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2013-01-05

村上武吉の愛憎劇場

今日は久しぶりに図書館まで足を伸ばしてみたら、
混雑しすぎてシステムがダウンしたってよwwwww 盛況でなにより。
こうやっていろんな資料を漁っているはずなのに、一向に身につかないのは身の不肖ゆえですな_ノ乙(.ン、)_
両親には五体満足に産んでもらったっていうのに、ごめんよトーチャンカーチャン……

さて陰徳記、だいたいの流れ:
織田と毛利の対立が鮮明になると、伯耆の南条・備前の宇喜多が織田方へと寝返り、
元春・隆景らは、その対応に追われていた。

今回は、隆景配下の能島・来島村上氏のお話。


来島、信長公に一味のこと

来島出雲守(通昌)・徳居半右衛門(彦右衛門吉清)兄弟は、
伊予の国の風早郡を知行して、自国内ではなかなかに幅を利かせていた。
兄弟は相談して、「今の信長の鉾先には、天竺・震旦は別としても、我が日本でかなう者はおるまい。
毛利家もやがて戦い負けるだろう。
これまでは輝元に従っていたが、それを改めて信長に一味することにしよう」と決まった。
となれば、「誰かを京都に遣わして、信長にこの件の申し入れをしなければ」と話し合った。

そして出雲守は、京都の有名な寺社に詣でるということにして自分の母親を上洛させ、
老母から信長へと「私の子供は信長公のお味方に参じ、忠勤を貫きたいとの考えです。
これまで毛利家へ与し敵対していた罪をお許しください」と嘆かせた。
すると信長は「それは許そう」と言って、すぐに老母の上洛を許した。

さて、村上能登守武吉は、出雲守にとっては姉婿に当たる。
その老母にとっては婿になるので、老母は
「孫の掃部助元吉・同三郎兵衛尉たちも出雲守と同様に信長に降参させ、
伊予で過分の領地を申し受けよう」と考えて、そのことを密かに武吉に言い送った。

武吉はこのことを聞くと子供たちに向かい、
「私はいかなることがあっても毛利家に背いて信長にうことはしないと思い定めている。
その理由は、これまで土佐から長宗我部が何度も伊予に侵攻してきたとき、
河野家が滅亡の危機に瀕して、我らも御家の危機に陥った。
そのときに毛利家から何度も加勢を送ってもらえたから、当家は安泰でいられたのだ。
この厚恩をどうして忘れることができるだろうか。これが第一の理由だ。

また先年、筑前の国の立花の城を元春・隆景が取り巻いたときには、
私は病気にかかっていたので、周防の国の上の関にしばらく船をかけたままでいた。
来島道安はそれ以前(永禄十年)に死去していて、今の出雲守はまだ幼少だったので、
郎党の原太郎右衛門尉が九州へと警固船で下っていった。
そこで太郎右衛門尉が讒言を構えたのか、もしくは私が上の関に逗留して九州へは下らなかったからなのか、
私に逆心があると疑われてしまった。
そして立花の陣が開陣した後、隆景は来島の者たちに先手を命じて、
三年もの間、我が家城のむしの城を攻めた。

私にはまったく逆心などなかったが、そのことを申し開くことができずに、
いたずらに三年を送ってしまった。
その後小船一艘に乗り、大野兵庫一人を連れて、笛を吹き朗詠して逍遙していたが、
来島の城近くに船を寄せて、原太郎右衛門が言葉戦いをしかけてきた。
そのとき私は太郎右衛門に向かって、
『おまえが嘘を注進したから、心ならずも毛利家と対立することになってしまった』と言った。
原は、『なんとそのように思っていたのか。私はまったく讒言などしていない。
それなら、罪がないことを隆景に嘆くとよろしい。私が使者を務めましょう』と言って、
翌日に私のところにやってきた。
私もまた、『ではおまえによろしく頼もう』と返答した。
原はすぐに安芸の沼田に行くと、私に罪がないことを弁明してくれて、ようやく赦免を得ることができた。

それなのに今信長に一味してしまえば、輝元様・元春・隆景も、
『先年の大友との合戦のときも、武吉は時の勝負をうかがうために周防の上の関に滞留し、
どっちつかずな態度を見せていたが、今度もまた弱きを捨てて強きに付いた。
大の卑怯者だ』と思われるだろう。
今現在の不義のみならず、昔の逆心の疑いまで、虚を実にしてしまうことになる。
これではあまりに口惜しい。これが二つ目だ。

また、叔父の右近隆重は、毛利家に忠勤を貫いているから、
嫡子の八郎左衛門は今、備中の笠岡にいて、父よりもさらに軍功に励んでいる。
彼は天地が覆っても信長には与すまい。
私が毛利家に背けば、たちまち叔父・甥の仲でありながら、敵・味方に分かれてしまう。
私が今能島の家を相続できたのは、ひとえに叔父右近の厚恩なのだ。

そのことを話すからよく聞きなさい。
私が五歳のときに、父の山城守隆勝とは死に別れてしまった。
隆重が私の兄の宗太郎と私の二人を守り立てて、何につけても後見してくれていた。
そのころ、我が一族に村上義正という者がいた。
こいつは欲深く悪事ばかり思いつくやつで、我ら兄弟を殺して、
自分が宗領家の所領を奪い取ろうと考えて兵を起こし、何度も戦を仕掛けてきた。
隆重は智勇ともに優れていたので、戦のたびに勝利を得て、義正の城を乗り破り、
義正は自害するしかなくなった。

そのとき義正の家之子の村上左近という者が、自分の婿の何某とかいう者に向かって、
『おまえは年齢も義正と同じで、顔つきもよく似ている。
主君の命に替わって、矢倉に上り切腹せよ。
夜闇に紛れて、敵には見分けがつくまい。
義正が切腹したと思えば、敵は四方の囲いを解くだろう。
そのときに義正を逃がそうと思う』と言った。

その者はなかなかの義士で、『義正の命さえ助かるなら、私は死を恐れたりいたしません。
それこそ望むところです』と言うと、矢倉に上り、義正と名乗って自害した。
義正はそのとき、つまらない命をどうにかつないで、城から逃げ去ったのっだ。

その後、兄の宗太郎が因島の婿になったが、狂人のような人だったので、
自分の妻を刺し殺してしまった。
隆重はこれを機に宗太郎を殺して、私を取り立てて村上の家を相続させたのだ。

厳島合戦のときは、私はまだ少輔太郎という名で二十歳になったばかりだった。
まだ歳が若かったので、弓矢の道に勇はあっても、功が足りていなかったから、
右近隆重を後見役として頼みにしていた。
隆重の智計謀略が優れていたからこそ、古つわものである来島にも劣らず軍忠を重ねることができ、
元就から数ヶ所の所領を賜ることができた。
それなのに、今信長に与してしまえば、隆重とも敵対することになり、
これでは恩知らずの振る舞いになってしまう。

それに昔、能島・来島・因島が信濃から伊予へと下ってきたときには、
来島には二人の男子がいたけれども、果報がめでたかったがゆえに河野が婿にとって、
風早郡一万貫を賜り、紋も河野家の紋である傍折敷を許されて、傍折敷に三文字を使うようになった。
我が祖先は沖の島々を少し知行して、紋も円に三文字だった。
これさえ口惜しいというのに、今また来島の老母が上洛して信長へ一味することを言上としても、
自分の子である出雲守のことばかりよく言うだろう。
出雲守も、自分が謀略を構えて私のことを信長へ靡かせたとでも言うだろうから、
もちろん忠も来島より浅くなり、所領もまた少なくなるはずだ。
何につけても、とにかく信長へ一味することはしないぞ」と言って、結局来島には同心しなかった。

そして来島は老母を遣わして、信長に一味する旨を言い送った。
信長はすぐに了承し、来島から人質として村上彦右衛門を差し上せた。
信長は来島に対して能島を退治するように下知したので、
それからは能島と来島は、婿・小舅、あるいは叔父と甥が敵となって、数年間あちらこちらで戦った。

あるとき両島は大船を飾り立てて漕ぎ向かい、散々に戦っていたが、
来島のほうが大軍だったので勝ちに乗り、敵船を追い立てた。
能島三郎兵衛尉はこれを見て、三艘の船で敵船が勇み誇っている真ん中へと乗り入れて戦い、
最終的に勝利を得て、来島を一里ほど追い立てた。
その後数度の合戦では来島が戦い負けて、風ハイの城から逃げ出すと、信長を頼って京に上っていった。
しかし家之子郎党たちも皆散り散りになり、与介という中間ただ一人が離れずに付き従った。
この忠義が褒め称えられ、それからは名字を与えられて、浅川与介と名乗ったそうだ。

さて来島は、信長に付けば所領も多くもらえると考えていたのに、たった千石与えられただけだった。
「さしもの大忠を尽くしたのに、たいした恩賞もないのか」と言って、兄弟で元結を切っていたが、
羽柴秀吉が天下の武将になったときには、一万石を与えられたそうだ。
周防の大嶋の中、久可の東郷田の城には、来島が兵を差し籠めてあったが、
隆景が桑原たちに下知して攻めさせたので、彼らは降人に出て一命は助かったものの、
どこへともなく去っていった。


以上、テキトー訳。

えー……以前河野家の話を読んだときに、あまりのぐちゃぐちゃ具合に匙を投げたままになっていたけど、
村上さんちもなんだか込み入った家庭の事情があるようで_ノ乙(.ン、)_
もうちょっとわかりやすく歴史を構築してくれないかな。
無理な注文か。どうなってんのよ伊予。
一族同胞との戦いって、敷居が高いようでいて、接点が多い分きっかけはいくらでもあるし、
他家とのゴタゴタよりは、、簡単に争いに発展しやすいものよね、って。

そんでまあいつものごとく、本筋に関係のないところで気になったのは、
・右近隆重さんてかっこいいよね!
・武吉・隆重らと争った村上義正って、ウィキペさんを見ると義益だよね
・そもそも武吉は、元亀年間に毛利に敵対して包囲されたじゃなかったっけ
・村上氏の家紋が「傍折敷に三文字」「円に三文字」って印象はなかったなぁ
ってあたりで、そもそもあんまり調べないで読んでるので、
浅さはご勘弁くださいまし。

とりあえず次章……というか、明日も本読めるといいなぁ。
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