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2013-01-09

オラオラな信長

いつもなら、だいたいの流れ~ってやるところだけど、
今回は前の章とほとんどつながりがないので割愛。
時期的には、天正八年か九年ごろのお話で、信長と本願寺の話題。
長いのでいくつかに分割しまする。


信長と本願寺和睦のこと、付けたり大坂城を明け退くこと(上)

輝元から大坂本願寺に付け置かれていた飯田越中守、
そのほか多数の兵たちが中国へと駆け戻ってきて、
「顕如と信長が和睦して、門跡は城を退出して紀伊へと下った」と報告してきた。

その様子を尋ね聞いてみると、信長がどうにかして大坂を攻め滅ぼそうと、
自ら大将として打ち向かい、付城を構えて攻めても、その城は少しも弱る様子がなかった。
さしもの大強の信長も攻めあぐねて、これをどう打破すべきかと熟考を重ねたが、
「今は武力では大坂を降すことができない。謀略を構えてどうにか我が手に付けよう」と考え、
天正八年正月、正親町院へとこう奏上した。

「大坂の門跡とはこれまで戦争を繰り返しており、あの地において何度も防戦を遂げましたが、
地の利が堅固で、味方が敵城を陥落させることができませんでした。
このことはお耳に入っていることでしょう。
本来なら門跡を宥めてくださり、この信長の下知に従うように勅を発してくださってもいいのに、
そうはなさらないということは、大阪の上人のお味方をなさっているのだと存じ奉ります。
そうであるなら、また信長も朝家を恨むことになります」と、それは荒っぽく奏上した。

帝は大いに驚いて、すぐに公卿たちと会議をすると、
勅使として庭田大納言重保殿・勧修寺中納言晴豊殿を大坂へ差し下した。
近衛関白信基公は上人と親しい間柄なので、この人もまた下向した。

「本願寺は専修念仏の棟梁の身でありながら、柔和忍辱の法衣を脱ぎ、
武芸をたしなみ、甲冑をつけて弓矢を携え、信長と何年も合戦に及び、
敵味方数万の士卒を死なせてしまったことは、実に遺憾である。
急いで信長と和睦するように」との勅旨であった。

門跡は、すぐに下間の一族やそのほか譜代恩顧の者たちを呼び集め、
この勅定について会議を開いた。刑部卿・同少進などは、大いにこう進言した。
「現在、東西南北には勇将・智将は数多くいますが、皆信長によって城を追われ身を滅ぼし、
あるいは兜を脱いで軍門に下っております。

信長がこの寺を滅ぼそうとしているわけは、近年キリシタン宗が日本に渡来してきて、
諸人を邪法に勧誘しているからです。
ですがこの真宗はこの誘いを聞き入れませんでした。
それで京・大坂・堺・近江・越前において何度も論戦を行い、
公儀の許しを得て、あの宗の坊主を殺害しました。
このせいで、バテレン宗のイルマンたちが信長へと我ら真宗のことを讒言して、
当宗派を滅ぼそうと企んだのでしょう。これが第一です。

その次に、この寺は日本随一の名城なので、
信長はこの城を我が物にして軍兵を差し籠め、西国の押さえにするつもりで、
石山を所望しているのに、我らが与えないからです。
この二つの理由で、信長と当宗は現在戦争をしています。

けれども味方が利を失うことは稀で、何度も信長を追い立ててきました。
これは本尊の阿弥陀如来のご加護があったとはいえ、
紀伊の一揆勢が皆籠城して身命を惜しまずに防戦しているからです。
もし信長がこの城に押さえを置いて紀伊へと発向したならば、
越前で下間和泉守・同筑後守・鈴木出羽守などが滅びたように、
一揆の大将たちは皆討ち死にしてしまうでしょう。
そうなっては、この寺に長い袖の者たちばかり集まっていても、
一日も片時も持ちこたえることはできません。
どうか勅旨に従って、この城を信長に渡してしまってください。
信長もこの寺を城郭にするという望みさえかなえば、
強いて当宗門に攻撃を仕掛けてくることはないでしょう。

蓮如上人の大坂の御文にも、
『そもそも当国摂津東成都生玉の庄内大坂という場所は、往古からどのような約束があったのか、
去る明応第五の秋の下旬のころ、かりそめに住まい、この在所をはじめて見たときから、
一通りの坊舎を建立させ、当年で早三年の星霜を経た。
これはすなわち昔からの因縁が浅くないためだと考えている。
この在所に居住を決めた理由は、一生涯を心安く過ごし、栄耀栄華を好み、
また花鳥風月に心を寄せるためではなく、
無上菩提(完全な最上の悟り)のために信心潔斎する行者たちを賑わせ
念仏を申す衆生が増えるようにと思う一念の志からである。

またおそらく世間の人には偏執的な輩もいるだろうから、難しい問題が起きたときには、
ここに執着する心を捨てて速やかに退出するべきである云々』とあります。
ですから、蓮如上人のお言葉に従って、また勅命にも従って、
この城を明け渡し、仏法が滅亡しないように策をめぐらしてください。

ただし、信長は卑怯随一の邪将ですので、帝に奏上して、
この城さえ明け渡せば、今後この宗門を断絶させようとしたり、
また上人を殺害しようという企てをしないということを、
固く誓紙を取り交わしてから和睦した方がいいと思います」

この意見には、その場に集まっていた者たちが皆「もっともだ」と賛同したので、
顕如上人・教如上人父子もこの件に同意した。


以上、テキトー訳。続く。

朝廷を脅すとか、信長、パねえな。
このころの朝廷や貴族たちは、食べるものにも困るほど困窮していたようで、
官位なんかを金で売っていた(表向きは即位料などの献金を受け取って、お礼に授ける)ようだね。
元就や元春も献金して官位もらってたし。あれ、益田もだっけ。
まあ、大軍勢を擁する信長に睨まれたらひとたまりもなかろうて。
うまいこと権威を利用する信長、ここまでコワモテに描かれてると、逆に惹かれてしまうw

この権力と権威の分離、互いの依存の仕方なんてのも、勉強すれば楽しいんだろうな。
あと、本願寺の体制が、まるで大名みたいじゃない。
こういうのも、前知識がないもんで、ぼんやり読んでるしかないけど、
ちゃんと勉強すれば面白いんだろうな。
よく安国寺恵瓊が「僧でありながら大名になった」と言われたりする(最近は否定されてるようだ)けど、
本願寺のほうがよっぽど大名なみだよねって。

さてさて、次回も続きを読む!
全3回で終われるといいな……と思った矢先に、次回は不得手な手紙らしきものが見えたりgkbr
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