--------

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2012-12-30

家族ぐるみの戦法指南

だいたいの流れ:
上月城を攻め落とし、織田の援軍を撤退させ尼子再興軍を滅亡させた毛利家だったが、
備前の宇喜多直家、伯耆の南条兄弟など、境目の国人衆の寝返りに手を焼いていた。
元春自身の出馬により宇喜多勢が兵を引き上げたので、そのまま南条攻めを敢行した元春だったが、
先陣の杉原播磨守盛重の采配によって、抗戦に出た南条九郎左衛門は討ち滅ぼされてしまう。


杉原・天野、長郷田合戦の批判のこと

元春様は、南条の家人の家まですべて焼き払うと、やがて八橋へと引き上げていった。
]皆一緒に集まって、今回の合戦のことなどを話していた。
天野紀伊守隆重は杉原に向かって、「今日の盛重のご活躍は、今に始まったことではないけれども、
備えの立て方といい、川の渡り方といい、まったくありえないほど素晴らしかった。
愚息の中務元明にも、後学のためにあなたをよく見ておきなさいと言っておきました」と褒め称えた。

盛重は、「私のやり方はそう珍しいものではありません。
狐は虎の威を借ると言うように、後陣に虎よりも勇猛な元春公が控えていたからこそ、
先陣に進んだこの盛重は狐だと知りながらも、敵は敗走していったのです。
南条元続・元清たちが自分で打って出ていれば、
少しは手ごたえもあったでしょうに、実に残念です」と答えた。

すると元盛は隆重に向かって、「九郎左衛門も盛重と一戦しようと思うほどの者ですから、
これほど易々と打ち負けて、一合戦もできずに敗北してしまったのは、
彼の武勇が拙かったからではないでしょう。
謀略が十分ではなく、備えの立て方が悪かったのだと思います。
彼の失敗はどこにあったと思いますか。後学のために批評して聞かせてください」と言った。

隆重は、「それは確かにそうかもしれませんが、元続兄弟が出てきたとしても、
盛重と一戦することはできないでしょう。九郎左衛門など言わずもがなです。
ただ備え方が悪かっただけでもありません。
将の良し悪しにかかっているところが大きかったのでしょうな」と言った。
盛重は、「そう仰るのは、私がここにいるからでしょう。
まず後輩たちが武の道を学べるように、九郎左衛門の失策を一つ一つ挙げてみてください」と言う。
隆重は、「では思いつくまま言ってみますが、あまり参考にはなりませんよ」と前置きして、語りだした。

「九郎左衛門は、勇気はあるとはいっても、
和漢の兵法を学んでいなかったがために、その道を知らない。
敵が猛勢で、しかもそれほど深くない川を隔てているときには、
川を渡すまいと川のそばに出てきて防戦するのは実によろしくない。
宇治・瀬田のような川ならば、川のほとりに出て敵を誘導し、
底をも知れぬ深い瀬を渡るように仕向ければ、敵は空しく水底の藻屑となる。
こうした作戦もあることはある。

しかしこの長瀬川は、人が渡れる浅瀬が三ヶ所にある。
それを渡すまいと防いだとしても、敵が後陣に大勢続いているのだから、威圧感も強い。
敵が次々に足軽を進め、競いかかって進んでくれば、
弓・鉄砲の者たちは打ち立てられ、射立てられて引くしかない。
そうなると、味方は勇気がくじかれてしまい、後陣の勢も勝ち目がないと思って、
退却することばかりが頭を占めて、敵に立ち向かう心がなくなってしまう。
だから、今日のように易々と追い崩されてしまったのだと思う。

また、武田が備えていたところは、幸いにも地の利があって一戦すれば勝てる場所だった。
しかし総軍が崩れてしまうとこれも仕方なく逃げるしかないので、
これを頼りにしてはいけなかったとも思う。
九郎左衛門に智があれば、川を隔てた合戦では半途を撃つということは、
三歳の幼子でも知っていることなのだから、前の川端にに馬で懸かれる場所を残して、
古来から伝授されてきたように、敵が半分ほど渡ったところで半途を撃てば、
もしかしたら勝利を得ることができたかもしれない。

盛重も半途を撃たれまいとする謀略はあっただろうから、ここでも勝利を得られないと判断したら、
あの里は森林、なかでも竹林が多いところなのだから、勢をいくつにも分けて伏せておき、
千人くらいで川原に出て、敵が川を渡るのを一度防ぐふりをしてすぐに退却するといい。
敵は勝ちに乗って追いかけてくるだろう。
そこであちこちから伏兵たちが自分たちに都合のいい場所で敵を引き受け、どっと起き上がり、
左から撃ったり右から撃ったり、または前を遮り後ろを塞いで攻め戦えば、
たちどころに敵を討ち取ることができるはずだ。

そして、今日武田が備えていた谷に勢を隠しておいて、
敵が里へと深々と踏み入って在家に放火しようとしたときに、
合図の旗かまたは太鼓でもって連絡して、伏兵を繰り出すのだ。
そのときにまず峰に伏兵を上らせてから鬨の声を上げ、足軽たちに鉄砲を激しく撃ちかけさせれば、
敵の大多数は慌てふためいて備えを乱すだろう。

そうなったら前後左右から伏兵が叫んでかかっていけば、まず間違いなく敵は逃げ出していく。
どちらにしても、もう少し大勢で備えていれば、
川へ向かった敵のやり方によっては、対抗のしようはある。
今日の九郎左衛門は川端に詰め寄って、敵にとって好都合な場所に備えていたから、
川際で防戦するしかやりようがなかったのだ。
これだけ手法が悪いのだから、ついに一戦もできずに易々と追い崩されるのみならず、
多くの兵を失い、自分自身も死ぬことになった。

しかしこれは仰せにしたがって、我が心の赴くままに申したことだ。
さきほども言ったように、盛重が場合に応じて対応を変えるだろうから、
どのみちかないようなどなかったのだ」
隆重がこう語っている間、元盛は大いに感心して聞き入っていた。

すると今度は元明が盛重に向かって、
「ご子息の元盛の勧めで愚父の隆重が考えを述べました。
今度は盛重が、こういう場合に勝てる方法を教えてください。
私も学んで後々に役立てたいと思います」と言う
。盛重は、「では元明の仰せだから、愚蒙な我が身を顧みずに、
残らず考えを述べましょう」と、語り始めた。

「隆重が言われたように、敵がきちんと作戦を立てていたら、
私も敵が思い通りに動けないようにしようと考えて、
今朝の虎の刻から足軽をこっそりと放ち、敵の様子を見てこさせていました。
しかし敵は珍しいことをするわけでもなく、ただ南条の館に集まっているということだったから、
早いうちに勢を山上に攻め上げることはしません。
武田が控えている山上へ一勢押し上げて、里の様子を目下に見下すように備えていたなら、
敵が鬱蒼とした林や竹の中に隠れていようとも、すべて発見できます。
まして谷の陰に伏兵を置いていたら、白地に西施(越の国の美女)を置いているようなもので、
味方の勝利は間違いありません。

こんなことでは、南条は怯えきっていて長郷田に兵を出さないだろうから、一戦もできないだろうと思って、どうにか敵を誘い引き出そうと思って、
山頭へは軍勢を上げませんでした。

私も前々から、まず味方が山上に備えるべきだと考えて、
河口刑部少輔久氏・吉田肥前守の二人に勢を分け与え、作戦を言い含めておきました。
そうして山上に一手の備えを固めてから、敵の出てきそうな道三つには、
それぞれの道へと足軽を前に立てて攻め入っていけばいい。
宍道正義と私は後陣に控え、敵の戦法をうかがいながら備えれば、
敵はひとたまりもないだろうから、一戦のうちに勝利を得られると思っていたのです。
しかし我らがこうもきっちりと準備をしてしまえば敵は出てこないだろうとハッと気づいて、
今朝のように川を隔てて備えたのです。

もし元続自身が、私が先陣にいるのを見て、城を出て戦いを挑んできても、私の旗本勢で切り崩せます。
それは卵を山で押しつぶすようにに簡単だろうと思って、それを待ち望んでいたけれども、
元続が臆して出てこなかったのが残念です。

だいたいにして戦というものは、敵がやりそうなことを予想して、
前もってその対策を考えておくのが軍法の基本です。
戦をどのように運ぶかは、前もってあれこれと言っておけますが、
敵を制する方法は言葉では表しづらいのです。
他の人が水を飲むのを見て、その水が冷たいか暖かいかを知るようなものです。
敵により、時によって変わるものなので、前もってどうこうとは言いにくいのです。

今思いつくままに言ったことは、絵に描かれた餅が飢えを満たさないのと同じです。
兵法の千章万句は敵をやっつけて敵に負けないためにありますが、
すべての兵書を学得したとしても、以心伝心の妙にはかないません。
敵を敗北させることはさて置き、敵がいろいろな戦法で自分を陥れようとしたときに、
自分が敵の機を察して、逆に敵を破ることが兵法における最大の要で、
以心伝心の妙、金剛の本質なのです。

これを法戦場(異宗派同士の討論)になぞらえてみると、
異教徒が仏に『有言を問わず、無言を問わず』と言ったとき、仏はじっとそのままでいました。
また異教徒が手に雀の子を握って、仏に
『私の手の中の雀は死んでいるか生きているか当ててみろ』と言うと、
仏は門に乗り、『私は出るところか入るところか』と問いかけました。
異教徒は言葉にならずに礼拝をしました。

こうした話のように、仏が異教徒に対してやったような感じで、
機を読んでに敵を打つといいと思います。
『問いは答えにあり、答えは問いにある』とも言いますから、敵の作戦によって備えを決めます。
しかしこれは、敵の様子を見ないうちには備えないということではありません。
前もって、まるで敵に対峙しているかのように備えを固くしておくべきです。
そして敵の備えや敵の戦法に応じて変化させることについては、
前もってあれこれと指示できるものではありません。
大内家が全盛だったときに定めおかれていた『器水の陣・器水の備え』
というのを習得するといいでしょう」

盛重がこう語ると、元明は「その器水の陣・器水の備えとはどういうことですか。
教えてください」と言ったが、
そのとき元春から呼び出しがあったので、盛重は元春の御前へと出て行った。
隆重父子も自分の陣へと帰っていった。


以上、テキトー訳。

いいところで終わってしまったな。「器水の陣・器水の備え」って何なんだぜ……
もしかしたら陰徳記前半に答えはあるのかもしれないけれど、
まだ読んでないのでなんともはや。

しかし、杉原父子・天野父子が戦法論議をしているのは、胸がホコホコするよね(*´∇`*)
たぶん例によって正矩がウンチク垂れたかったからこういうエピソードを入れたと思うことにするけど、
知識の継承のしかたの一端がわかって、たいへん楽しい。
やっぱりほぼ口伝なんだろうなぁ。
子供の若殿世代が、父親のベテラン世代にお話をねだって学んでいくってのは、
なかなか心の温かくなる話だね。

毛利家でも……と思ったけど、若いうちからすんなり結婚して子を産み育て、
きっちり家庭を築いているのは吉川くらいか。
隆元は早死にしたし、隆景には子供がいないもんな。
それはそれでいいんだけれども、少し寂しい。

さてそんなわけで、今日実家に帰省してきたわけだけれども、
明日更新できるかどうかはよくわからないし、今だいぶ酔っ払っていてなんともはや。
とりあえず次章は、我が経言ちゃんが美男で有名な岡剛介を追い詰めるらしいよ!
てか直家と普通に戦争するんかい!?
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

検索フォーム
カレンダー
09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
Twitter
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。