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2012-09-03

荒ぶる正矩

昨晩陰徳記も更新しようと思ったけど、
不注意で打ち込んだテキスト全消ししちゃったテヘペロ☆

これまでのあらすじ:
毛利に忠誠を尽くした三村家親が宇喜多直家に謀殺され、元春に泣きついてきた三村兄弟を尻目に、
宇喜多に丸め込まれた?隆景&安国寺恵瓊&宍戸隆家主導で三村一家が滅ぼされた。
まぁ吉川視点(それも後世の)なので、解釈の違いは大目に見るとして。

今回はハイパー宍戸家sage回なので、宍戸家好きにはオススメしません(´・ω・`)わりと真面目に。


三村一家滅亡のこと(下)

こうして備中の国を無事に平定すると、元清が穂田の家に入って、
毛利の名字を改め、穂田治部大輔と名乗り、隆景の手に属してあちこちに睨みを利かせた。
そして木の実の城には宍戸安芸守から佐々部美作守を籠め置き、
杠葉の城には元春から今田上野介が入れ置かれた。

今回、宍戸隆家の武勇は諸人より優れていた。
そのうえ宍戸は元就様の婿なので、褒章も並大抵ではなく、
備中の侍たちを少々与力につけられて、再び南北の中筋の先陣に定められた。
北前は元春が掌握して、その裁量で杉原播磨守には宍道五郎兵衛尉・河口刑部少輔・
吉田肥前守などを与力として配置し、また南条豊後守には山田出雲守・小森杢允などをつけた。

宍戸に備中の侍がつけられ、中筋の先方を任されたのを見ると、
杉原・南条と似たようなものに思えるが、そうではない。この二人は伯耆の国人である。
宍戸は他でもない元就様の婿なのだから、雲泥の差がある。
こうして言うと、宍戸が元春・隆景に肩を並べているかのようにも思えるが、
これは同列に論じる問題ではない。

宍戸の名誉のために言えば、昔、源二位頼朝が木曾並びに平家追討のために、
範頼・義経を派遣した際に、安田遠江守義定にも兵を預けて同行させた。
『東鑑』では三将が並び立っているように見える。
しかし範頼・義経とこの義定とを同列に論じるべきではなく、
だからこそ『平家物語』にも載っていない。
義定は範頼に従ったとも言われ、また義経の手に属したとも書かれている。
宍戸もこの義定と同じである。

それを、元就・元春・隆景が亡くなってはるかに年月が経ったころに、
元就様の戦の歴史を記録するためだと言いながら、一人の奸人(深瀬忠良か)が、
宍戸に媚びているのか、はたまた吉川・小早川に遺恨でもあるのか、
嘘をでっち上げて世人を誑かそうとした。

それにはこうある。
「昔、世には『三家』といい、中国では『三殿』とも崇められたのは、
毛利・吉川・小早川ではなく、吉川・小早川・宍戸である。
隆家は元就様の嫡女の婿だったのでこう呼ばれた」と、
口を曲げて目を瞬かせて言い募り、言いふらしたばかりか、筆に任せて書き記した。
それに、このごろの若者たちは昔のことなどまったく知らないのだから都合がいい。
ただこの虚説を本当だと信じ込んで、かえって
「毛利三殿とは吉川・小早川・宍戸なのだろう。
それを毛利・吉川・小早川だと思っているとはおかしなことだ」などと言い出す。
これはまったく、伴天連宗の邪説を信じて、仏法・神道を外道だと考えるのと同じことである。

私が本当の「三殿」と言い伝えられているものをここに記そう。
世の人はしっかりと聞くがいい。
まず、三殿と崇められ、毛利三家と呼ばれるのは、
元就公の嫡子隆元公・次男元春・三男隆景のことである。
この三人ともが元就公の本妻の御腹なので三殿と呼ばれている。
母君はいずれも吉川国経の息女である。

また毛利三家というのは、吉川・小早川がどちらも他家であるとはいっても、
根本は元就公の子供であるからこそ、人々はこう呼んだのだ。
三村三家というのも、皆家親の子供であって、婿ではない。
また因幡・但馬の山名には一族が多いので、「村々殿にねりついぢ」と国人たちのことわざに言うのも、
すべて山名の流れであって、婿の例はない。
毛利家だけがどうして婿の宍戸を毛利三家に含むというのか。
もし婿だからといって宍戸を毛利三家に含めるのであれば、
備中の上原も加えて「毛利四家」と言うべきだろう。

宍戸は元就公の婿だからこそ、確かに他の国人たちとは段違いに崇敬されている。
しかし、元春・隆景と同列に論じるものではない。
たとえ今、虚言を構えて言いくるめ、諸人を誑かすことができても、
元春・隆景が存生のときには、人々が隆家を元春・隆景と同格だと思っていなかったという証拠がある。
これをすべてあげつらっていけば膨大な量になるので、だいたいの要所を記しておく。

まず大友入道宗麟が元就と和平したとき、その誓紙にも「元就・元春・隆景」の三人の名を書いた。
また公方義昭卿が信長と敵対したときには、和睦を勧めるために、
輝元公からは林杢允・安国寺恵瓊を、元春からは井下左衛門尉を、隆景からは兼久内蔵丞を差し遣わした。
このときに宍戸から誰が遣わされたというのか。

また宍戸の担当である備中高松表で羽柴筑前守秀吉と対陣し、互いに和睦したときには、
秀吉の神文にも「輝元・元春・隆景」の三人の名がある。
ちょうどよく宍戸の支配地域なのだから、その神文に宍戸の名が載ってもよさそうなものだが、
そんなことはなかった。
これは吉川・小早川と宍戸が同格ではないという証拠である。
三殿と呼ばれ、毛利三家と唱えられていたのであれば、
このときどうして宍戸の名が書き漏らされたというのか。

またこの和議の後、秀吉が天下の権勢を握ったので、その一礼として、
小早川隆景からは秀包、吉川元春からは侍従広家(そのころはまだ民部大輔経言といった)が
人質として送られた。
宍戸からは、子息にしろ兄弟にしろ一人も送っておらず、これもまた宍戸が三家ではない証拠ではないか。

またその後、隆景・元長が大阪に上ったとき、秀吉はたいそうこれを喜んで、
自ら隆景・元長の二人を案内して天守に上り、家之子郎党にまで引き出物を贈った。
このときにも宍戸備前守は上らなかった。これもまたそうではないのか。

その後秀吉が九州征伐を号令したとき、毛利三家を九州へ差し渡すとの朱印状が諸将に多く発行されている。
ここにあるのも「輝元・元春・隆景」である。
また「輝元・吉川・小早川を差し下す」と書かれた朱印状もある。
宍戸のことはまったく書かれていない。

またその後、輝元公・隆景・広家が聚楽第へ上洛した。
世俗にはこのことを「毛利三家の上洛」と言う。
このとき秀吉の思し召しで、この三人は同名の羽柴の名乗りを許され、姓もまた同姓の豊臣に改められた。
桐の頭の紋も賜った。このとき宍戸がこの三将と同様に上洛したと言うことを聞いたことはない。
また秀吉から羽柴・豊臣などの氏姓を賜り、官位を与えられたとも聞いたことがない。
これも宍戸が毛利三家ではない証拠ではないか。
また三家・三殿である吉川・小早川と同様には名を称揚されなかった証ではないか。

虚言をなして虚説を書き立てる佞翁は、
宍戸が三家の一つで吉川・小早川と肩を並べたという証拠を出せるのだろうか。
この三家のことについて、このような歴々たる証拠が速やかに出てくるというのに、
それを曲げて言い募り、宍戸を称揚し、
吉川・小早川を抑制するために、こうして根拠のないことを捏造するのは、
その本人の愚蒙佞奸を世に曝け出す行為である。恥を知るべし。
ああ、この有害な男、家の恥を外に向かって曝し上げる佞翁が記した書が事実ではないことは、
まさに漁夫や樵でさえことごとく話題にしている。

今ここで三家の論を明らかにしたのは、意味のないことのようであるが、
私がこの書を書こうと思い立ったとき、一人の佞翁がいて妄言を吐き偽書を出し、
これが世の人を誑かしていた。
その邪説を打ち破らんがために、私は自分の粗末な筆を墨に染めたのである。
世の人よ、皆目を開いてこれを見よ。


以上、テキトー訳。この章はおしまい!

見てるよ!
わかったよ正矩、宍戸は「毛利三家」でも「三殿」でもないんだね。
あと正矩は深瀬忠良っていう宍戸の一族に対して妄執ともいえる
憎しみのような感情を抱いているんだね……
でもはっきり言って、三村攻めの話とは関係ないよね(´・ω・`)

この深瀬さんという人は、毎度のごとくツイッター仲間からお聞きしたところによると、
「宍戸記」というのを記した人らしい。
人名でググっても出てこない情報を持ってるとかすごい(゚▽゚*)
近デジで読めるそうだから、気長に該当箇所を探してみるか……
もしかしたらこの正矩のクレームのせいで、出版までに削られてるかもしれないけどw

しかし正矩が「陰徳記」を記したモチベーションが「深瀬翁憎し」だったのなら、
私は深瀬さんに感謝しなければ。
おかげさまで気の遠くなるような時を超え、楽しく陰徳記を読ませていただいてます(*´∇`*)
みんないい仕事したね……このへんのゴタゴタ面白そう……おっと。

次章はまた尼子再興軍との戦争に戻るよー! ヒャッハー!
まぁ明日は更新できそうにないんですけどね……
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