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2012-08-20

毛利勢、出雲発向(才寿といっしょ)

だいたいの流れ:
・山中鹿介・立原源太兵衛尉らが尼子勝久を奉じて出雲入り&勢力急成長
・元春&隆景は九州へ出張してたが急遽呼び戻される
・山口に大内輝弘乱入、しかし帰ってきた元春によって無事成敗される

そして少し時が経って、元亀元年のお話。


出雲の国比部合戦のこと(1)

翌元亀元年正月十六日(永禄十三年四月二十三日改元)、尼子左衛門尉源勝久を討伐するために、
毛利右馬頭輝元様、吉川駿河守元春・嫡子同治部少輔元長・三男又次郎経言・小早川左衛門佐隆景は、
芸陽を打ち立って、出雲路を目指し急いで進軍した。

又次郎経言は当年で十一歳になった。
父の元春の前に行って、「今度は尼子勝久退治のために出張りされるとのこと、
私もお供して、一方の先陣を務めたく思います」と言った。
すると元春はとても嬉しそうに笑って、
「おまえの気持ちは立派なものだけれども、あと二年ほどは待っていてくれ。
今戦場に行ったとしても、あまりに幼いから、ほとんど何もできないだろう」と言う。
経言は重ねて何度も頼んだけれども、元春は絶対に許さなかった。

経言はあきらめきれず、兄の元長と母親にこのことを嘆いた。
元長は母の前に行って、「経言は今度出雲へと罷り上がりたいと望んでいるようです。
召し連れてくださるように、私からも元春公へ申し上げるかどうか、
母上のご意見をうかがいたい」と言った。

母は、「元春は、経言はまだ幼いからといって、今回はお連れにならないとおっしゃっているそうですね。
武将の子というものは、幼いとはいっても、戦場に臨みたいと望むなら、
それこそ父にとっては望むところではありませんか。
連れて行くのが当たり前というものです。
たとえその子が戦場に行くことなど自分からは思いつくことのない人間であったとしても、
いろいろと手を打って連れて行くべきだというのに。
経言は幸いにも生まれつき勇が備わっていてこうして望んでいるのに、
それをお許しにならないのは、子を思う親の道ではありません。
現在名将として名を知られている元春の仰せは、愚かな私の考えとは違うようですね」と、
非常に腹を立てた。

元長は「ごもっともなご意見です」と言って、父の元春へと、母のこの言葉を伝えた。
すると元春は莞爾と打ち笑って、「母と経言の望みは一緒なのか。では一緒に連れて行こう」と、
経言を連れて行った。

同二月八日(正月下旬)、輝元・隆景が津賀に着陣すると、元春父子三人は先陣として赤穴に陣を張った。
ここで出雲・石見の勢が合流して、総勢一万三千余騎となった。
このとき芸陽勢の数が日ごろよりも少なかったのは、大友が豊前へ発向したと報告があったので、
宗像・高橋に加勢を送るために、防長の勢はすべて残し置いていたからだった。
また南条・山田・小鴨・北谷・福頼・福田・小森などは、
武田高信が尼子勝久に一味して伯耆へと攻め入ろうとしていたので、
その押さえとして皆自分の城を守っていたので、一人も出雲へは出てこなかった。
備中・備後の勢の半分は、三村のような自国の敵と衝突していたし、
宇喜多も勝久に同調していて美作の高田表の芦田に援兵を出していることが明らかになったので、
その押さえとして国に残し置かれていた。
また出雲に出張りしてきた者たちも、自分の城が心配で、十分な数の軍士を国に留め置いていたので、
従来の兵数の三~四割にも及ばなかった。

同九日、福山次郎左衛門・遠藤神九郎(秀信)・川添右京亮が五百余騎で籠もっている
多久和の城を攻めようと、元春の一手を先陣として打ち出ていった。
吉田旗本勢も、福原などが馳せ加わった。
敵はこのことを聞いて同日の夜半に城を空けて退却していったが、これを逃すまいと追いかける。
尼子勢はところどころで踏みとどまって抗戦し、戦死した者は七十余人に及んだ。

元春の先陣、杉原盛重の手勢では高橋右馬允・壇上献物・佐田彦四郎・安原神二郎・同民部少輔、
元春の郎党では朝枝市允・小河内石見守・黒目市右衛門・江村源二郎、
高弥三郎・二山美濃守、三刀屋の郎党では坂田彦六右衛門、
吉田勢では南方宮内少輔・井上民部少輔・末国与次郎・羽仁藤兵衛尉・福原宗右衛門、
平賀の手勢では桂右衛門允・東村平内・阿曽沼の若党の井上源右衛門などが分捕り高名した。
吉田衆の井上又右衛門が討ち死にした。
吉川勢にも笠間刑部少輔をはじめとして、怪我人が数十人に及んだ。
川添・福山・遠藤たちは、命はどうにか助かったものの、ほうほうの体で布部へと逃げていった。

鹿介・源太兵衛尉が逃げ帰ってきた者たちに「敵の兵力はどのくらいあるか」と問うと、
「一万五千と聞いていましたが、二万以上はいると思います」と答える。
皆これを聞いて、「臆病神にとり憑かれているからそんなことを言うんだろう」と笑った。

さて元春・隆景は、中国の国侍、そのほか吉田の重臣の福原・桂・志道・口羽に向かって言った。
「今回は輝元が初めて総大将として出陣されているので、
どうにか策謀をめぐらせて敵を引き寄せ、華々しい一戦を遂げさせて差し上げるようにと、
元就公が我ら二人に仰っていた。
敵はおそらく道の途中に物見や物聞きを放ってこちらの陣取りの様子を探らせ、
兵力の規模をつかもうとするだろう。
大勢だと知れてしまえば、敵が城から出てきて戦うことはないだろうから、
敵を誘い出すために、人数が少なく見えるように陣を取り、
また味方の一万三千の勢を一万余騎と発表してほしい。

また、『今回は兵力が少ないので、道中の宿場で一戦するのも危険だ。
まずは月山冨田城に兵糧を入れたらすぐに引き揚げ、再び防長の兵を残らず掻き集めて合戦に臨もう』
というように、敵に伝わるようにしてくれ。
このことは吉田で定められていたことだけれども、敵地に近くなってきたから念を押した。
固くこれを守るように」

案の定、鹿介が石見路から宿泊の宿ごとに付け置いていた忍びの者たちが馳せ帰り、鹿介にこう語った。
「芸陽勢は一万ほど集まっていると聞きました。
防長と備中あたりに押さえのための勢を大勢差し置いているので、
今回はいつもより兵数が少ないようです。
まず冨田の城に兵糧を入れて加勢を籠め、そのほかの味方の城にも、
落城しないように人数を入れて引き揚げるつもりだとのこと」

また石見の一揆勢も鹿介に志を通じている者がいたので、同じようなことを通告してくる。
鹿介・源太兵衛尉たちは、この報告を受けて会議をした。
「元春・隆景は、今はとても勝てないと思って危険な合戦を延期し、
再度大軍を催して必勝の合戦をしようと考えているらしい。
そうはいっても、我らの味方があちこちに抱え置いている城は、
布部・守山・丸瀬・熊野・古志・高瀬・末次など十五ヶ所に及んでいる。
そこに二百や三百、あるいは五百ほど籠め置いている。
もしこれを一つ一つ攻められたならばひとたまりまないだろう。
あちこちの勢を集めて布部あたりに陣を取り、冨田の城へ兵糧を入れようとするところを妨げるようにして、
足軽などを少々けしかけてみよう。

しかし本来なら合戦は避けたいところだ。
味方の勢は五千以上にはならないが、敵勢は少ないとはいっても一万はいるだろうから、
少数の兵で大勢に勝つというのは難しく、いたずらに犠牲を出してしまうだけかもしれない。
これもまた謀の一つなのだ。
戦を慎んだとしても、芸陽勢がはるばるここまでやってきて冨田の城に兵糧を入れ、
引き返そうというのを横目で見ているだけでは、こちらが敵の大軍に臆していると、
敵味方ともに言い募るだろう。
また勇もなく、智謀も十分ではないと世人に嘲笑われるだろう。

だからまず布部へと打ち出て、陣取りを猛勢に見えるようにすれば、
今回はただでさえ隆景・元春は戦を慎もうとしているのだから、
我らが案外にも猛勢だと思えば、それこそ一戦しようなどという気はなくなるだろう。
また、勝久自身がご出陣されれば、尼子家の兵数を敵に見透かされてしまうかもしれない。
だから我らだけで打ち向かって、まだ大将の本陣に大勢がいるに違いないと、
敵に印象付けてやろうではないか」
ということで、勝久を末次の土居に差し籠め、山中・立原などが一千余騎で出発した。

勝久は諸軍勢に向かって、
「毛利勢はここまではるばる上ってきたのだから、きっと痛烈な一戦挑んでくるだろう。
そのとき一番鑓を突き入れた者には、以後の証拠のために、この刀脇差を与えよう」と、
兼光の刀を取り出し、
「味方の中で誰がこれを手にするかな。お粗末な戦をして、芸陽勢に笑われるな。
これまで何度も合戦に打ち勝ち、高名を極めていたとしても、ここで下手を打てばすべてが無駄になるぞ。
どうか皆、身命を惜しまず戦って、武勇の名を上げてくれ」と演説した。


以上、テキトー訳。続く。

え、鹿介さんが謀略を練ってる? そんなことはどうでもいいのだよ。
我が広家ちゃんの初従軍の話じゃまいか。
「経言」ってなってるけど、この時点ではまだ元服してないから、本当は「才寿丸」だね!
ついでに言うと元長もまだ初名の「元資」だったころだね!
それにしても吉川のカーチャン強えぇ!!!
このへんから、次期当主の嫡子の意見より、
現当主の妻の権限の方が強かったんじゃないかなんて邪推してみるけど、どうなんだろうね。

あと「輝元にどうにかして見せ場作ってやらなきゃ」って気を回す叔父ズとか吉田衆、好きです。
実際そのころの輝元→元春の手紙に、
「次の出雲出兵はどうしても出馬したいからよろしく!」みたいなこと書かれてたんだよな。
おそらく隆景にも同じような頼みごとしてるはず。輝ちゃんかわいい。

そんなわけで次回、続きから。
けっこう尼子再興軍との抗戦模様は丁寧に描写されてるみたいだな……

そういえば今日は鹿介さんの現行暦での命日だそうで(旧暦では7月17日)。
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