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2012-10-17

親鸞上人には七人の子♪

一人はのっぽであとはチビ、かどうかは知らんけど、前回の続き。

これまでのあらすじ;
親鸞上人は幼いころから飛びぬけた才能を持ち、養父によって天台宗に修行に出されたが、
あるとき六角堂の観音のお告げを夢に見てから、浄土宗の法然上人の弟子になった。
法然が左遷された際には親鸞も連座して遠流に処されたものの、
行く先々で盛んに強化を行った。

というわけで、その念仏宗がどうやって毛利の戦に絡んでくるのか。


親鸞上人の系図のこと、付けたり信長が本願寺を所望すること(下)

親鸞上人には四男三女があった。
はじめは卯信、二番目は娘、三番目は善鸞、四番目は明信(栗沢信運房と名乗る)、
五番目は道性(従五位下大夫出家、益方大夫入道)、六番目は娘(高野禅尼)、七番目も娘であった。
この末の姫は、日野左衛門佐広綱の北の方になったが、後に出家して覚信といった。
そのほかいずれも母は九条殿の娘の玉姫であった。親鸞上人にはどんな深い意図があったのか、
四人の男子には血脈を相続することはなく、覚信尼公に相伝し、
「誰であっても覚信から仏法修行をしている人に相続するように」と言った。
上人がまだ生きている間に、善鸞の子息である如信上人に伝授されたという。

二代目のこの如信は、正安二年正月四日に六十二歳で没した。
そして如信上人から覚如上人へと伝授され、これが三代目の祖師となる。
この覚如は観応二年正月九日に八十二歳で没した。父親は覚恵であった。
この覚恵法師の父は日野広綱、母は覚信尼である。
覚如には二子があって、嫡子は存覚上人、次男は従覚であり、後に慈俊房と名乗った。
この慈俊房の子息に、覚如から本寺を譲った。これが善如上人である。
善如は康応元年二月二十九日に五十七歳で没した。
次の綽如上人は明徳四年四月二十四日に四十四歳で逝去した。
巧如上人は永享十二年十月十四日に六十五歳で没し、
存如上人は長禄元年六月十八日に六十二歳で没、蓮如上人は明応八年三月二十五日に八十五歳で没する。
蓮如まではいずれも皆実子に本寺を継がせた。

この蓮如には男子が十三人いた。
一番目は順如上人、二番目は兼鎮、三番目は兼祐、四番目は康兼、五番目が実如上人、
六番目は兼誉、七番目は兼縁、八番目は兼琇、九番目は兼照、十番目は兼俊、
十一番目は兼性、十二番目は兼継、十三番目は兼智という。
八代蓮如上人は、五男の実如上人に本寺を継がせた。大永五年二月二日に六十八歳で世を去る。
十代は證如といって、天文十三年八月十三日に三十九歳で没した。
この人は、実如上人の孫であった。
父は偏僧院円如上人といって、照如の子であった。

第十一代は、證如上人の子で、現在の顕如である。
文禄元年十一月二十四日に五十歳で亡くなった。顕如には三人の子がいた。
一番上の教如は裏門跡として、慶弔十九年十月五日に五十七歳で亡くなった。
二番目の顕尊は七条奥正寺門跡、三番目の准如は寛永七年十一月二十九日に五十四歳で亡くなった。
この准如が今の表門跡である。

そもそも大坂の石山本願寺というのは、昔の大江殿の跡地である。
元祖から八代目の子孫である蓮如上人までは東山にいたのだが、
その宗派が都で栄えていることを快く思わない比叡山の僧たちが、
挙兵してその坊へと攻め寄せてきて焼き払ってしまった。
この後は三井寺を頼ってしばらく東別所というところに滞在していたのだが、
それから越中へと下向して伽藍を建立すると、たった三、四年経っただけで、
たちまち失火で焼けてしまった。
こうなって、また伏見へと上り、山科に住んだ。

しかしそこも気に入らず、蓮如上人は諸国を修行でめぐりながら、
今の大坂の石山を見つけ、「こここそ仏法が興隆する霊地だ」と感じ、
すぐに本願寺を建立したのだった。
こうして蓮如上人から今の顕如上人まではここに住まい、盛んに教化を行っていた。

そこに信長公が、「大坂の石山は日本に二つとない名城にもできる地だ。
とりわけ西国の押さえにはこれ以上ない場所になるだろう」と考えた。
そして「この石山本願寺を私に譲ってほしい。要害を構えて西国の押さえにしたいのだ。
そうすれば顕如にはどこなりとも望みのままに伽藍を構える地を用意するし、
建立にかかる金銭は、その地で使いきれないほどであっても、また望むとおりに寄進しよう」と、
使者を通じて言い送った。

顕如上人は下間などの家老たちを呼び集め、
「右府信長公のご所望のことだが、どうしたものか」と会議をした。
すると皆一同に、「右府信長公の強欲にはあきれます。まったくの野蛮人だ。情
けを知らぬ大将でいらっしゃるので、今は我らをだますためにあんなことを言っていますが、
この寺の地を受け取ったならば、手のひらを返して約束を破ろうとするでしょう。
蓮如上人がこの地に伽藍を建立なさったからこそ、宗派の繁栄も年を追うごとに盛んになって、
代々ますます栄えてきたのではありませんか。
ここを去ってとんでもない田舎に移転してしまえば、これまで繁栄してきた宗門だというのに、
その教えそのものが衰微してしまうと思います。
どうか、腰を低くして、このことを断ってくださいませ」と諫めた。

顕如上人もこれに同意して、「この寺の土地のことは、お望みに添いたいところではありますが、
蓮如の代からずっとここに居住しており、ここでこそ我が宗派も繁盛してきたので、
どうかこのことを思し召してご堪忍ください」と返事をした。
信長公は「あの坊主め、なんと憎い返事を寄越したのだろう。
だいたい出家というものは、肉を裂き眼をくり抜いてさえ、衆生の望みを叶えるのが当たり前なのだ。
それを、こんな土地ごときを惜しむとは、なんと欲深い奴だろう」と代激怒した。
そしてすぐに内部で会議を開き、「大坂に攻め寄せて門跡父子を討ち果たすべし」と決定すると、
そのための謀略を実行し始めた。

本願寺へもこの噂はしっかりと入ってきたので、紀伊・越前の宗派の者たちを頼りにした。
すると皆我先にと立て籠もり、敵が攻めてきたなら身命をなげうって防ぎ戦い、
仏恩祖恩に報いようと、信心を深くして意志を固めた。
こうして宗門が一致団結して立て籠もると、いかに鬼神を凌駕するほどの信長であっても、
容易には攻め落とせそうになく見えた。


以上、テキトー訳。この章はおしまい。

へぇ、親鸞さんて女人に跡継がせたんだ、てのと、
信長と本願寺のいさかいは、土地のことが発端になってたのか、という2点が驚きだった。
このあたりもちゃんと調べないとなぁ。

とか言いつつ、最近は少し気分がしずんでいるので、
なんとなくこの辺で。

きっかわ出せ。
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