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2012-11-25

ぼくらの鹿介

オフ会報告記事もできあがって一安心(遅いよ)w
さぁ陰徳記!

だいたいの流れ:
織田についた尼子勢は、必ず秀吉の援軍があると見込んで上月城に籠もり、
駆けつけてきた元春・隆景、そして宇喜多らの猛攻をしのいでいた。
果たして秀吉は大軍を引き連れ後詰にやってきたが、一戦で小敗を喫すると、
籠城衆を見捨てて兵を引き上げてしまった。
こうなってはいかんともしがたく、勝久は腹を切った。
鹿介はせめて元春と刺し違えようと、降人に出て対面の機会を待っていたが、
いざ対面しても好機はなく、輝元の命で松山に送られることになってしまった。


山中鹿介最期のこと

山中鹿介は主君の勝久には死に別れ、自身は囚人となって松山へと下った。
心も勇まぬ旅の道、急ぐ旅ではないが、羊ほどの早さもなく、
ようやく備中の国の阿井の渡しに到着した。

天野紀伊守隆重の嫡子、中務元明はかねてより、鹿介を討つように命じられていた。
元明は阿井の渡しに小舟を一艘用意しておき、鹿介の手勢を皆乗せて先へ渡した。
山中は首取後藤と柴橋という者を二人連れて、岩に腰を下ろして扇でヒラヒラと仰いで、
着物の袖を抜いて汗をぬぐったりしていた。

そこに天野の手の者、河村新左衛門尉という大の剛の者が、よい時分だと思って、
岸陰から忍び寄ると袈裟懸けに丁と切る。
さしもの鹿介も、まさか襲われると思っていなかったので、
「あっ」と言って下の川へとひらりと飛び降りた。
河村も続いて飛んだ。

福間彦右衛門は近くをうろつきながら、隙があれば自分も切りかかろうとしていたが、
ここぞとばかりに「やっ」と走り寄り、鹿介の首を打った(天正六年七月十七日、三十四歳と)。
郎党の柴橋は渡辺又左衛門・轉右衛門が二人がかりで討った。
後藤彦九郎も、これを見て散々に戦ったが、ついに討ち死にした。

そして鹿介が首にかけていた大海の茶入れ、腰にさしていた荒身国行の刀も取ると、
輝元様へと献上した。輝元様は刀を受け取って、茶入れを差し返した。
これは河村・福間二人の手柄になったという。

立原源太兵衛尉は芸陽まではるばる下ってきていたが、
「考えてみれば主君の敵だ。おめおめと居続けるのも口惜しい」と思ったのか、
やがて忍び出て逃げ上り、蜂須賀彦右衛門(家政)のもとに身を寄せたという。

隠岐の法城寺周快は手勢三千人ほどを連れて本国へと下っていったものの、
美作の国を通ったときに、一揆勢がその財宝に目をつけたのか、「落人がいるぞ」と大騒ぎした。
熊谷右衛門尉はそのとき、元春様の御台所から上月表へと遣わされている途中で、
近辺に宿をとって休んでいた。
一揆勢が「落人」と叫ぶのを聞くと熊谷はすぐ出合い、追いかけだした。
法城寺はなかなかのつわものだったので、当然のように取って返して散々に戦い、数人切り伏せた。
しかし自分の手の者も、あるいは討たれあるいは逃げ出してしまったので、
あとはたった一人で切り抜けて、高田まで退いていった。

この報告を受けると、香川美作守光景の手勢の三宅源四郎は、
主君の所領の三鴨新左というところに代官としてきていたのだが、すぐに法城寺を追いかける。
法城寺はこれを見て、また取って返して切り結んだ。
しかし度重なる戦いに疲れ果てたのか、ついに三宅によって討たれてしまった。

さて山中鹿介のことをいろいろ尋ね聞いてみると、
もとは池田神次郎という名で尼子家十人の家老のなかでは小身で、座配も末席であった。
そして父とは幼少のころに死に別れ、母に育てられて成人した。
その母は孟軻の母にも劣らぬ賢女だったので、どうにかして鹿介を世に出そうと、
朝に晩に心を砕いていた。
しかし非常に貧しかったので、何をするにも心に任せなかった。

ときどき自宅の庭を耕して麻を植え、その麻をのして溜めていき、
糸にしてしっかりと織り出すと、大して量もないその布を布子というものに仕立て上げて、
茜の裏をつけ、たくさん鹿介に与えた。
鹿介は才のある男なので、尼子家の近習として三百ほどの知行を持った。

他の人は、次男や三男ともなると、皆貧しくて衣類の用意も心に任せぬ者たちばかりだった。
それを、鹿介は「布子をあげよう」とは言わずに、ただ自然に彼らの衣服と自分の服を着替え、
自分が着たものは相手に返して、人が着ていったものはそのままにしておいた。
また、夜には「うちに泊まれ」と言って、一晩に十人や二十人も引き入れて寝させ、
朝夕の食事も用意したので、人々は皆その志に感銘を受け、自然と鹿介の配下についた。
彼らはどこにでも戦いに出かけ、ここでは「山中の手の者の何某」と名乗り、
あちらでは「鹿介の手の者の何某」と名乗ったので、
その名前は敵陣に広く知れ渡り、他の人よりもいっそう畏怖された。

それから次第に出世していくにしたがって、勇も智も人より抜きん出て、
また仁の道もよく行ったので、人々は皆その徳に懐いた。
月山冨田城が落城した後は、勝久を大将として仰いだけれども、
何事も鹿介が計略を立てながら、何年間も中国で武威を振るい、寡兵で大勢の敵を破ってきた。
しかし運が天に届かなかったのか、今はかなくも討たれてしまった。
残念なことである。


以上、テキトー訳。

これまでのしぶとさ(褒め言葉)が嘘のように、
あっさりと討たれてしまった鹿介……(´;ω;`)
こういうのを見ると、「運が尽きる」「天に見放される」てのが、
敗者の言い訳でも何でもないようで、実にしっくりと得心がいく。

こんなことになるなら、厳重に警戒されていた対面の場で、元春に刃を向ければよかったのかもしれない、
そんな後悔が頭をよぎったりしたんだろうか。
それとも、生き延びて本望を達することだけを、最後の最後まで考えていたんだろうか。
ここまで描かれてきた鹿介を見ていると、たぶん後者のような気がする。

鹿介の逸話も、いい話だね。
夫と死に別れ、貧しくとも堅実に息子を育てる母、
出仕しだすと貧しい同輩に食と衣服と寝床を与える鹿介。
身内にいたら大変だけど、神西や秋上伊織にあれほど好かれた理由もわかる。
いい兄貴分だったんだろう。
鹿介を支えてきた源太兵衛尉も、さぞ無念だったろう。

そういえば、鹿介遺品の兜は、吉川史料館が収蔵してるみたいだね。
大事にされてきたんだろうなぁ。
敵同士だけど、長い付き合いだったもんな。
いつかお目にかかりに行きたいねぇ…・・・(*´∇`*)

ところで、どうでもいいけど、法城寺を追いかけてった熊谷さん、
元春の御台所から上月表への使いって、つまり新庄局が夫に送った使者だよな。
「元春の御台所」って表現……ちょっと萌えますた><
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