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2013-01-12

顕如・教如の仲違い

これまでのあらすじ:
信長は大坂の城を手に入れるために長年本願寺を攻めていたが、落城させることができず、
帝を脅迫して、本願寺に信長と和睦し城を明け渡すように、勅命を出させた。
顕如は下間一族らと相談してこの勅命に応じることを決め、
信長と固く起請文を交わして、城を退出することにした。
これに伴い、輝元が大坂の城に送っていた飯田越中守らが安芸へと戻ってきたのだった。


信長と本願寺和睦のこと、付けたり大坂城を明け退くこと(下)

こうして顕如上人は勅旨に従って、また信長との約束を守り、
同四月九日、大坂本願寺を出ると、堺口の門を通り、木津から船に乗って、
翌日紀伊の鷺の森へと到着した。
この場所は雑賀孫一の所領だったので、雑賀はこれ以上ないほどに世話をした。

このように、下間一家の物の心得がある者が、信長との和睦を勧めた。
そのほかの、物がよくわかっていない若者たちは、
顕如上人が退城の決定をしたとき、子供の教如上人にこう勧めたそうだ。

「今回、信長などと和平を結んだのは、何を恐怖してのことでございましょう。
この十一年間、何度も合戦をしましたが、毎回追い崩して大勝利を得ています。
味方が敗軍したのはたった二回ではありませんか。
また戦ったとしても、どうして勝利できないことがありましょう。

教如上人は、是非ともここに残ってください。
もう一度信長と一戦して、命を限りに切ってかかり、
たちどころにあやつの首を剣の先に貫いて見せましょう。
そうすれば、憎い敵を滅ぼせるばかりか、仏敵法敵を退治することになりますので、
末永く正法が繁栄することでしょう。

信長は仏神三宝をも恐れぬ大悪人です。
今は起請文を書いて和平を願ったふりをしていますが、ひどい陰謀を企て、
隙を見て攻め寄せ、上人を討ち果たそうと考えているのは目に見えています。
どうか一筋に思い切ってください。
皆お味方に参って忠戦いたします」
教如上人はまだ若年だったので、何の熟慮もせずにこの者たちの勧めに乗り、
和平を破ってまた敵の色を立てたのだった。

これによって大坂六千余間の町人たちは、後日大変なことになるだろうことは顧みずに、
当座の財宝に理性を失って皆同心してしまったので、
たちまち顕如・教如父子は仲違いしてしまった。
教如は大坂にとどまったが、顕如は城を退出したそうだ。

こうして教如上人は大坂石山に籠もり、敵が攻め寄せてきたなら一戦しようと待ちかけていたけれども、
敵は大強将の信長でもあり、味方は父子の仲違いで散り散りになっていたので、
すでに軍兵は十分の一になっていた。
端城の勝曼の出城も陥落され、尼崎・花熊の城も攻め滅ぼされた。
木津の一城は堅固に守っていたが、これは父の顕如方だったので、さしもの教如上人も呆然としていた。

しかしこうしていてもどうにもならないので、やがて再び信長に和睦を申し入れた。
信長は、「教如は固い誓紙の趣旨に背いて籠城したのに、
今また和平を申し入れてくるとは、卑怯も甚だしい。
このままあの城を攻め落とし、上人以下ことごとく首を刎ねたいところであるが、
衣を墨に染めていることに免じて、赦免しよう。
たとえあちらに不義があって約束を破っても、私は起請文を破ることは絶対にしない」と言って、
教如を征伐するようには命じなかった。

「牛頭・馬頭よりもさらに恐ろしい信長のことだ、教如を助けようと思ったのではないだろう。
しかし事を荒立てれば、征伐も難しくなると考えて、
このように穏やかな調子で騙して生け捕りにし、誅殺しようとの謀略なのだろう」と思わない者はなかった。

さて信長は、「大坂の城を明け渡すならそれを受け取ろう」と言って、数万の軍兵を差し向けた。
これを見て、はじめは「敵が攻めてきたなら命を限りに戦って戦死しよう」と威勢よく叫んでいた者たちも、
取る物もとりあえず、皆あちこちに逃げ出していった。
さしもの教如も力及ばず、同八月二日に大坂の城を落ちていった。
しかし備前より上方は皆敵国である。紀伊一国だけが味方の国だったので、
その国へと落ち延びて、和歌の浦へと立ち寄った。

顕如上人はこのことを聞くと、
「教如を勘当したことは、私の個人的な感情からではない。
勅命に背き、信長との約束を破って大坂の城を保持しようとするのは、
凡人ですらあってはならないことだ。
それなのに、出家の身でありながら、仏神の照覧さえも顧みずに、
不義を企て、寺法に背いたのが第一の理由だ。

それに、今回は起請文を交わして和平を結び、安堵に胸を撫で下ろしたとはいっても、
教如がこのような卑怯なことをしでかして起請文を破ったのだから、
きっと再び信長から討手を差し向けられるだろう。

私がこう言うのは、死を恐れているからではない。
子の悪逆を、親でありながら知らないはずがないと、世の人は思うだろう。
知っていながら制止しないのは、親もまた不義なのだ。
罪もない親を、子でありながら不義の罪に陥れることは不孝の極みである。
これが二つ目だ。
弥陀・釈迦二尊の御代官となって、人に信心を固めるように勧める身でありながら、
子供のせいで表裏胡乱の悪名を着せられなければならないとは、口惜しくて仕方ない」と言った。
そしてこうした理由があって勘当したのだということを天子に奏上して、仲直りはしなかった。

教如上人は、この紀伊の国を頼りにしてきたのに、
和歌の浦のかたを波、芦辺はるかに潮満ちて、寄る辺もなく、
身を置く場所がないような島田の鶴のような気持ちになって、当て所もなくそこを離れた。
しばらくは美濃の国に隠れ住んでいたが、、それから近江の国へと移ると、
称名寺という浄土真宗の寺を頼って過ごした。
この僧は、木下半介にとっての兄であった。

大坂の門跡はこのような成り行きになった。
三木の別所も同年正月六日(天正八年正月十七日)に没落してしまった。
宇喜多は一昨年から毛利に一味する約束を変じて敵となっていたので、
南は備前、北は因幡から上方は、皆信長に一味した。
その武威は飛龍が天にいるようなもので、とても対抗できるとは思えなかったと聞いている。


以上、テキトー訳。

教如、やっちまったなぁ。でも秀吉の世になってから復活するんだっけ(うろ覚え)。
なかなかにしぶといよね。こういうしぶとさ、嫌いじゃないかもしれない。
木下半介って誰だ……秀吉の一族か。

毛利が頼りにしていた本願寺もこんなことになってしまい、
いよいよ追い詰められる鬱展開に突入しそうな気がして滅入ってくるから、
ちょっと違うことを考えよう。

最近入手した資料が、元長と恵雍の宗風についてだったり、
香川春継に関して詳しいものだったりと、個人的にものすごくどストライクなものだったので、
たいへん機嫌がよいです(*´∇`*)
杉原盛重がものすごく気になるんだけど、この関連は、
信頼できそうなものが手に入らなかったな……
ただ、香川春継の後妻が杉原盛重の娘らしい、という系図があったので、
陰徳記で盛重が称揚されてるのは、この縁もあってのことじゃないかと思いまった。
正矩が盛重の娘の孫って可能性もなきにしもあらず!?
香川の系譜は、残念ながら詳しいものに出会えていないので、
岩国に行く際に、ちょいちょ調べてこようかと思いまうす。

さて次章、本願寺と信長の合戦についてのようだよ。
まだ続くのかよ……と思ったら、これ以前の話のようだね。
しばらく毛利・吉川勢が登場しそうにないので、私涙目(´;ω;`)
いいもん、他の資料で吉川充するもん。
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