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2013-01-08

因幡の駆け引き

だいたいの流れ:
毛利と織田の対立が表面化し、緊張が高まるなか、
境目を領する者をはじめとして、周囲の国人たちは動揺した。
伯耆の南条、備前の宇喜多は織田への従属を明らかにして、毛利三家とも抗戦している。
因幡の山名豊国はどっちつかずの態度を決め込んでいたものの、
毛利方に預けていた人質の実子を取り戻してしまう。


因州鹿野の城を明け渡すこと

因幡の鹿野(かの)の城には、芸陽から三吉三郎左衛門・進藤豊後守を大将として、
元春からは森脇内蔵丞・佐々木善兵衛尉が籠め置かれ、
山名大蔵大輔豊国とその家人たちの人質をこの城に置いていた。

そこへと、羽柴筑前守が山名を味方に引き抜こうとして、まず鹿野の城へと攻め寄せ、
隙間もないほどびっしりと取り囲んで、仕寄を組み上げて勢を籠め、じりじりと攻め近づいた。
もう乗り破られてしまいそうになったので、城中の者たちは絶体絶命の危機に瀕した。

どうにかして命が助からないものかと思っているときに、秀吉から使者が送られてきて、
「山名家の人質を渡せば、諸卒の命を助けよう。
もしそうしなければ、一人も残らず攻め殺してやる」と通達してきた。
三吉・進藤は、日ごろから名高い勇士だったが、命がよくよく惜しかったのか、
難なくこの要求を呑むと、豊国・中村・森下たちの人質を引き渡し、
命が助かったのを喜んで芸州へと帰ってきた。
秀吉はすぐに城を受け取り、城主の鹿野に亀井新十郎(茲矩)を添えて立て籠もらせた(天正八年六月)。

こうして、秀吉もしばらくは同国に滞在し、豊国を味方に引き込もうと、策略をめぐらしていた。
そこに、同国の味方が「秀吉が鹿野の城を取り巻いた。軍勢は一万四、五千程度だ」と告げてきたので、
元春様は、「これこそ願ってもない幸いだ。兵も少ないし、急いで打って出て、
手詰めの勝負を決しようではないか」と、先手勢だけで父子三人が打って出た。
そして出雲・伯耆の勢にも、「急いで八橋に集合するように」と通達した。

出雲の富田に到着して四、五日ほど滞在していると、早くも勢は四千ほど集まった。
「これから八橋に上り、杉原と合流すれば七、八千にもなるだろう。
そのまま因幡に上って対陣すれば、秀吉は退却することもできなくなるはずだ。
そのときに後陣の勢が次々に到着すれば、秀吉の敗北は決まったようなものだ。
もし敵が我らを少勢と侮って一戦を仕掛けてきたなら、それこそ望むところだ」と決まって、
富田を出発して八橋へと急いだ。

そこに、鹿野城は早々に降参し、城と人質を引き渡したとの報告が入った。
元春は、「臆病者どもが。あと五日こらえていれば、運を開くことができたのに」と歯噛みをしていた。
この悔しさもあって、是非とも秀吉と有無を賭けた一戦をすべきだとのことで、八橋へと到着した。
このことが秀吉に告げられると、秀吉は、
「今回は兵数が十分ではない。まずは退却して、来春に大軍を立ててから元春と一戦しよう」と決め、
因幡表を引き払って早々に但馬に上り、姫路城へと引き上げていった。
元春は、敵がさっさと引いてしまったのでどうしようもなく、八橋から芸州へと引き上げていった。


以上、テキトー訳。

秀吉のやり方を見ると、兵を引くにも駆け引きがあるんだなぁ、などと考えてしまう。
引き際はもちろん、相手の大将や軍勢の規模といった情報をいち早く仕入れて、
勝てる確証のない場合は、いとも簡単に退いていく。
戦争ってのは、半分は情報戦なんだなぁ、と、しみじみしたね。
胸のすくような合戦の場面が好きだけど、こういうのもなかなか。

そういえば、毛利家好きには秀吉嫌いが多いそうだ。
といっても、私の知ってる狭い世界の話なので、論拠はない。
私は、秀吉もけっこう好きだな。
敵だから腹が立つけど、こういう人物が味方にいると心強そうだ。
権力握っちゃうとやっかいだけどw
それにアレだよアレ。
女にのぼせてフラれるという、ルパンなみの黄金パターンが、なかなかお茶目。

そんなわけで次章は、上方の情勢のお話。
つまり本願寺VS信長ってわけだ。長い話になりそう……
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