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2013-01-06

与太郎、若さゆえの

明日から仕事だなんて信じたくない_ノ乙(.ン、)_
もともとダメ人間だけど、長い休みがあると拍車がかかるね!
でもケータイ乗換えの予定を犠牲にして、昨日図書館でとってきた資料をざっと読めたから満足しなきゃ。
そのうちこの資料のネタもそろそろまとめられたらいいな~、などという希望的観測でゲス。

さて陰徳記、だいたいの流れ:
織田と毛利の対立が激化する中、毛利に属していた国人たちが次々と信長に寝返り始める。
伯耆では南条が態度を翻し、元春がその征伐に向かう。
備前でも宇喜多が織田方の態度を鮮明にして、隆景との全面対決の姿勢を示した。


備前の国児島の蜂浜合戦のこと

羽柴筑前守秀吉から、宇喜多への加勢として、
浅野弥兵衛(長吉・長政)に警固船二百余艘が差し添えられて送られてきた。
そして児島に一城を築いて宇喜多から人数を差し籠めるように言い送ってきたので、
宇喜多はすぐに蜂浜に城を構え、宇喜多七郎兵衛尉忠家・嫡子の与太郎が三千余騎で立て籠もった。

これに対抗するため、隆景は四十町ほど自領側の麦飯山というところを城郭として兵を入れ、
忠家を押さえるために、弟の穂田治部太輔元清を大将として、
有地美作守・古志清左衛門・村上八郎左衛門などを差し上せて(天正九年二月十四日)城の普請をさせた。
そこに忠家の手の者たちが、その普請を妨害しようとして、
毎日足軽をけしかけてきて競り合いが行われた。

あるとき蜂浜から足軽を出すと、麦飯山からも打って出てきて競り合い、野伏戦をしていた。
備前勢が次々に出てきて二千四、五百ほどの人数になると、こ
れを見て麦飯山からも「敵が増えてきたぞ。味方を討たすな」とばかりに、
二千人余りがかけつけて、宮の森というところで互いに身命を捨てて攻め戦った。

忠家の嫡子の与太郎は、「今日は味方が負けそうになっています。
急ぎ馳せ向かって味方の兵を勇気付け、一合戦してまいります」と、
鎧を取って肩にかけ、兜の緒を締めて、馬を引き寄せて乗ろうとした。
そのとき父の七郎兵衛尉は息子の鎧の袖をつかみ、
「もう少し待っていなさい。今日は少し胸騒ぎがする」と制した。
しかし与太郎は「味方を安全に引き取ってきます。危ない戦はいたしません」と言って、
その手を振り切って出て行ってしまった。

与太郎は五百余騎で駆けつけると、味方を鼓舞して突いてかかった。
麦飯山の勢が劣勢に見えたので、村上八郎左衛門が船からヒタヒタと上陸し、
手勢三百人ほどを魚鱗の陣に備えて、敵の真ん中へ横合いから突きかかろうと、鑓衾を作って控えた。
古志清左衛門は鑓を取ると大音声を上げて名乗りをあげ、敵数人を突き伏せた。
楢崎十兵衛尉も続いて鑓を入れる。
この楢崎は日ごろから、十人以上の力持ちだと評判だったが、
まさかそこまでではなくても、普通の者よりははるかに力持ちだった。
三間柄の鑓を軽々と提げ、敵を五、六人までは突き伏せた。
敵が引いた後は、のどが渇き息が切れて倒れていたそうだ。

有地美作守も鑓を入れて散々に突き合い、最終的には鑓を投げ捨てて、
敵と上になったり下になったりしながら取っ組み合っていたが、
敵の力が強かったのか、有地は取り押さえられて首を掻かれそうになった。
そこに有地の甥の同名次郎右衛門が駆け寄ってきて、敵を引き剥がすと押し倒し、
二刀で仕留めて主を助け、敵を殺してその首を切っ先に突き刺すと、高く差し上げた。

こうして皆が粉骨砕身して勇をふるったので、
備前勢はたちまち突き立てられて、一度にさっと退却した。
与太郎はこれを見て、「なんと口惜しいことだ」と味方を鼓舞し、
馬上で采配を打ち振るって下知をしながら駆け回った。
そうしていると、胸板を鉄砲で撃ち抜かれて、馬から真っ逆さまに落ちてしまった。

これを見て芸陽勢がここぞとばかりに進んできたので、
備前勢は前後の備えが一緒になって逃げていった。
与太郎は元清の若党、水川の何某という者が討ち取った。
一説には、瀬尾十太郎が討ち取ったともいう。
そのほか、七、八十人ほどの敵を討ち取った。

「それにしても水川が討ち取った武者は年齢が二十歳ほどだが、
容貌がとても美しくて、鎧や太刀に至るまで、普通の人ではない。
きっと今日の大将だったのだろう。その名前を聞きたいものだ」と思っていると、
やがて後からこれも若武者が一人走り寄ってきて、主が討ち死にした場所で戦って死んだ。
後に聞くには、与太郎の小姓、蜂屋宗十郎という者だったそうだ。

同日の夕暮れに、忠家から、「愚息の与太郎が今日討ち死にしたようだから、
死骸を返してほしい」と言ってきたので、「ではあの若武者は与太郎だったのか」と、
皆勇み立って一方ならず喜んだ。
与太郎の死骸は、すぐに鎧や太刀・刀に至るまで添えられて送り返された。

一説に、与太郎は馬に引かれて思いがけずに駆け込んできたのだともいうが、
これは事実ではないだろう。
馬に引かれて討ち死にしたのは穂田元祐だともいう。
これらの話は、再び調べなおしてみようと思う。


以上、テキトー訳。

忠家「与太郎オオオォォォ! わしの与太郎オオオオォォォ!!!」とはならんわけで。
親子が死に別れるのは、誰であれ、悲しいな。息子が先立つ場合は特に。
しかし与太郎、二十歳そこそこで散ってしまったのか。
いや、美形なのにもったいないとか思ったわけじゃ……ある。
とりあえず正矩は、「男色甚美ニシテ」って表現はやめていただきたい。
顔がきれいだったってことだろ! 無駄にソワソワすんだよ!
与太郎が死んだ後に小姓が駆けつけてきて死ぬってのも、切ないな。
若さって……

でもって忠家。「息子が死んだから死骸を返してくれ」って、申し入れするもんなんだな。
そんでもって敵も、由緒ありそうな武者の死体は、持ち物ごと保管しておくんだな。
この流れ、どこかで見たことあるぞと思ったら、長宗我部元親・信親父子だね。
あれは、返された鎧がズタボロで悲壮感がすごかったっけ。
それは置いといて、「分捕高名」っていうくらいだから、
死骸から色んなものを剥ぎ取るもんだと思ってたけど、そうしない場合もあった、てのが面白い。

あとなんとなく思い出したのが、だいぶ前に見た映画『トロイ』。
あの劇中でも、老いた王が戦死した息子の死骸を引き取りに行くんだよな。
あのピーター・オトゥールが透き通るような感じに年齢を重ねてて、
すごく切ないシーンだったなぁ、などと思い出した。

とりあえず今回、私のなかの死亡フラグ集に、
「危ない戦はしないと言って父を振り切って出て行く」てのが加わりました。
次章は隆景も出てくるよ!
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