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2012-07-13

松永弾正昔語り

だいたいの流れ:
毛利は幕下の勢力と大友が九州立花でいざこざを起こしたのをきっかけに、大友との大戦争に突入した。
裏切り者の長野が籠もる三ツ嶽は落としたものの、立花城は未だ奪取できず、
大友の後詰の大軍に囲まれて、戦況ははかばかしいとは言えないぞ!


尼子勝久出雲へ入らること(上)

尼子義久が降伏してから(永禄九年十一月)、山中鹿介などは皆国を追い出されて流浪の身となった。
皆京へ上って一緒に集まっていたとき、
「今この日本ではどの将が智計謀略に優れ、天下の部門の棟梁となるだろうか。
それをうかがい見て確かめてから、どこかの大将を頼みにして本国を取り返そうではないか」と話し合った。
山中鹿介・吉田八郎右衛門・真木宗右衛門の三人は連れ立ち、巡礼に変装して関東へと赴き、
武田・長尾・北条などの軍事力などを観察すると、
それから越前へと向かい、朝倉家を回って京都へと戻ってくる。

こうしたところに、「吉川・小早川が九州の立花表で大友と対陣しており、
どちらが勝つかわからないそうだ。だから元就・輝元も長府へと発足されたらしい」との風聞を聞くと、
鹿介たちは、「これこそ天が与えてくださった好機だ。この隙に本国の出雲を取り返そう」と、
京都で様々な浪人を呼び集めた。

そのなかに、横道兵庫助・同権允の兄弟が松永弾正少弼(久秀)を頼って身を寄せていたところ、
山中鹿介・立原源太兵衛(久綱)から、
「元春・隆景が筑前の立花表に在陣している隙を狙って、本国の出雲に攻め寄せよう。
大友と協力して挟み撃ちにすれば、毛利家を攻め滅ぼすのも難しくはなかろう。
早々に京都へ来て、本国を取り返す策謀を練ろう」との連絡がきた。
横道兄弟は大いに喜んで、このことを松永霜台(弾正の唐名、久秀のこと)に告げて暇乞いをした。

松永は天下に二人といない軍略家である。
もともとは摂津豊島の土民の子であったが、次第に出世して、
一度は将軍の後見役まで務めたほどの者だったので、毛利と大友の戦の行く末を予言し、
不思議にもそれとまったく変わらない結末になった。

霜台が横道兄弟に向かって言うには、
「元春・隆景の戦ぶりを伝え聞くに、父の元就にも劣らない名将だという。
元春は文武全備だとはいっても、そのなかでも勇が優れていて攻めれば取り、
戦えば勝つ方法をよく知っているらしい。
隆景は智勇を兼備しているといっても、智謀がきわめて優れていて、
国を治めて民を懐かせる才能があると聞いている。

この兄弟と大友を比べると、智も勇も雲泥の差がある。
智将と愚将が戦えば、すなわち智将が勝つ。
勇将と臆病な将が戦えば、勇将が勝つと昔から言うではないか。
たとえ大友が三倍の兵力で対陣したとしても、吉川・小早川を滅ぼすことはできないだろう。
十中八九、元春・隆景は九州戦線を無事に離れるだろうし、
そうでなければ和睦を結んでからあの地を去ろうと謀をめぐらすだろう。
もしこの両川が九州から舞い戻ってくれば、おまえたちは流浪の身なのだから、
はかばかしい一戦はできないだろう。

このまま私を頼って、もうしばらく足を休めていてはどうだ。
私は賤しい身分だが、主君の三好筑後入道実休(三好元長の次男)に祐筆として召し置かれてからというもの、
寝食を忘れて忠勤に励んできた。
そのころは和泉の松浦や河内の喜蔵左京太夫、安見の何某などという者たちが、五畿内では優れた軍略家で、
将軍の後見につくような勢いだった。
このとき、古入道実休が阿波の国から七千騎あまりを率いて攻め上り、
喜蔵と何度か合戦をして、ついに喜蔵を攻め滅ぼした。
その後松浦と戦になり、松浦を和泉の境の津へ追い落とそうとしていたとき、
根来寺の宗徒の杉本坊・岩室坊などが五千余騎で大和の国の葛城の麓、
久米田(和泉の国)へと打ち出してきて、松浦に力を貸した。
実休はこのときは松浦に押さえを置いて、四千余騎で久米田へと出張りして、
すぐに根来の宗徒たちを追い払った。
ところが運の尽きだったのか、実休は流れ矢に当たって死んでしまった(永禄五年三月五日)。

嫡子(三好元長の長男)の修理大夫長慶・その次(元長の三男)の安宅冬康・
四男の十河一存はいずれも劣らぬ名将であった。
私はこのとき、長慶の御身辺に召し使われていて過分の所領をいただき、
松浦・根来・安見を征伐するときにも身を捨てて先陣に立った。
ついに松浦・安見を滅ぼし、根来の宗徒を追い込むと、
首里大夫殿はようやく公方様の官領職になることができた。

そして長慶が逝去した(永禄七年七月)後、安宅(永禄七年五月)・
十河(永禄四年四月)も程なくこの世から去ってしまわれたので、
不肖の身ながら私が左京太夫(三好義継)殿を擁立したのだ。
そこへ、三好の三人衆と名高い三好日向守(長逸)・同下野守(政康)・
松山新入斎(岩成友通)などが、まだ幼い左京殿を蔑ろにして、
自分の思い通りにするために執権になろうと思ったのだろう。
光源院(足利義輝)殿を討ち果たし、また左京太夫殿さえも亡き者にしようとした。

私は奈良の多門にいて、八幡の城にいらっしゃる左京殿をお守りするために、何度か防戦をしたのだ。
三人衆は近隣の国の兵たちを集め、私の居城を取り巻いた。
敵は猛勢だったので、白昼の仕掛け合いの合戦では勝てないと思って、
大仏の陣へと夜討ちをかけたところ、どうにか勝利を得られて、
敵を五百人あまり討ち取って、三人衆に塩をつけることができた。

そのとき織田信長が義昭公に頼られて天下へと切り上っていらしたが、
まず手始めに江州を制圧なさり、箕作の城を攻め落とされたと聞くと、
三好の三人衆はそれを恐れて敗軍した。
私が忠義の戦に励んだからなのか、天の加護をこうむって運が開けたのだ。
だから信長が上洛されたときに私が大津近辺まで出て行くと、信長は大いに感心されて、
大和・河内の両国を与えてくださった。

長々しい昔話ではあるが、何かにつけて自分の身の上を若い者たちに語って聞かせている。
私はもう八十歳近い年寄りで、余命は幾許もないだろうから、
私が死んだ後の思い出話にでもなるだろうと思って、このようにしているのだ。
また、私は百姓の子として生まれたが、今は二つの国の主となるまでになっている。
これほど天のご加護にあずかったのだから、あと七年ほどのうちには、天下に旗をはためかすことになる。
だからどうかここにとどまって欲しい。
十分な所領も宛行おう。本国への下向は思いとどまっておくれ」

松永は再三こう引き止めたが、横道兄弟は、
「おっしゃることはもっとも道理ではありますが、たとえ野辺の土となるとしても、
一度本国に帰って、以前からの念願を果たしたく思います。
このままここに足をとどめて数万貫の所領をたまわり、栄華を誇ることは、
それこそ望むところではありますが、いくら裕福になっても故郷に帰れなければ、
せっかくの錦の衣を夜道で着ているようなものです。
まず一度は故郷に帰り、義のために命を捨てることこそが、本当に望むところなのです」と答えた。

松永は、「これ以上は引き止めても仕方あるまい」と、鎧一領・太刀一振を横道兄弟に与え、
「この老翁が言った言葉を、最期のときにでも思い出してくれ」と、二人に暇を出した。


以上、テキトー訳。続く。

いよいよ鹿ちゃん登場だね!
しかし今回は爆弾正さん回だった。あれ、けっこういい人……?
他の章でも、松永久秀はけっこう好意的に描かれていたような気がするが、
ここに出てくる横道権允さんという人が、後に吉川に仕えているようなので、
横道さん情報でイメージがいいのかもしれないと思ったり。
出自がはっきりしないとか、今回ちょっとだけ調べてみて初めて知った。
噂には聞いていたけど、畿内情勢はホントわけがわからんな。

さて次回も続きを読むです。
が、ちょっとさまよっているうちにイイ話を発見したので、もしかしたらそっちを載せるかもしれない。
明日は明日の風が吹くさ……
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以前、某まとめサイトの管理人さんが、史実の松永は最後まで三好に忠義を尽くした人とおっしゃっていたけど、今回の記事を見て何となく納得しました。
ボンバーマンさんのギリワンイメージは本当に後世の話なのかもしれませんね。
軍記物は誇張や一方的な見方も多い分、書かれた当時の一般認識を知る意味では資料価値が高いのかなと思いました(テヘッ。自分が納得したとこだけそう思おっと!)。
私の中での畿内一の悪党はキザワさんですね。
彼こそは我が大和一の英雄!

Re: タイトルなし

ちえのわ様

あのボンバーマンがこんなに穏やかな老紳士キャラで描かれているとは、
これだから軍記物って楽しいんですね!
とりあえず陰徳記は、「吉川家中ではこのように伝わってた」ということを知るのには
なかなかに役に立つんだと思います。範囲は狭いですがw
キザワさんは……かいつまんだ話だけでおなかいっぱいですwww
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