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2012-08-07

大内家とりかへばや物語

だいたいの流れ:
毛利両川が九州立花に出征して大友とガチンコのにらみ合いを続ける中、
出雲では山中鹿介らが尼子勝久を奉じて蜂起、あちこちから味方を集めて快進撃!
どうやら山口にも騒乱の種が芽吹いたようですぞ。


大内太郎左衛門尉輝弘、山口入りのこと(上)

大内太郎左衛門尉輝弘というのは、大内左京大夫義興の父、政弘の子である。
その政弘は、老齢に達するまで自分の子ができなかったので、このことを深く嘆いて神仏に願を立て祈った。
そのおかげか、ようやく晩年にいたってから、
御台所がなんとなく寝付いてしまって具合が悪そうになってから、すぐに懐胎した。
政弘は大いに喜んで、「どうせなら男子が産まれないものか。
大内家を相続させたいのはもちろん、軍事に携わる身で、女子だけいて男子がいないのでは困ってしまう。
どうか男子が産まれないものか。大内の介と名乗らせたい。
男子を一目見れれば、もう死んでもこの世に悔いはない」といつも言っていた。

こうなると御台所も、「自分の身はどうなってもいいから、
胎内に宿っている子が男の子でありますように」と、一途に心に願っていた。
そして臨月がきて無事に安産したが、急いで取り上げてみると、
成長すれば「輝く日の宮」とも言われそうな女の子であった。
するすると産まれてきたことは嬉しく思われたが、玉のような男の子ではなかったのを口惜しく思い、
どうしたものかと考え込んでいた。
するとそこにとある名家の公家が一人山口に下向してきて、長年住んでいたが、
田舎住まいの憂さを晴らすために一人置いていた妾がこのほど懐妊し、同日に男子を出産した。

政弘の御台所はなかなか機転の利く人で、そこでハッと思いついた。
「その公家の子と我が子を取替えてしまいましょう。
私がついに男子を産めなかったら、いずれは誰の子であれ、
人の子を養って自分の子にしていたでしょう。
これなら今人の子を我が子にしてしまっても同じことです。
それに、ある程度成長してしまった子を引き取れば、
その子は私たち夫婦が実の親ではないとわかっている。
この赤子のうちに人知れず取り替えて自分の子にしてしまえば、
こうしたことは誰かが指摘したとしても信じないでしょうから、私たちを実の親だと思うでしょう。
これはもう、その公家の子と取り替えるしかありません」と考えて、
このことを密かにその公家に言い送り、
「どうかこのことは、露ほども他人に漏らされますな」と固く口止めをした。

その公家もまた、自分の子が日本一の大名となれるのを嬉しく思ったので、
すぐに了承し、すぐに取り替えると、このことを人に語ることはなかった。
政弘はこれを夢にも知らなかった。
非常に喜んで、人々も皆、弄瓦之喜(ろうがのよろこび、女子が生まれること)の祝辞ではなく、
弄璋之喜(ろうしょうのよろこび、男子が生まれること)の賀詞を述べてきた。
これがすなわち、左京大夫義興のことである。
ある人が言うには、その公家の子は三日ほど前に産まれていたものの、
政弘の御台所がかねてから「こうした事情がある」と言い断って、
「もし私の子が女子であれば取り替えてほしい」とそばに呼び寄せておき、
女子を産むとそのまま取り替えたので、政弘はまったくこのことに気付かなかったのだという。

その御台所は、続けざまにまた懐妊し、今度は男子を産み落とした。
これこそが、この太郎左衛門輝弘である。
はじめは寺に入って氷上別当となり、尊光と名乗ったが、とある事情があって還俗し、
氷上を知行していたので、氷上太郎とも、大内の太郎とも呼ばれた。
その後、都督義隆卿の代になると、こう讒言する者がいた。
「太郎高弘は、いつもこんなことをおっしゃっています。
『私こそ大内の本当の子孫だ。義興はさる子細があって、多々良の血統を引いた子ではない。
だけれども、すでに父の政弘が嫡男に定め、当家を譲ったからには仕方ない。
今の義隆がこのことを知っているなら、防長豊筑のうち一国か、せめて半国は私に与えてくれるべきなのに、
わずか氷上の郷だけしか与えられないとは口惜しい』と呟かれ、
太守に対してそれはそれは恨みを抱かれています。
もし国に大事が起これば、太郎殿はきっと、すぐに大内家を狙ってくるでしょう。
これでは、獅子の毛についた虫が獅子の肉を食うようなものでしょう。
あのおお方とは御心を置いた方がよろしいと思います」
こんなことがあったので、義隆卿と高弘との仲は悪くなった。

高弘はこのことを伝え聞くと、義隆と仲たがいしてはどうにもかなわないと思ったのか、
密かに山口を出奔した。
義隆はこれで「高弘は逆意が隠しおおせなくなったと思って逐電したのだろう。
二人の子供を探し出して殺せ」と命じ、後に後ろの川原で子供たちの首を刎ねた。
高弘はそれから京都に上り、光源院殿(足利義輝)へとこの訴訟を起こして、
自分に罪がないということを涙ながらに訴えた。
大樹(将軍)もそれはそれは不憫に感じて、
太郎左衛門尉にかたじけなくも「輝」という下の字を与えたので、高弘は改めて輝弘と名乗ったのだった。

輝弘はそれから出雲に下って尼子に身を寄せ、義隆卿に復讐しようとしていたが、
義隆が陶隆房によって殺されてしまったので、世俗のことわざに言うように、
「疫病神にて敵を取る」と喜んだが、これで大内家が断絶してしまうことを嘆いていた。
ここで冨田七年の籠城のときも、六年までは耐えていたが、
兵糧が尽きて飢えてくるとどうしようもなく、忍んで城の裏から出て、
しばらくの間は同国の杵築に潜伏していた。
それから豊後へと下り、大友金吾入道を頼ると、入道は輝弘を婿に取り、あれこれと世話を焼いた。

そうして今輝弘は、この乱に便乗して、豊後から松木右衛門大夫入道一佐・
甲斐左馬助・城井小次郎らとともに、波多野石見守・戸次内蔵太夫などを主力の兵として、
五千余騎を率い、豊後の国の鶴崎(木村の浦とも)から船に乗り、
長門(周防)の国の秋穂白松へ上陸した。
ここに陣を据え、そこから山口へと攻め入るつもりだった。

山口の鴻の峰の城には、市川式部少輔経好を大将として、
内藤新左衛門(就勝)・山県備後守・児玉宗右衛門・黒川兵部をはじめとして、
主力の兵士が七百余騎立て籠もっていた。
また町方の押さえには信常太郎兵衛尉・井上善兵衛尉が置かれていた。
輝弘が山口から攻め寄せてきたとあちこちから櫛の歯を引くように報告が入ると、
城中では、「きっと敵は一番にこの城を攻め破りにくるだろう。
皆、持ち口を固めて一歩も引かず、城を枕に討ち死にしようではないか」と話し合い、
弓・鉄砲を矢間に引っ掛け、鎧の上帯を締め、兜の緒を締めて待ちかけた。


以上、テキトー訳。続く。

どどどどど、どういうことなの((((゚Д゚;))))
義興が政弘の実の子じゃないって、初耳なんですけど。どうしてこうなった。
あと、高弘と輝弘ごっちゃになってんぞ。そこは父子だろ。なして同一人物……
岩国だって大内の支配下にあったんだから、大内に詳しい古老はいただろうに、
ホントどうしてこんな話になったのか。

愚考をめぐらすに、大友が輝弘の大内家継承権を正当化するためにフいたのがこの説だった、
といったところだろうか。
それが共謀していた尼子再興軍に伝播し、後に吉川に入った旧尼子家臣が伝え、
陰徳記に記載された、など……妄想だけどね!

いろいろ気になりつつ、以下次回!
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