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2012-08-19

大内残党の末路と一方そのころの鹿

帰省してて更新が止まっていたけれど、今日から再開。
帰省中は鎌倉時代の吉川氏の拠点に足を運んできたよ。
地名に「吉川」「Kikkawa」って文字を見ると嬉しくなるね!!!
まとめるほどの情報量はないけど、まあそのうプチ旅行記をうpしたいと思いますです。

さて久々の陰徳記、だいたいの流れ:
元春・隆景が九州出張中に起こった尼子再興軍の撹乱、及び大内輝弘の山口乱入。
しかし元春・隆景は無事に長府に戻り、まず大内輝弘が成敗された。

今回は輝弘に与した者の末路と、鹿ちゃんたちの動静の二本立てで。
微妙に短い章なのでw


杉松寿丸のこと

さて、輝弘を無事に成敗すると、大内に一味していた者たちは山林に姿をくらまし、
一般の町人や農夫に身をやつして忍んでいた。
こうした者たちは皆あちこちから探し出されて、笠井帯刀・道場など、残らず刑にかけられた。
杉松寿丸は大内家代々の重臣の家系だったので、今回輝弘が山口に入ると、
「大内家が再び花咲く春を迎えられるぞ」と大喜びして一味したのだが、
このことが露見すると、山口から逃げ出して筑前の国に身を潜めた。
元就様はこれを聞くと高橋右近秋種・賀来・福嶋らに「杉を討って首を差し出すように」と下知した。
高橋秋種は杉の居所を聞き出して、杉が忍んでいた民家を五百余騎でくるくると取り巻いた。

杉松寿丸の乳人で久佐弾正忠という者がいた。
久佐は杉の小姓として仕えていた広津新三郎に向かって、こんなことを言う。
「広津よ、これまではどうにかなると思っていたが、
こうして敵に四方を取り囲まれて逃げ道を失ってしまうと、幼主の松寿丸殿を逃げさせ申す手立てがない。
我らには、お供して討ち死にする以外の道はあるまい。
しかし、私は策略をめぐらして敵を騙し、松寿丸殿をお逃がししたいと思う。

それというのも、おまえは松寿丸殿と年齢も一緒で姿かたちもよく似ている。
なので、おまえが一筋に思い切って、『杉松寿丸である』と名乗り、潔く自害してくれれば、
私がすぐに介錯をして、それに続いて私も腹を切ろう。
高橋の郎党たちは松寿丸殿をしかと見知っているわけではないのだから、
おまえの首を松寿殿だと思って囲みを解くだろう。
その隙に主君をお逃がししようと思うが、おまえはどう思うか聞かせてくれないか」

広津はこれを聞いて、
「よくそのような策謀を思い付かれました。私はどうやっても死を免れられません。
そのちっぽけな命を、松寿殿の御身に替えることができるなら、忠臣として望むところです。
久佐殿のよろしいようにお取り計らいください」と答える。
久佐は大いに喜んで、松寿丸に向かい、このことを話した。

しかし松寿丸は「おまえたちの忠勤はとても立派なものだ。
この志にはいつの世にか報いたいと思う。
しかしながら、おまえたち二人を失って、私だけが今ここを落ち延びたとしても、
千年生きられるわけでもなし、死ぬべきときに当たって死なないのは、勇士の恥じるべき行いである。
私も同様に自害して、来世まで及ぶ主従の約束を違えたくない」と言った。

久佐・広津は大いに憤り、「そのような情けないご所存なら、
どうして大内に与し、このような謀反を思い立たれたのですか。まったく不甲斐ない。
昔の、唐の程嬰・杵臼の例をご存じないのですか。
我が国で、浮島太夫が討ち死にして、志田の小太郎が再び世に出てきたことを
お聞きになったこともないのですか。
死ぬことは簡単ですが、命をまっとうすることはなかなかやり遂げられることではありません。
恥を忍んで命をまっとうし、怨敵を滅ぼして、
これまでの恨みを晴らしたいとはお思いにならないのですか」と強く諫めた。
杉は、「それならば、とにかくおまえたちの計略に任せよう」と、鎧を解き捨て麻の衣を身に着けると、
菅の小笠で顔を隠し、そばに立って敵の様子をうかがった。

広津新三郎が走り出て高いところにのぼり、
「杉松寿丸、武運尽きて自害する。これを目に焼き付けて、後々の噂話にでもするがいい」
と高らかに呼ばわった。
見れば、十六歳ぐらいの容貌も清らかで態度も立派な若者である。
これまでは自分の手で討ち取ってやろうと勇み争いあっていた兵たちも、
さすがに岩や木ではないので、「なんと、姿ばかりか心も勇敢な若武者だ。
生かしておいて成長した行く末を見てみたいものだ」と涙を押さえ、静まり返って注目した。

広津が氷のような刀を抜いて腹を十文字に掻き切る。
久佐が太刀を抜いて振り上げたと見るや、水さえも切り割りそうな勢いで広津の首を打ち落とした。
「久佐弾正忠、主君の冥土の供奉をするために、続いて腹を切るぞ。よく見ておけ」と、
立ったまま腹を切って死んだ。
寄せ手は「あっぱれ、なんと強い兵だろう」と関心しきりだった。
この隙に松寿丸はひそやかに忍び出ると、どこへともなく落ちていった。

広津・久佐の行いは類まれなことだといって、
この話は説教・浄瑠璃(古浄瑠璃『しだ』)・小唄に仕立てられ、
これを聞いた人は皆袖を涙で濡らし、憐憫の情を惹起されない者はなかった。


出雲の国、日昇合戦のこと

日昇(登)の固屋には三沢三郎左衛門為清から兵が入れ置かれていたが、
同十二月七日、ここを切り崩そうと、山中鹿介・立原源太兵衛尉・牛尾弾正忠・
横道源介・同権允らが二千余騎で打って出た。
折りしも大雪が降って、どこに道があるのかも見分けがつかない。
けれども途中から帰れるわけもなく、その日は民家に入って夜を明かしたが、
夜が明けてまた打って出てみると積雪に足を深くとられ、
鬚には氷が吊り下がる有様だったので、兵たちは身を縮こまらせて、
弓を引いたり鑓を構えたりすることもできなかった。

しかし鹿介は、「このような大雪の日は、敵もきっと油断して、
帯を解いて薪を切りくべ、身を暖めていることだろう。
こうした不意を突いてこそ、大勝利を得ることができよう」と、雪を踏み分けて攻め上った。

固屋の中には雑兵たちが四百余人籠もっていたので、打って出て防ぎ戦った。
寄せ手は大勢だとはいっても、大雪をしのいで上ってきたので身は凍えて自由に動けない。
固屋の中にいた兵たちは身を暖めて代わる代わる打って出たので、
手足は自由に動いて、弓・鉄砲を自在に操ることができた。

寄せ手の先陣は撃ち立てられて、怪我人・死人が三十余人に及ぶと、退却しそうな気配を見せる。
しかし山中・立原が押し返しながら切り入ってくるので、
三沢の郎党たちは命を惜しまず防ぎ戦ったが、
三沢次郎左衛門をはじめとして、屈強な兵たち七十余人が討たれてしまった。
しかし野尻たちが少しも怯まずに防いでいると、尼子勢も怪我人が数百人に及び、
切り崩すことができずに、敵の首を十四、五ほど討ち取ったのを勝ちとして引き返していった。
三沢も大勢の兵を討たれたが、固屋を落とされなかったことを喜んで、
敵の後追いをすることもなかったので、その日の合戦はこれで終わった。


以上、テキトー訳。

アレかな、乳人が出てきたら主君の切腹フラグなのかな。
厳島で陶さんの介錯したのも乳人だったよね。
ちょっと前に輝弘さんの介錯したのも乳人だったよね!
主君が腹切るときの介錯も乳人の仕事に含まれるんですか!?
オムツしてるころから慈しみ育ててきた我が子のような存在の首を落とさなければならないんですか。
なにそれツラァ……(´;ω;`)
まあ今回の切腹は松寿丸本人ではなくてフェイクだったわけだけれども。

それにしても「松寿殿」って呼び方いいなぁ。かわいい。
元就も秀就も幼名が松寿なんだよね。あと黒田の長政さんも。
ところで「まつじゅ」なんですかね、それとも「しょうじゅ」なんですかね。
毛利博物館ブックレットには「まつじゅ」ってルビ振ってあったけど、
毛利家スキーの先輩方が「しょうじゅ」だって言うんで、どっちなのかわからないの……

でもって、鹿ちゃん。
なんだろう、この熱血体育教師ちっくな雰囲気は。
いやいや、武略で雪の中行軍させてるのはわかるけど、雪とか寒さ対策しとけよ!
そこはかとなく「根性で乗り越えろ」みたいな勢いを感じるよ!

「固屋」ってのは「小屋」のことかなーとか途中まで思ってたのですが、
島根県雲南市の西日登ってところに、「固屋畦城跡」てのがあるみたいだね。へえぇ。
おそらくここのことなのかな。

さてさて、輝弘の乱も終わったことだし、次章から出雲情勢に入るよ!
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