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2012-08-28

牛尾VS牛尾!?

そういえばブログ始めて1年が経過したわけですが、
こんなたどたどしい進行を見守ってくださった訪問者の皆様、ありがとうございます。
調べ物をしていてこんなところにたどり着いてしまった方はご愁傷様でした。
記念記事のテーマが思いつかなかったので(やりたいテーマはあれど能力が追いつかない><)、
ちょっとだけ旅行してた吉川史跡(ただし静岡)レポを、次の休日に練り練りしたいと思います。
さて陰徳記、まだ半分も読んでないから、まだまだ懲りずに続けていくよ!

だいたいの流れ:
毛利VS尼子再興軍の初の主力合戦は毛利方の勝利で幕を閉じた。
討たれたかと心配されるもひょっこり生きて戻って元気に指揮する鹿介、
総大将輝元の快勝の報にデレるジジ就。
しかし本当の戦いはこれからだ!


出雲野区に三笠城没落のこと

出雲の国牛尾(海潮とも)の高平の城主、牛尾豊前守は、昨年から美作の舛形の城番として上っていて、
その城には牛尾の女房と養子の大蔵左衛門尉が籠もっていた。
しかし大蔵左衛門尉はまだ幼少だったので、牛尾弾正忠(信久)は、
その城を攻めればたいした抵抗もできないだろうと考えて、
山中鹿介に加勢を乞い、大勢で舛形城に押し寄せた。

大蔵左衛門はまだ幼少だとはいえ、ここ心栄えは勇健で、
大勢の敵にも少しも臆すことなく、身命を捨てて防ぎ戦った。
豊前守の女房は武田刑部少輔信実の妹である。
武田元繁にとっては外孫であったが、とても気丈な女で、昔の葵や巴などにも劣らぬ女だった。
女房が兵たちに戦の下知をなし、堅固に城を守ったため、
弾正は最終的に高平の城を落とすことができずに、三笠山に城を構え(牛尾城)、
自分はそこに立て籠もって、隙あらば舛形の城を攻め取ってやろうと、毎日足軽をけしかけて、
合戦がやむことはなかった。

そして元亀元年四月十五日、輝元様・元春父子・隆景は、三笠の城山を見るために打ち出てきた。
吉川衆の今田中務はこれまで故郷にいて、香川兵部大輔は美作の高田に在番していたので、
この二人は先日の布部の合戦に参加できなかったのを無念に思っていた。
同十六日、二人は手勢の郎党たちを連れて三笠の城の三の曲輪の小屋を攻め落とそうとして陣を出た。
これを見て小坂越中守は
「どういうことだ。あの二人には物でも憑いて狂ってしまったのか。
あの大勢籠もっている城へ、たったわずかの勢で攻めかかったとしても、
勝利できるわけがないではないか」と強く制止した。

二人は耳にも聞き入れずに駆けていったが、
それを見て黒杬宗右衛門・足立彦右衛門なども続いて駆けていったので、
小坂も制しかねて後についていった。
岡又十郎と途中で行き会い、岡が「小坂殿はどこへ行かれるのですか」と尋ねると、
小坂は「あの物狂いどもが小屋を落としに行くので、あまりに心配で、後について行ってみます」と答える。
すると岡は「では私も同道いたしましょう」と言って、二人打ち連れて進んでいった。

こうして小屋の近くに詰め寄っていくと、敵が百四、五十人ほど出てきて、弓・鉄砲を撃ちかけて防戦する。
寄せ手の二百余人は無二にかかって鑓で叩き立て、敵を城中へと追い込んだ。
城からも門を開けて打って出てきて、しばらくの間は押し返して戦っていたが、
太刀打ちできずに逃げ入っていく。
このとき香川の手勢の鑓櫃弥三郎という者が矢に当たって討たれてしまった。

寄せ手は勝ちに乗って柵の木を切り破り、香川兵部大輔が一番に乗り込もうと塀に走り寄ろうとしたが、
城中から大石・小石を間断なく投擲してきたので、香川はたちまち岸から下へ打ち落とされた。
香川は目がくらみめまいに襲われて、しばらくしゃがみこんだまま心を取り静めた。
後から続いた小坂・黒杬も同様に石で打たれて引いたので、
このとき今田中務一人だけになって残っていたものの、
これもまた城中から投げられた茶臼で正面を強打したので、
さしもの力持ちの今田にとっても痛恨の一撃で、しばらくは立ち上がれもしなかった。
岡はこの様子を見て、ここで怪我をしても意味がないと思い、石の陰に隠れていたので、その身は無事だった。

これを見て城中は威勢を取り戻し、「あれを討ち取れ」とばかりに
七、八十人ほどが鑓・長刀・太刀などをそれぞれ手にして出てきたが、
吉川衆の者たちはまたばらばらと立ち上がって敵を追い立てる。
そこで「今はこれまで、早く退却するぞ」と一気にサッと引いてきたので、今度は敵も追いかけてこなかった。

元春様はこれを聞き、「命令もなしに敵にかかっていってはならないと掟を出したばかりなのに、
このような振る舞いをするとは、まったく常軌を逸している」と激怒した。
元就様も元春と同じように裁定してしばらくは対面も許さなかったが、
緒軍勢の目の前で比類のない戦いぶりを見せたので、勇猛さはよくわかったと深く感じ入ったそうだ。

同十七日、「この城を切り崩してしまえ」と命令があったので、
十六日の夜半から血気にはやる若者たちはすでに切り岸に押し寄せていた。
こんな様子ではこの城を守りきることはとてもできないと思ったのか、
牛尾弾正の弟で隣西という僧が、
「降参しようと思います。許していただけるなら、
兄の弾正に申し聞かせて、城を明け渡すように説得します」と申し入れてきた。
これを了承すると、牛尾の運も極まったのか、手違いで城中の小屋から火の手が上がった。
寄せ手は「さてはどこかの口から切り入って火をつけたのだな」と言うが早いか、
皆我先にと乗り込んでいった。

井上肥前守がただ一人で甲の丸に一番に乗り込むと、
牛尾弾正忠・弟の隣西堂が二人がかりで鑓で突き立てた。
井上は気持ちばかりは猛々しく勇んでも、敵は数十人、味方は自分一人しかいないので、
城戸の外へと引いていく。児玉兵庫助も弾正と渡り合って戦った。
弾正忠はなかなかの剛の者なので、残念ながら二の戸・三の戸を攻め破られてしまったら
もうどうしようもないと思ったのだろう、敵に名乗りも上げさせずに突き合い、
切り伏せ、命を限りに攻め戦った。

内藤河内守・今田中務少輔・香川兵部大輔・森脇采女正は、甲の丸に乗り込もうとして、
構え置いてある枝切戸を切り破ろうとしていた。
そこに、恩田与一左衛門・飛石宗兵衛尉・岩田・熊谷(くまたに)などという牛尾の郎党たちが、
ここが先途とばかりに防ぎ戦った。
けれども寄せ手は大勢なので、ついには枝切戸を切り破り、皆分捕り高名を果たした。
森脇・香川も続いてくる敵を突き伏せて首を取った。
今田中務は門井の何某と切り結んだが、この門井こそ討ちもらしたものの、他の兵の首を取って差し上げた。
塩屋孫二郎もよく敵を討った。

牛尾弾正忠は、鑓も散々に折れてしまったので、太刀を抜いて切って回っていたが、
多くの敵と渡り合って、ここかしこに数ヶ所の深手を負っていた。
もはやこれまでと思ったのか、太刀を投げ捨てて猛火の中に飛び込み、焼け死んだ。
弟の隣西堂はまだ討たれずに戦っていたが、兄の行動を見て
「火裏に清水を汲む(火の中から清水を汲み上げるような自由自在な心のありようのこと)」と呟くや否や、
自身も火の中に飛び込んで死んでしまった。

牛尾の女房は十歳ほどの子をそばに連れて、白い小袖に赤い手拭いを鉢巻にして、
太刀を持って切って回っていたが、夫の様子を見ると、我が子を抱いて火の中へ入って焼け死んだ。
類まれなことである。

その後、その城には牛尾豊前守が移って籠もっていたが、
雨の夜などには、弾正の女房が十歳ほどの子供の手を引いて泣き悲しんでいるところに行き合う者が多かった。
きっと狐が人をたぶらかそうとしているのだろうと疑って、
聖道の僧を招聘し、荒神供(三宝荒神を供養する法会)などを執り行ったが、
なおもその幽霊は鎮まらなかった。
それならその女房の苦しみを救おうと、堤婆品一巻を読誦し、「南無幽霊出離生死」と回向をした。
その後は成仏解脱したのか、その女房の幽霊に会ったという者はなくなった。

こうして翌日の十八日には、寄せ手は十倉へ陣を替え、やがて熊野、高瀬の城を攻める軍議を始めた。


以上、テキトー訳。

敵味方に牛尾が溢れてて何ながんだかわからないよ……!
すごいややこしいよ!!!
とりあえず豊前守・大蔵左衛門父子が毛利方で、弾正が尼子方なのは理解。

まあそんなんはどうだってええねん。春継!
やんちゃし過ぎなんじゃないの、春継!!!
九州で抜け駆けしたときだって、元春が「困ったやつだ」なんて言いながら、
「でもなかなかやるではないか(ニヤニヤ」とか甘やかしてるから、こんな子に育つんですよ!
ちょっとはビシッと叱ってください!
元就も、お仕置きが「しばらく会わない」ってのはどういうことなのwwwww
そんなわがままプリンセスみたいなジジ就様もステキですけどね、ええ!
こんなやんちゃを繰り返しつつ、叱られたり大きな愛に包まれたりしながら、
春継は立派な広家の執事に育っていったんだね。ホロリ。

あと、女の人が戦ってるのが今回のハイライトだね!
豊前守の女房は下知するシーンだけだが、弾正の妻は太刀抜いて戦うんだ、すげえ。
子供もろとも焼身自殺するわ幽霊になって祟るわ、アグレッシヴなお方だのぅ。
やっぱり城の守備戦となると、女性の出番が増えるのかね。

そんなわけで、次回も続きを読んでいくよ!
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