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2011-09-27

大塩の最期、興経の処遇

前回のあらすじ:
吉川興経は美童として寵愛していた近江出身の大塩に大権を与え、
大塩は傲慢に振舞って吉川の一族郎党にきつく当たったので、
家中には大塩を恨む者が多かった。
ついに堪忍袋の緒が切れた森脇和泉守(興経の養育係)が吉川伊豆守経世(興経の叔父)に
不満をぶちまけ、二人して、かくなるうえは大塩を誅殺すべしと結論し、時機を待っていた。


吉川治部少輔興経、家老と不和のこと(下)

興経はそのころ、新庄から一里ほど離れた大朝という所に滞在していた。
興経の本妻は宍戸安芸守隆家の妹だったが、容色も美しい女だったのにどうしたことか夫婦仲は悪かった。
大朝に宮庄下野守(経友)の娘を妾として囲っていたので、そこにばかり入り浸っていた。
このときは大朝から仮屋というところに狩に出かけていた。
伊豆守・和泉守はこれこそ好機だとついに行動を起こし、
朝枝修理亮・境の一族らに計画を打ち明けると、もともと大塩をよく思っていない者たちだったので、
境美作守をはじめとして、渡りに船とばかりに喜んで、計画に同意した。

朝枝首里亮は夕方ごろに大塩の宿所に赴き、
「明日、吉田にお使いとして参ることになったのですが、我らの武具はあまりにも粗末なものです。
見栄えが悪いので、大塩殿の薙刀をお貸しいただけませんか」と言った。
大塩はお安い御用だと秘蔵の薙刀を朝枝に貸し与えた。
大塩は弓馬だけでなく武術にも熟達しているので、
もし討ち入りの際に武具を構えられては厄介だということで、一計を案じて引き離したのだった。
そして朝枝は大塩の十三歳になる嫡子太郎と二人きりで客間に寝た。
これは大塩を討つときにその嫡子も同時に始末するための策であった。

そうして取り決めの時刻になると、和泉守の嫡子内蔵太夫が夜陰に乗じて忍び込み、
大塩がすっかり寝入っているところを狙って丁と斬りつける。
大塩も鋭い男なので、とっさに気づいて夜具で受け流し、枕元に置いた太刀を取り上げた。
刀を抜く隙もなく、鞘のまま二打、三打を受け止め、闖入者につかみかかる。
大塩はたいそうな力持ちで興経とも互角に相撲をとるほどの者なので、
手傷を負いながらも内蔵太夫を宙吊りに持ち上げようとしたところ、十人ほどの寄せ手が大塩に殺到した。
大塩はものともせずに数人を振り切り、家の中から大庭目指して躍り出たが、
大勢が寄ってたかって斬りかかり、ついにそこで討たれてしまった。
嫡子の太郎は、朝枝修理亮が押さえつけて首を掻いていた。

寄せ手が大塩の田中の宿所に火をかけたので、もうもうと煙が立ち上り、空を覆い尽くすような勢いであった。
これを仮屋の山上から見た興経は、
「大塩の宿所辺りで火の手が上がったのは、過失なんかではあるまい。
噂で耳にはしていたが、これは定めて伊豆守と和泉守の仕業に違いない」と、
急いで鎧を着て、たった一騎で仮屋から駆けつけようとした。供の若党たちもすぐに後を追う。
寄せ手たちは、前々から計画していたように、興経の通り道に人を配置して
「大塩屋敷で失火がありましたが、多くの人が集まって消火いたしました」と伝えさせた。
興経は、「これは運がよかった」と、また大朝へと帰っていった。

翌日、各方面から「伊豆守と和泉守らが手を組んで、大塩を暗殺しました。
殿もご用心ください」と注進が寄せられた。
興経は、「昨夜はきっとそうだと思っていたのに、すっかり騙されてしまった。悔しくてたまらぬ。
なんとも憎い真似をするものだ。そういうことなら、一人残らず討ち果たしてくれよう」と、
手近な者を五千人ほど集めて新庄に帰った。
吉川伊豆守・森脇和泉守・森脇内蔵太夫・朝枝修理亮・境美作守ら、
その他家中の大半の者たち三百人は、既に家々に火をかけて与谷の城に引きこもっていた。
興経はすぐに攻め寄せてことごとく殺し尽くしてやろうとしたが、
「叔父の伊豆守、また私を赤子のころから抱き育ててきた和泉守ですら、こうして反逆を企てたのだ。
他の者だって多少の逆意を抱いているに違いない」と、
後ろめたさばかりが先立って、結局何の行動も起こさないまま日数ばかりが過ぎていった。

宮庄下野守・その子備前守・江田宮内少輔・二宮杢助(俊実)・
朝枝右京亮(経道)・朝枝因幡守・朝枝三郎左衛門などは、
「興経はまだ年も若くていらっしゃる。正道を外れたといっても、
臣下として主君を蔑ろにするわけにはいかない」と、興経に味方した。

伊豆守・和泉守は寄り合って話し合った。
「我らは主君のために奸臣を討ち滅ぼして政道を正そうとしているわけで、
これは吉川家に末永く安泰をもたらすための策でなくてはならない。
しかしかえって吉川家を滅ぼす災いに転じてしまったようだ。
こうなったら吉田(毛利家)にお願いして、元就のご子息のうち一人を養子にして当家を相続させ、
興経には隠居していただこう。
これは興経に対しては反逆と同じようなものだが、吉川家に対しては大忠功の至りとなろう」と結論し、
二人で連れ立って吉田へと赴いた。

「興経は家中の取り仕切りが大変悪く、歴代仕えてきた一族郎党であっても奴隷のように取り扱います。
小賢しく媚びへつらう大塩ごとき新参を寵愛し、一族郎党の頂点に据えるかのように召し使うなど、
当家はもうおしまいでございます。
それゆえに我らは是非もなく奸臣の大塩を討って政道の間違いを心改めさせようとしましたが、
興経はこの諫言を反逆として受け取ったのか、我々を処罰しようとしているのです。
このうえは、少輔次郎元春に吉川家を相続していただきとうございます。
興経は取り押さえて隠居させ、元春殿に無二の忠勤を捧げたく思います」

二人の提案に、元就様は首を縦に振らなかった。
そこで伊豆守・和泉守は、未来永劫逆心を抱かぬ証に、
熊野牛王符を裏返して天地の神々を揺り起こし、七枚の起請文を書いて元就様に進上した。
元就様は、ここまでするのであれば疑う必要もないと、少輔次郎元春の吉川家相続を認め、約束した。
伊豆守・和泉守は、喜びを隠しきれない様子で新庄に帰っていった。

さて、興経は議論の余地もなく隠居することに決定したので、
力及ばず、国内の布川へ隠居することになり、
同(天文十六年(1547年)?)八月一日に小倉山の麓の館を出立した。
供には手嶋内蔵丞(豊島興信)・二宮十郎左衛門・村竹宗蔵らがつき、
中間以下を含めても数十人には及ばなかった。
布川の館は屋根の茅もまばらで、松の柱も傾いており、柴の扉を尋ねてくる人もほとんどない。
ヨモギが生い茂って道を隠し、まがきの内側も野原と変わりないので、
そこを通り道にしている小さな牡鹿も、住み着いている松虫でさえ、人気が少ないので我が物顔である。
門の番をする老人もおらず、ムグラが這い伸びて門を閉ざすのをなかなか払えないような有様だった。
昨日までは数千の兵を統べる大将だった身が、今日からは人もいないような山里に侘び住まうとは、
盛者必衰が世の常とはいえ、痛ましいことである。

同二日、小倉山にいた江田父子のところへ、伊豆守・和泉守から城を明け渡すように伝令が来た。
江田因幡守は「興経が我らにこの城を預けたのは、もしものことがあったとき、
我らならば潔く掃除などもして敵に明け渡すだろうと思し召されたからだろう。
私が今おめおめとこの城を出たのでは、人に会わせる顔があるものか」と、
甲の丸で腹を十文字に掻き切って死んだ。
嫡子は二の来輪(くるわ)にいたが、父が自害したと聞いて
「主君興経は蟄居の身となられ、父もまた自害した。
私だけが生きのびては主君に対して忠義がなく、父に対して孝心がないことになる」と言って、
同じように腹を切って果てた。
忠といい儀といい、比類ないことだなあ、と人々は皆感涙に咽んだ。


以上、テキトー訳。この段はオシマイ。

なんか、「世に聞こえたる大力の者」ってのも頻出だな。
そんなに力持ちばっかいたんかい。
それとも「大力」は組み合ったときに必ずつける決まりごとにでもなっとるのか。
もうちょっと、「俊敏」とか「技術に優れた」とか、
個人の特性にバラエティがあってもよさそうなもんだが、
こういう思考が現代のゲーム脳なんだろうかw

うっかりスルーしそうだったけど、マジで枕元に刀置いたりするんだな。
都市伝説みたいなもんかと思ってたけど、
大塩しかり、ちょっと前に呼んだ話の陶隆房の乳兄弟しかり。
いつ寝首をかかれるかわからない時代だったんだなぁと妙に感心した。

興経はアレだな。
頭が回りそうなのに騙されやすいとか、血気に逸るのにしぼむのも早いとか、
イマイチ中途半端な印象が残った。
この後見せ場はあるんだろうか。

次は、元春が吉川家を相続したときの話を読むつもり。
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