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2012-10-13

木津川口海戦

だいたいの流れ~というか、これまでと場面が異なるので、
それはナシでいこう。
ようやくあの胸のすくような海上戦が……!


大坂の城へ兵糧を入れること

大坂の城に籠もっていた顕如上人は、信長と敵対していた。
上人から使者が遣わされ、「輝元・元春・隆景をひとえに頼りにしている」との連絡があったので、
すぐに大坂へと飯田越中守(元著)が差し籠められた。
その後、木津の城には粟屋内蔵丞、花隈の城には香川美作守・杉次郎左衛門などが交代で入れ置かれた。

さて大坂の城の兵糧が乏しくなると、中国から食料を送って欲しいと頼まれたので、
それでは兵糧を援助しようということになった。
六、七百艘の船に兵糧を積み、警護船を三百艘ほど差し添える。
今回上坂した者たちは、児玉内蔵丞・粟屋内蔵丞・香川左衛門尉・村上八郎左衛門・
浦兵部丞・野島大和守・同掃部助・同三郎兵衛尉・井上又右衛門・遠藤左京亮らであった。
この船団は、天正三年七月上旬に播磨の室の津へと着いた。

信長卿は木津川にも大安宅船を三艘作って川口を塞いでいたので、
まるで城郭を構えたかのようで、敵対する勢力の船が入れるようには見えなかった。
中国勢は物見を出して、京勢の様子を見てこさせた。「
敵は大安宅船三艘と、そのほかの兵船が三百余艘を従えて、通路を塞いでいます。
どうやって大坂に入ればいいのか、見当もつきません」という報告だった。
このことがあって、「どうやって大坂に入ろうか」と、会議が重ねられた。
まずは射手の船を差し向けて敵の合戦の実力を確かめようということになり、
数十艘を毎日漕ぎ寄せていると、川口からも敵が漕ぎ出してきて小競り合いをした。
こうしたところに、紀伊からも鈴木孫市が出てきて室の津へと下ってきた。

こうして合戦の評定ばかりして、日々だけが過ぎていったが、
木津・尼崎を挟んで敵船が多く並ぶようになったので、いよいよ大坂に入る手立てがなくなった。
「けれども、このまま数日を過ごしてしまえば、勇や謀が稚拙なように見える。
いざ無二にかかって敵船を切り崩そう」と、
兵船を先に立て、糧船を後ろにつけながら大坂目指して漕ぎ入っていった。

敵は、大和の住人の間鍋主馬兵衛尉・沼野伊賀守・同越後守・河内の住人の杉原兵部丞・
宮崎鎌太夫・弟の鹿目助・寺田又右衛門・尼崎の小畑・花隈の野口などが
射手船三百余艘で漕ぎ出して、懸命に防戦した。
それでも、中国船には能嶋をはじめとして船戦の妙を代々伝えてきた家が多く、
船を自在に操るので、敵船は非常に手を焼いた。
浦なども、近年は船戦では何度も勇を顕わしており、その奥儀を学んでいたので、
能嶋に劣らない戦いぶりだった。
中国勢はすぐに勝ち色になって、徐々に敵船を押し立てていった。

敵の大船が一艘退却しようとしていると、
村上八郎左衛門尉が船をぴったり押し付けようとして追いかけ、すぐ間近にまで迫った。
船頭が「船を敵船に付けますか」と尋ねると、
八郎左衛門は「言うまでもないだろう。早く付けろ」と答えたので、船をぴったりと付けた。
敵は艫に鉄砲を構えて、一番先に進んで船を付けようとしてくる兵を一人撃ち倒したので、
船は三、四間ほど後退する。
八郎左衛門がしきりに「押し付けろ」と下知して、また押し付ける。
敵もまた鉄砲で応戦してきた。

八郎左衛門が真っ先に進んで一番に敵船に乗り移ったので、郎党たちも我先にと乗り移る。
敵が八郎左衛門の股をしたたかに突いたけれども、八郎左衛門は少しもひるまずに、
その敵を突き倒して首を取った。
手の者たちもそれぞれ分捕りしたので、その船は難なく乗っ取ることができた。

浦兵部・井上又右衛門・香川右衛門丞などは、皆敵船に乗り移りながら戦って、
無事に大安宅船を二艘手に入れた。
そのほか、手に入れた敵の小船は数えることもできないほどだった。
敵は堪り兼ねて水中にひらひらと飛び込み、陸のほうへ飛び込んだ者は命が助かった者も多かったが、
沖のほうへ飛び込んだ者たちは、一人残らず水底の藻屑になり果てた。

寺田は水中へ入って泳ぎ回り、ついに力尽きて溺死した。
間鍋主馬兵衛尉・野口・小畑・沼野伊賀守・同越後守・杉原兵部丞・同鹿目助たちは、
一人残らず討ち取られた。

こうなると、中国勢は船戦に勝っただけでなく、敵船をたくさん分捕ることができ、
大坂にも思うがままに兵糧を入れて、喜び勇んで漕ぎ帰っていった。

このとき、児玉内蔵丞は高砂に船をかけていたときに、
「桓温は昔、嘆いきながら枕に伏してこう言った。
『男子たるもの、よいことで後世に名を残すことができないのなら、
いっそ末代まで悪名を残してやりたい』とな。
私もどんな悪逆を犯してでも、なを後代に残してやるぞ」と言って、
相生の松を切って船中の薪にしてしまった。
すると神罰がたちどころに当たり、内蔵丞は白癩(ハンセン病ではないかとされる)を病んで、
眉も鬚も抜け落ちてしまった。不思議なことである。
昔の人が、「もし人がよくないことをして名を上げたとしても、必ず天誅を蒙る」と言い習わしてきたのも、
真実なのかもしれないと思える。


以上、テキトー訳。

何やってんすか、児玉さんwww
せっかく海上戦がすごくかっこいい!って感動してたとこだったのに。
この感動がぱっさぱさ!ぱっさぱさだよ!感動がぱっさぱさ!どうしてくれんの内蔵丞><

でも焙烙玉やら焙烙火矢のことがこれっぽっちも書かれてないのな。
ちょっとびっくり。

さてさて、浦兵部は有名な乃美宗勝のことだね。
この人は本当にさすがだよなぁ。ものすごく有能なにおいがする。
だてにS景さまに仕込まれてないわ。
井上又右衛門(春忠)さんも、隆景の腹心だね。
海上戦は小早川勢の独壇場ですな。

そんでもって村上八郎左衛門、この人の名前は初めて見た気がするけど、
景広という人のようだ。
隆景死後も毛利のために尽くしたけど、関ヶ原後の大減封にともなって毛利家を離れたんだね。
ウィキペさん毎度お世話になりますチィーッス!
小早川家臣は、関ヶ原の後に毛利家を離れてるのが多いらしい。
それで黒田とか細川とかに再雇用されてたりする。
黒田家譜が隆景大絶賛なのは、黒田に移った旧小早川家臣の影響も強いような気がするけどどうなんだろう。

と、思考が流れつつあるのでこのへんで。
次章は京と大坂の情勢が主になりそうだ。
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