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2012-11-06

サルが来たぞーッ!

だいたいの流れ:
宇喜多を蹴散らして播磨は上月の城に入った尼子勢。その後ろ盾には織田の秀吉が。
宇喜多は輝元に援軍を乞い、南方を管轄する隆景が中心となって播磨への出征が決まる。
一方、独自に但馬の国人と示し合わせて京都攻めを目論んでいた元春は、
隆景の再三の要請により、但馬出張を後回しにして播磨への出馬を応諾した。


元春・隆景上月の城を取り囲むこと、付けたり秀吉後詰のこと

さて元春・元長が上月へ出張りすると定まったので、
輝元様・隆景は合図を定めて吉田と沼田を出発しようということになり、
吉日良辰を選んだところ、同(天正六年)三月十二日と定まった。
南方は隆景の管轄なので、輝元様の譜代の侍も多く駆けつけて従った。

その人々は、穂田治部大輔元清・天野六郎左衛門元正・宍戸安芸守隆家・嫡孫の備前守元好、
国人には三吉式部大輔・同新兵衛尉・高山入道久意・同五郎兵衛尉・久代修理亮俊盛・
古志清左衛門・有地美作守・栗原新十郎・楢崎弾正少弼・平賀太郎左衛門・その子息杢頭・
三村紀伊守・清水長左衛門(宗治)・草刈太郎左衛門・小笠原少輔・上原右衛門太夫・
田治部蔵人・比幡六郎兵衛尉・伊勢・細川一族・大石・志賀・杉次郎左衛門・仁保右衛門太夫・
三浦・吉田・朝倉・坂・福原・桂など、総勢二万余騎だった。

水軍は児玉内蔵丞・粟屋内蔵丞・村上八郎左衛門・浦兵部丞などが大船七百余艘を率い、
播磨潟・明石の浦・摂津・須磨の浦に船をかけ並べて海上を警護した。

元春様に従う人々は、嫡子の治部少輔元長・次男の左近允元氏・三男の民部大輔経言・
毛利七郎兵衛尉元康・毛利十郎元秋、
そのほか国人では山内新右衛門・同刑部少輔・益田右衛門佐元祥・羽根兵庫助・
佐波越後守・同又左衛門・津野駿河守・三沢三郎左衛門為清・子息の摂津守為虎・宍道五郎兵衛尉・
田賀吉六・天野紀伊守隆重・三刀屋弾正左衛門久祐・古志因幡守・湯佐渡守・
杉原播磨守・嫡子の弥八郎元盛・次男の又次郎景盛・有地右近・同左京亮・
南条伯耆守元続・尾鴨官兵衛尉元清・山田出雲守・小森和泉守・吉田肥前守・日野左近・
福原治部大輔・同藤兵衛尉・田利・小曳・周布・祖式・久利・都治・出羽・岡本・小策など
一万五千余騎が出雲の国の冨田を同日に出発し、美作の国の高田に着陣して、
隆景と合流して上月表へと出張りした。

これを聞いて宇喜多和泉守直家は、思うところあったので自分自身は病気だといって、
家之子の岡越前守・戸川肥後守・明石飛騨守・宇喜多七郎兵衛尉忠家・長舟紀伊守・
宇喜多信濃守・岡強介・沼本新右衛門・花房志摩守・同助兵衛尉・中村三郎左衛門・
伊賀左衛門進・富山半右衛門・市五郎兵衛・芦田五郎太郎・延原内蔵丞・宇喜多河内守・
小原入道の信明・楢原監物など一万四千余騎を差し出した。
総勢五万余騎が上月の城を取り囲むと、さながら稲麻竹葦のようだった。

元春様が二宮佐渡守に「鬨頭を上げよ」と言うと、二宮はすぐに上げた。
総軍五万余騎がそろって三度鬨を上げた。
その声は、上は非蒼非々蒼天、下は奈落の黄泉の底にまで届きそうなほどに大きかった。
元春様は敵に対峙すると、まずは自分が負けそうなところ、負けそうもないところの二つを工夫して、
それから敵に勝つための策略を練る。
今回もまずは羽柴の後詰対策として惣陣の周りに芝土手を高く築き、堀を深くして塀をつけ、
あちこちに柵の木を結い、乱杭を打たせて向城のように構えた。
いかに強敵の信長・秀吉がたとえ後詰に現れても、この陣を打ち破れるようには見えなかった。

元春から使者を通じて隆景様へと「羽柴筑前守は近日中に後詰にやってくるだろう。
だから惣陣周りを堅固に構えたほうがいい」と言い送ると、
折りしも長舟紀伊守・岡越前守が隆景の本陣に来ているところだった。
「秀吉はまずは三吉の三木へ攻め懸けてきました。
そこにあなたの御手勢の乃美兵部丞殿と別所殿が相談して一戦を遂げ、
たちまち突き立てて瓢箪の馬印の後ろを見ることができました。
秀吉はこれに大いに怒り、とにかく三木ともう一度一戦しようという心積もりらしく、
この地へはおそらく出てこないでしょう。ですから惣陣の構えはそれほど堅固でなくても構いません。
そのことはさて置いておいてください」と言った。
隆景はこれに同意して、元春の使者には「よくわかりました」と返事をしたけれども、
陣の構えはしなかった。

元春は、「秀吉は信長から中国攻めの先陣を任され、そのうえ播磨一国を与えられて、
その勢いは朝日が東から昇ってくるかのようだ。
自分の国の城で、しかも家城から十里も離れていないところを攻められて、
後詰に出てこないことがあろうか。
どんな弱将といえども、まず間違いなくそうするというのに、秀吉がそうしないわけがない。
足軽競り合いのような小さな合戦で別所に負けたからといって、
そんな小事を心にかけ、大事を差し置くことがあろうか。
今に見ていろ、きっと後詰に出てくるぞ」と言った。

羽柴筑前守は信長卿へと、「中国勢は数万騎を率いて上月の城を取り巻いてきました。
私がすぐに後詰に向かいたいところですが、敵は猛勢ですので、勝てる気がしません。
援軍を出してくださいませ」と申し入れたので、
信長はすぐに荒木摂津守を差し添えて、そのほかさまざまな兵を一万余騎加勢に向かわせた。
秀吉・荒木を両大将として、四万余騎が、同四月晦日に上月表へと打って出、高倉山に陣を張った。

このとき隆景様の陣は「構えを急げ」と騒いでいたけれども、
元春の陣は事前に構えは済ませていたので、物静かなものだった。
こうして惣陣の周りに柵を結い、内外の人の出入りを監視するために、
元春からは新見左衛門尉・森脇相模守、隆景からは楢崎弾正忠を付け置いた。
「すでに羽柴筑前守が後詰に来たということは、信長卿も続いて出張ってくるだろう。
後陣の大勢が到着する前にこの城を攻め落とせ」と、仕寄を隙間なく付け寄せて攻め戦った。
城中にも尼子家の鋭卒が残らず立て籠もっていたので、寄せ手の大軍をものともせず、ここを先途と防戦した。

秀吉が陣取っている高倉山の尾続きには、宇喜多の手から先陣は中村三郎左衛門、
二陣は宇喜多七郎兵衛尉忠家、その次は戸川平右衛門、
そのほか明石飛騨守をはじめとして備前・備中・美作の勢が一万四千騎が、
それぞれの陣を厳重に構えて、敵に馬を入れさせるまいと乱杭をしっかりと打ち付けていた。
その次には三吉・平賀をはじめとして備中・備後勢が陣を敷き、
それより少し小高い参上に隆景様が手勢ならびに毛利家譜代の侍たちを従えて、二万余騎で陣を取っていた。

元春様の手には、上月の山下の平地に下って、杉原播磨守父子三人が二千余騎で陣を取っていた。
その次は杉原の備えとして宍道五郎兵衛尉、
その後には天野紀伊守隆重・南条伯耆守元続・小鴨官兵衛尉元清・山内父子などが続いて陣を構え、
その後方の小高い峰に元春様が陣を据えていた。
どの陣も構えが堅固なので、たとえ信長が出張りしてきても、容易く攻め破られそうには見えなかった。

秀吉も今回が中国勢との初めての合戦で、どうにか敵に一塩つけてやりたいと思っていたので、
諸仏諸神に祈祷などをしていたが、五月十八日、紹巴法眼のところで連歌興行を行った。
発句は聖護院道澄であった。「常盤木も かつ色見する若葉哉」、
脇は秀吉の代句で、「夕景ふかき 夏山の露」、第三は紹巴で、「村雨の音し音せぬ月出て」と続き、
こうして百韻が成就したので、懐紙や酒などを紹巴が陣中へと送った。
秀吉も、敵より小勢だったので、大勢に見せかけるために月山に篝火を焚かせていた。


以上、テキトー訳。

ようやく秀吉と毛利家が初対陣! オラわくわくすっぞ!
交渉ごとでは、これまでに何度も接触してきたんだよな。
毛利の方から、織田との交渉には「羽柴殿で!」って指名してた形跡がある、という話をどこかで読んだっけ。
どこだっけな……

まぁ今回も、なんか元春と隆景がギスギスしてるわけで。
陣を張って即座に強固な構えを築く元春、対して敵が見えてから柔軟に対応する隆景。
どちらが優れてるのかはわからないけど、私は元春の戦法の方が安定感があって好きかも。
というかさ……このとき輝ちゃん何してたん……?
影が薄いよ! もっと出してやってくれたっていいじゃない正矩!

あと秀吉方面で気にかかったのは、神仏への加持祈祷の範疇として「連歌興行」が出てきたことだな。
連歌って、もっと社交だとか遊興のイメージが強かったけど、
神仏への祈祷としても広がってたんだね。
そういえば要所要所で連歌会って出てくるよな。
明智光秀が本能寺攻めするときにも連歌やってたし(陰徳記では)。
これまで意識してこなかったけど、なるほどねー、と思った。
もしかしたら、連歌師が生計立てるために広めたブームだったりしてねw

さて次章!といきたいところだけど、
明日あたりからオフ会準備に集中しようと思うので、
ブログの方はしばらくドロンするかもデス。
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