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2012-12-20

南条、離反の発端

だいたいの流れ:
上月表での織田と毛利の対決は、織田の撤退によって幕引きとなった。
尼子勝久の切腹・山中鹿介の殺害で尼子再興軍は絶えたものの、
今度は上月攻めを進言した宇喜多直家が毛利に離反し、元春・隆景を亡き者にしようとする。
元春・隆景はその陰謀を回避したものの、次は伯耆でよからぬ動きが。


南条兄弟、逆意のこと

さて南条伯耆守元続は、尼子家の牢人の福山次郎左衛門尉という者が
折りにつけ諫めてくることがもっともだと思ったので、
妾腹の兄の小鴨左衛門進元清、そして南条備前守・その子九郎左衛門・山田越中守・同左介・
一条東市助・赤木兵太夫などの一族や家老の者たちを呼び寄せて、相談した。

「今の天下の成り行きを見ていると、
戦国の七雄、十二諸侯が各地を滅ぼして自分が頂点に立とうとした故事に似ているように思う。
しかし信長卿の武威は日々に募り、日増しに盛んになっていって、
強秦が六ヶ国を滅ぼし四海を掌握した勢いにも似ている。
これまでは毛利家に一味してきたが、さあ、信長の幕下に属すことにしようではないか。
褒美に伯耆一国を貰い受け、憎き杉原盛重の首を刎ねて、喜びに眉を開こう。
皆はどう思う」と問いかけた。

皆、「元続のお考えが一番よろしいと思います。
今は、日本六十余州の七、八割は信長の手に属しております。
東には武田四郎(勝頼)ばかりが信長にたて突いているとはいえ、
先年(天正三年)長篠で戦利を失ってからは、いるのかいないのかもわからないほどになって、
もうすぐ滅亡することでしょう。
北では長尾喜平次景勝が天下(信長)に馬を繋いでおりませんが、
佐渡・越後のたった二ヶ国だけの身代ですから、信長と正面から一戦できるはずがありません。
これも数年のうちには信長に降参するでしょう。

西は毛利家だけが信長と敵対して、近年はあちこちで戦をしていますが、
上月の陣中からは宇喜多が信長に属し、元春・隆景を討ち取ろうとしました。
ということは、現在は毛利家の領国からも、備前・美作・備中の三ヶ国が信長に属したことになります。
残ったのは八ヶ国しかありません。
たった八ヶ国の勢で、三十数ヶ国を手にした信長と戦っても、
いっとき勝ちに乗ることはあるかもしれませんが、最終的には大軍の前に滅び果ててしまうでしょう。
そのときが迫ってから味方になったとしたら、ただの降人ですので、たいした恩賞にもあずかれません。
まだ毛利家の武威が残っているうちに、羽柴殿について天下に御馬を繋がれるとよいでしょう。
信長も、元続が味方に与せば、中国征伐が速やかになると大いに喜ばれるはずです。
これは片時でも急いでお決めになられませ」と、一同に賛同した。

元続は、それではということで、福山次郎左衛門の手引きによって、
秀吉に「味方について忠勤に励む」と言い送った。
秀吉がこれをすぐに信長に取り次ぐと、
信長は「実に神妙の至りである。さらに忠功に励んでほしい。
伯耆・隠岐・出雲の半国を宛行おう」と言った。
南条は大いに喜んだが、時機をうかがっていて、まだ毛利家に敵対することは明らかにしなかった。

南条は秘密裏に播磨の姫路へと飛脚を送っていた。
はじめは人々もそれと気づかなかったが、度重なると人目について、
一人は杉原播磨守が放っていた手勢に捕らえられ、一人は三沢摂津守によって生け捕られてしまった。
この密使たちは、すぐに二人のもとから元春へと引き渡された。
密使の持っていた書状を開いてみると、南条が羽柴秀吉に通じて信長に馬を繋いだ証拠が明らかだった。
これを見て元春様は大いに怒り、「南条の謀反は疑いようがない。
しかし山田出雲守(重直)は当家に対してとても志の深い者だ。
山田を呼び寄せて事の仔細を尋ね聞こう」と言って、すぐに山田を呼び寄せた。
山田出雲守はすぐに伯耆を出立して、芸州の新庄へとやってきた。

元春様は山田に面会するとすぐに、
「なあ山田よ、南条が謀反を企んでいるのはすでに露見しているのだ。
お前が知らぬわけはないな」と言った。
山田は非常に驚いて、「そのようなことがあるはずがありません。誰かが嘘を申したのでしょう」と言った。
元春は「これを見れば、嘘か本当かはっきりわかるだろう」と、
密使の持っていた元続の書状を数通差し出した。
山田がすぐにこれを見てみると、疑いようもなく、元続の正判と筆跡が見て取れた。

山田はかしこまると、「元続がこのような逆意を思い立ったことは、私は少しも存じておりませんでした。
私は元春公に対して無二の忠勤を貫く覚悟ですから、元続もそれをよく知っております。
きっと私が賛同しないとわかっていたのでしょう。私にはまったく知らせがありませんでした。
これは偽りではありません」と言って、天神地祇に誓って起請文を差し出した。

その後出雲守が言うには、「この書状を見てみますと、『福山次郎左衛門からお伝えします』と、
どの書状にも書いてあります。福山というのは、もともと尼子家の者でございますから、
これまでの恨みを晴らすために、もしくは自分の出世のために、
元続兄弟が秀吉に一味するように諫言を重ねたのでしょう。
これはまったく、南条の心底から出たことではないはずです。どうかお許しください。
私が罷り帰って南条兄弟に諫言をし、野心を抱かずに忠勤に励むように申し付けます」とのことだった。

南条もこのことを聞いて、どうにもならないと思ったので、津村左京亮・その弟の宗次郎を差し出して、
「逆意など毛ほどもありません」と弁明してきたが、元春父子はまったく許す様子はなかった。
「羽衣石に発向して南条を討ち果たす」と言っていたが、山田出雲守があまりに詫び言を繰り返すので、
「山田のこれまでの忠節に免じて、今回だけは許すことにしよう。
となれば、急ぎ福山次郎左衛門を討ち、南条はもう一度人質を差し出すように」ということになった。
山田は「かしこまりました。そのことを元続へ申し聞かせ、すぐに福山の首を刎ねて参ります」と答えた。

元春は、「いやいや、南条がこれを聞けば、気を回して福山を逃がしてしまうだろう。
福山を討った後で南条に言い聞かせよ」と言い含める。
山田はこれを了承し、「お定めのとおり、いずれにしてもかしこまりました。
しかしそのようにすると南条は激怒して、私を討とうとするでしょう。
ですから、できましたら南条に申し聞かせてから福山を討ちたいと思います」と言う。
元春様は、「山田は私にその命をくれると、これまでの数通の誓紙で言っていたな。
ならばここでお前の命を私にくれ」と言った。
山田出雲守は、こうなったら辞する言葉もないと思ったのか、「かしこまりました」と言って別れを告げ、
翌天正七年四月中旬に伯耆へと帰っていった。

さて、南条の家人たちは長く山田に会っていなかったので、皆山田のところに行って、
「なあ山田殿、これまでは長い間瘧病を患っていたそうだな。
とても心配していたのだが、早く快復して帰ってこられたのだ。めでたいことだ。
そうそう、元続の逆意のこと、元春が激怒なさってこの城へ発向なさっていると聞いている。
当家の滅亡はこのときと思うのだが、元春はそのことをなにか仰っていただろうか」と尋ねた。
山田は、「確かに私は長く瘧を患っていたが、あれこれと保養をして、ようやく快気できた。
元続の御逆意のことを元春がお聞きになって、南条家を退治することになったのだが、
私があれこれととりなして、今回は元続さえ別心がなければ、元春は疎意にすることはないとの仰せだ。
こうして無事に弁明しおおせて、再び皆と会えるとは思っていなかったが、
こうしてまた会えるとは、嬉しくて仕方ない」と言って、
日ごろ親しく付き合っていた者もそうではない者も皆客殿に招き入れて、旅先の話に花を咲かせた。

さて、かの憎き福山は、三日が過ぎたころにやってきた。
山田は「これこそ願うところだ。どうにか騙して討ち取ってやろう」と思ったので、すぐに福山に対面した。
「福山殿、ずいぶん長いことお話もしませんでしたが、今回のご訪問は珍しいことですな。
さあさあ、こちらにお入りください。芸陽の様子でも詳しくお聞かせしましょう。
幸いにもここに廿日市の幸松太夫が罷りおりますので、ひとさし舞でも聞いていってください」と、
打ち解けた様子で言うと、
福山は「今回が初めてというわけではないが、ご丁寧にありがとうございます。
仰せになるまでもなく、しばらくこちらにお邪魔して、新庄のお話をお聞きしたいと思っていたのです。
このようにご丁寧に招いてくださるのですから、
もちろんお言葉に甘えさせていただきます」と、客殿に座した。

山田は、「でしたら、たいしたものはありませんが、夕飯をご一緒しましょう。
私は料理を申し付けてまいります。戻ってくるまで、囲碁でもなさっていてください」と、
碁盤を差し出した。
長安伝左衛門という者が「お相手をいたしましょう」といざり出て、
互いに手を緩めず、丁々発止と対局した。
福山が一心に心を囲碁に傾けているのを見て、山田出雲守はいい頃合だと思い、
家之子の山田十右衛門をけしかけることにした。

十右衛門は剣術の達人で、早業を得意とする屈強な者だったので、
「十右衛門が最初の太刀を打ち、二の太刀は重直の嫡子の蔵人がせよ」と言い含めると、
十右衛門は座敷へと出て行った。
「碁の勝負はどうなっていますか」と声をかけると同時に、十右衛門は抜き打ちに丁と切り、
まだその刀も引き抜かれないうちに、蔵人が続けて切りかかる。
さしもの福山も太刀の柄に手をかけることもできずに、やすやすと討たれてしまった(天正四年七月か)。
この様子を見て、福山の若党たち十数人は皆門の外へと逃げ出ていったが、
前もって手はずを言いつけてあったので、追いかけて一人残らず討ち果たした。
そして福山の嫡子の弥六という者は宿所にいたのだが、
すぐに山田外記・大谷玄蕃允・塩冶新允・山田利兵衛尉などを差し向けて、
取り囲んで押し入ると、なんなくその嫡子も討ち取ることができた。


以上、テキトー訳。

南条、盛重と何があったんwww ←拾い読みしてるからちゃんと把握できてない。
元続「憎き杉原盛重の首を刎ねて云々」
という小さなことがらに引っかかるくらいに、最近盛重フィーバーです。
盛重かっこいい!
うぃきぺさんによると、盛重が南条宗勝を毒殺したって逸話があるそうだが、創作だそうな。
正矩もいろいろな逸話を渉猟してるから、この宗勝毒殺説を下敷きにしてるのかな。

ともあれ、南条氏は宗勝が死んで元続が相続したあたりから、毛利家とのつながりが弱くなってたんかね。
伯耆あたりじゃ織田VS毛利の最前線だから、どんなに絆が強くても、
武威の強いほうにつくってのは、大して珍しい話じゃないし間違った選択でもないもんな。
元就の娘が嫁いでる草刈だってんっがっぐっぐ。

元春の山陰地方に暗雲が立ち込めてきましたが、オラわくわくすっぞ!
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