」とひそかに言い送ってきた。
土佐守はすぐに使者を捕らえると、書状を刺し添えて差し出したので、
忠勤の至りであるとして、やがて加増された。
その使者は首を刎ねられ、獄門にかけられた。


以上、テキトー訳。

短いけど今日はこれにて。次の章が長いので、一緒には載せられんのよ。

そういえば輝元は、初陣の後は、この次の年(元亀元年)の出雲出陣まで、
戦に出た記録が見つからなかった。
少なくとも、大日本史料のデータベースをさらっと検索した限りでは、だけど(手抜き)。
立花陣でも、渡海はしてないもんね。
この間は、後継者教育とかをビッチリされてたのかなぁ。

おそらくこの永禄12年に、輝元は元春に対して、次の戦には自分も出馬したいという手紙を送ってたと思う。
ちょっと健気な感じがして好きだ。
尾崎局から出陣している輝元への手紙に「爺さまが会いたいって言ってる」
などと書いてあったりするので、元就が手元から離したがらなかったんじゃないかと憶測。

というか、この直前あたりの話って、私読んでたっけ……?
いや、まだだった。義久の降伏あたりだけ拾い読みしたんだったな。
益田家に興味が湧いてきたので、尼子義久降参後の出雲・石見平定あたりも近々きちんと読みたい。

でもしばらくこのまま次の章を読んでいきます。
次章はいよいよ! 七難八苦のあのカリスマが登場するよ!!!
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