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2012-11-03

尼子「元春がだめなら隆景を倒せばいいじゃない」

だいたいの流れ:
毛利と織田がバチバチ火花を散らそうとしているとき。
火種は他にも燻っていた……!
今回はお久しぶりんこ、尼子勝久・鹿介のお話だよー!


播州上月の城へ勝久が入り給うこと

尼子孫四郎勝久・山中鹿介・立原源太兵衛尉たちは、京都に集まって会議をした。
「毛利家は軍事を二手に分けている。北方は吉川元春、南方は小早川隆景だ。
それで、近年は出雲・伯耆で元春と何度も合戦してきたが、
彼は勇智仁信忠を五材を備えていて、父の元就にも劣らぬ良将だった。
だから元就も大内・尼子・大友といった強敵・大敵を討伐しえたのは、
元春が孫呉の心構えを写し取ったかのような良将で、陣を張れば安定し、守れば固く、
戦えば勝つ方法を自分のものにしていたからこそ、多くいる子供のなかから選んで先鋒を任せ、
そのおかげで今がある。

北方の下口は元春の縄張りだ。
また元春に従っている郎党や国人たちのなかにも、熊谷・杉原・天野といった切れ者や勇士がいる。
将は文武を統べ、兵は剛柔を兼ね備えているので、我らは何度戦っても結局勝つことができなかった。

一方、小早川隆景は智信人勇厳を全備している大将で、国を治め民を撫育する器量が抜きん出ていて、
濁世末代の世の聖人とも言われるような将である。
しかし、用兵のやり方は元春に比べれば雲泥の差がある。
戦国には孔孟は用いるに足らずとも言うではないか。

これはもう、元春との合戦は置いておいて、南方へと下り隆景と合戦してみて、
その強弱を確かめ、どちらであろうとも我が軍が勝利できそうな南方へと向かってみよう」
ということになった。

これまでは惟任(明智光秀)の手に属していたけれども、
今回は変わって羽柴秀吉の手に属し、播磨路へと赴いた。
そしてそこから美作を切り従え、出雲へ入ろうという算段だった。

播磨の上月の城には、宇喜多和泉守直家が真壁の彦九郎を籠め置いていた。
勝久たちはここを攻めようとして、二千余騎で攻め寄せようとした。
このことが伝わると、真壁は大の臆病者だったので、取り囲まれては困ると思い、
取るものもとりあえず城を開けて落ち延びていった。こ
うなると、勝久・鹿介らは易々と上月の城へと入っていった。

真壁の弟の次郎四郎は、兄が逃げ帰ってきたのを悔しく思って、直家にこう言った。
「兵を三千ほどお預けいただければ、上月表へと罷り向かって一戦し、あの城を奪い返して参ります」
この望みを聞いて、直家は
「よく言った。城を捨て、守りを放棄したその恥を跳ね除けようとする者は、
身命を惜しまずに無二の勇をあらわすものだ。
兄が城を捨て逃げ出してきた恥を雪ごうと思い入れているなら、
きっとどうにかして激しい戦いを制し、敵を捕虜にしてくれるだろう」と、
屈強な兵たちを三千余騎差し添えた。

真壁はこの兵を与えられて大いに喜び、
「上月の城を落城させて鹿介たちの首を太刀の切っ先に突き刺して直家の首実検に入れるか、
さもなくば我が命を上月の一の城戸になげうつか。こ
の二つのうちどちらかだ」と、妻子にきちんと別れを告げ、
日蓮宗の題目を書いて笠印とすると、三千余騎の先頭に進んで、上月を目指していった。

その日はすでに暮れようとしていたので、上月城から六十余町離れたところに陣を据え、
合戦は明日しようと、馬の鞍を外し鎧を解いて休んでいた。
山中鹿介はこれを聞いて、
「真壁は兄の会稽の恥を雪ごうとしてこの城に向かってきている。きっと大勢なのだろう。
この城に引き付けてしまって囲まれてしまってからでは、後悔しても意味がない。
少勢で大勢を挫くには、夜討ちより最適な手段はない。
さあ、逆にこっちから攻め懸けていって、敵の不意を打ってやろう」と、
主力の兵八百騎を選りすぐり、合印、合言葉も定めた。

真壁は大勢なので、もし夜討ちで仕損じれば味方が皆殺しにされてしまうと思い、
真壁の追手を引き受けるために、加藤彦四郎が三百余騎で数十町を隔てて備えた。
神西三郎左衛門は五百余騎で、味方の夜討ちの勢と四、五町を隔てて、
味方が戦利を失い退いてくれば入れ替わって戦うか、または備えを固くして退きながら味方を助けるか、
先陣の戦の様子でどちらかに決めようと控えていた。
昼はよく目が見えるから旗などを目印にするものだが、夜は耳を頼りにするものなので、
太鼓や笛を合図にするものである。今夜の戦は、太鼓と貝で行おうと定めていた。

鹿介の八百の勢は、真壁の陣に攻め寄せてあちこちに火をかけると、一度にドッと鬨をあげて突入した。
これは天正六年正月の末のことなので、春というのは名ばかりで、
吹き付ける風もたいそう寒く、絶え間なく降り注ぐ雪は指を落とし肌を裂くような心地がして、
兵たちは身を縮めて伏していた。
それなのに思いもかけずに夜中になって敵が押し寄せてきたので、
鬨の声に驚いて騒ぎ出し、太刀や刀を捨てて、せめて命だけでも助かりたいと逃げ散っていったが、
鹿介の勢はあちこちでこれを追い詰め討ち取った。

けれども真壁は少しも騒がずに床机に腰をかけて、
「運は天にある。退いて逃れられる命ではない。敵と打ち違えて死ねや者ども。
思うに、敵は少勢であろう。たいしたことはない」と静まり返っていた。
とそこに、誰かはわからないが歩行武者が一人走り寄り、真壁を討とうとした。
真壁はこれをキッとにらむと、「感心な心がけだ」と言って、真正面から真っ二つに打ち破る。
安達治兵衛尉はこれを見て間髪入れずに切ってかかった。
真壁は安達を討とうとしたが打ち損じて、両膝を突いて倒れたところで、すぐに首を掻き切られた。
治兵衛尉は何度も武名を上げていたので、弟の慶松にこの首をとらせて、勝久には慶松が討ったと報告した。
そのほか、首は七十余り討ち取ったという。

そして上月の城へ引き返すと、宇喜多直家が数万騎で取り囲もうとしているとの噂があった。
城中には兵糧のたくわえがほとんどなかったので、
鹿介たちは「まずはこの城を引き払い、再び入城することにしよう」と、
勝久とともに摂津へと退いていった。


以上、テキトー訳。

やだっ、尼子さんたら、そんなに元春褒めたら照れるじゃない/////
いやいや、べつに私が照れるべきことじゃないんだけどw
まあね、「隆景に比べて元春は……」って言われ方してるのも何度か見てきたしね。
「元春に比べれば隆景の用兵なんて屁だ」みたいな言われ方を見ると、
ちょっと溜飲が下がるというか……さすが吉川系の軍記だよね(^ω^三^ω^)

そういえば上月城の攻防もまったく予習してないわけだけれども、
最初は宇喜多と尼子の小競り合いだったの???
というところをちょろちょろとぐーぐる先生に聞きつつ進んでいきたいわけだが、
果たしてそんな余裕があるかなぬふふふふ。

来週は自分が主催したオフ会の準備等もあるので、それで更新が滞るかもしれませんが、
まあそうなったら「てんぱってるんだな」と生暖かく見逃してください。
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