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2013-01-13

石山決戦の火蓋落ちる

さてさて陰徳記、お話は天正八年に信長と本願寺が和睦して、
顕如上人が大坂石山の本願寺を立ち退き、
抗戦に打って出た教如上人が信長にかなわずに大坂を追い出されたばかりか
父の顕如にまで勘当されてさすらった、というあたりまで進んだ。
今回は、その石山本願寺ではどのような戦いが繰り広げられていたのか、というお話。


信長と本願寺合戦のこと

本願寺が籠城している間、何度か合戦があったので、その様子を尋ね聞いた。
右大臣信長公は、大坂本願寺を城郭として利用したいがために譲ってほしいと持ちかけたが、
門跡が応じなかったので、
信長は「それならあの寺を攻め破り、上人父子を捕虜にして、死罪や流刑に処そう」と考えた。
しかしその宗門の徒弟たちは他の宗派とくらべて非常に信心が固かったので、
「やつらが心を合わせて立て籠もり、防戦に出てくれば一大事だ」と思った信長は、
どうしたものかと考えをめぐらしていた。

そのころ、三吉笑岸・同日向守・同備中守・同為三・同新左衛門・東条紀伊守・
篠原玄蕃允・奈良但馬守・岩成主税助・安宅神太郎・細川六郎・同右馬守らが、
摂津の野田・福島の両城に立て籠もって我が物顔でいた。
信長は、「これを攻め平らげると発表して、その城を陥落させると、
そのついでとでも言うように、不意に本願寺っを攻め破ればいい。
きっと顕如上人は三吉征伐をするつもりだと思って、他人事のように考えて、
何の用心もしないはずだ。
あっという間に大坂石山を乗っ取り、上人父子を生け捕るのは簡単だ」と、内々に会議で決めた。

そして元亀元年八月二十日、六万余騎を率いて摂津へと発向し、
野田・福島の周辺の家を焼き、天満の森・神崎楼の岸・上難波・下難波に陣を据え、
この両城を攻めるために、河口やそのほかあちこちに向城を構えた。
実はこれは、大坂石山を攻めるための謀略であった。

顕如上人は、智謀が人より傑出していたので、信長の出征を早期に察知した。
「今回の三吉の一族を征伐するというのは、この顕如の身の上の大事になるぞ。
その用心をせよ」と言って、一族や家老を呼び集めて軍議をした。
そして数ヶ所の砦を構えて軍士を入れ置き、在所在所へと忍びやかに使者を遣わして、
「石山本坊が早鐘をつくことがあれば、信長が攻め寄せてきたと考えてくれ。
石山に集まってこなくていいから、あちこちで翻弄しなさい。
敵が川を渡ろうとしたら、橋を落とし、船を流せ。陣屋には隙をうかがって火をかけよ。
おそらく、信長が今回このあたりへ出張りしてくるのは、三吉征伐が目的なのではなく、
石山を乗っ取るつもりでいるのだろう。絶対に油断をするなよ」と、
中島をはじめとして、摂津河内へと触れ回らせた。

そのほか国外にも知らせを送ると、下間・西川・鈴木・亀井・三井・田辺・
岡崎・藤井などという者たちが、数千騎を率いて馳せ集まってきた。
紀伊の根来の雑賀の者たちは、前々から門跡に心を合わせておきつつ、
表向きは信長へ加勢するといって、総勢一万余騎で、大坂と中島の中間に陣を取った。
鉄砲に玉を込めずに城に撃ちかけ、合図の言葉を決め、夜回りを厳しくして、
いいきっかけがあれば信長の本陣へと切りかかろうと、時節を待って控えていた。

さしもの鬼神をも欺く信長であっても、大坂の地の利はきわめて優れており、
人々もまた信心が固かったので、一戦に及んだらなかなか侮れないと思ったのか、
兵を出すことはなかった。
城中からは、なんとか策略を運んで敵の強弱を確かめようとして、
同九月十四日、森口方面の田を刈り取るために、足軽を四、五千ほど出した。
付城に籠もっていた佐々内蔵はこの様子を見ると、信長に注進した。
城から見ると、敵陣の旗色が変わったように見えたが、
信長が「あれを討ち取れ。願ってもない幸いだ」と下知したので、
佐々内蔵助・林新三郎・井上才介・福富平左衛門・野々村三十郎・湯浅神介・
野村越中守・金松又四郎などが、中島から川を一直線に渡って切ってかかった。

大坂側は、内々に用意していたことだったので、早鐘をジャンジャンと鳴らした。
途端に家々から僧俗老女たちが手に手に弓・鉄砲・鑓・長刀・を提げて打って出る。
城中では、今日一戦すると前もって作戦を立てていたので、あちこちの砦に兵を入れ置き、
鉄砲七、八千挺を二手に分けて、入れ替わり立ち代わり撃ちかけた。
寄せ手はこれに射立てられて、散り散りになって引いていく。
後陣が入れ替わって進んでくるのを見ると、紀伊の雑賀の鈴木孫一の一族、越前の下間の一族らは、
雑兵には目もくれずに、主力の兵と思しき備えへと切ってかかった。

敵も佐々・福富など皆大の剛の者だったので、ためらうこともなく無手と渡り合い、散々に戦った。
佐々・福富・湯浅・金松は、武者を討ち取って進んでいく。
けれども鈴木・下間の者たちも一騎当千のつわものばかりなので、
身命を惜しまずに切ってかかり、野村越中守を討ち取り、
勇み立って突き立ててくるので、寄せ手はたまらず引き退いた。

城中の兵たちは勝ちに乗り、逃げる敵をしきりに追いかけた。
寄せ手の大勢は一人残らず討ち取られてしまうだろうと思っていると、
前田又左衛門利家が取って返して鑓を入れ、敵を突き伏せ、
項羽・ハンカイを髣髴とさせるほどの勇猛さを見せた。
城の兵が追いかねていると、毛利河内守・湯浅神介・中野又兵衛尉などが助けに駆けつけ、
味方を守りしんがりを務めて退却していった。

信長の本陣である天満の森へも、その土地の者たちが紛れ込んで火をかけたので、
火柱を上げて焼け落ちた。
あちこちに潜んでいた一揆勢がいっせいに蜂起してドッと鬨を上げると、
寄せ手は裏から崩れて慌てふためいた。
これは一大事だと思ったのか、信長は本庄の向かいにある河口の付城へと入っていった。
その日、寄せ手は数千人が討たれ、手負いは数知れなかった。

城中では主力兵の首実験が行われたが、上人は、
「仏法を断絶させないため、また仏祖の恩徳に報謝するためだとはいえ、
このような防戦に及んで多くの人の命を奪ったのは残念で仕方ない」と、
墨の衣を涙で湿らせた。

こうして討ち取った首の中には、美濃の国の願誓寺から来た者たちが見知っていた顔もあった。
織田新八郎・氏家内蔵助・同九郎五郎・同助八郎・佐々小太郎・湯浅六・野々村喜太郎・
林新二郎・同新九郎・池田少太郎・同小次郎・福富十郎兵衛尉・酒井五郎兵衛尉・
金松仙・小川大八郎・塙小介・深川玄蕃・加納将監などである。
そのほかにも首は多くあったが、見知っていないので姓名を記さずにおいた。
この者たちは皆一騎当千の名を上げたつわものだったので、
「信長の遺恨は浅くないはずだ。
きっと再び攻め寄せてきて、鬱憤を散じる一戦を仕掛けてくるだろう」と、
あちこちに出城を構え、用心を厳しくした。

こうしたところに鈴木伊賀守が、
「今回は、敵は中島口から攻め寄せて勝利を失い、大勢討たれて退却していったので、
次回は天王寺口・森口あたりから攻め寄せてくると思います。
そちらの用心をするといいでしょう」と言った。
では天王寺に出城を構えようと支度をしていると、社人宮僧などがあれこれと文句を言うので、
五町ほど引き下がって勝曼の塔に城を築いて軍兵を差し籠め、
そのほか木津・難波・森・玉造・伝法・大海・飯満・鴫野・久宝寺・出江・小浜・
尼崎・花隈などに大将を配置して楼の岸・本庄を手堅く守備した。

さて本願寺に一味した宗門の者たちには、まず下間出羽守・同近江守・本多土佐守・
山名内記・河那部主馬助・八木駿河守・森左近・山田新介・佐々木承正軒・
同将監・細川主馬助・同和泉守・野嶋主水正・河崎水之助・今井権七・鈴木伊賀守・
荒木信西軒・同久蔵・上原伝内・同主膳・野坂一学・下村右近・村上利介・
嶋田河内守・野里三右衛門・益田覚也・藤井太郎右衛門・同藤内・平野大学・
堀尾西賢・下間二位・同源七郎・同源太郎・同源五郎・津筑次郎右衛門・
三林周防守・中村壱岐守などである。

僧では、端坊・東坊・正応寺・上宮寺・阿弥陀寺・無量寿寺・報恩寺・勝願寺・
妙安寺・如来寺・枕石寺・信楽寺・弘徳寺・寿命寺・常弘寺・浄興寺・法光寺・
常満寺・願誓寺・定専坊・願泉寺などである。

門跡の一門では、新門主・興門主・常楽寺・願入寺・円興寺・常称寺・光善寺・
顕証寺・毫摂寺・西光寺・本泉寺・松岡寺・勝興寺・瑞泉寺・本宗寺・願証寺・
光応寺・興行寺・真徳寺・本徳寺・恵光寺・願徳寺・超勝寺・教行寺・慈敬寺・
常願寺・証願寺・願行寺・光敬寺・興善寺・善福寺・明願寺・真宗寺などである。

この者たちが、あるいはそれぞれの方角に備え、または門下の意見を聞き集めて、
僧俗心を合わせて、あちらこちらの関を固め、城を守り、合図を定めて用心を厳しくした。
その様子は、信心の堅固さがなせるものに見えた。
本願寺の寺中には、下間の一族・御堂衆・奉行・諸士三千余人と雑兵五万余人の者たちが立て籠もり、
仏恩祖恩のために一命を投げ捨てさえすれば、来世は上品上生に生まれると、
何の疑いも持たずに一向に頼みをかけ、寄せくる敵を待ちかけていた。


以上、テキトー訳。

あら、意外と楽しかった。やっぱり私は合戦描写好きだな。
こう、金を鳴らした途端に、町全体が一丸となって、
老人や女たちまで武器を手に出てきて戦うっていうのは、
なんか一体感というのか、高揚感というのか、展開としてはかなり楽しい。
織田勢はさぞ肝を潰しただろうなぁ、と思ったら、
そんなに甘い人たちじゃなかったね。

気になる名前もちらほら。
前田利家……「鑓の又左」の本領発揮でかっこいい!
本多土佐守……いや、多くは言うまい(実はよく知らない)。
雑賀(鈴木)孫一もなかなかに素晴らしい。
まあどの人もよく知ってはいないんですけれども。
何年か勉強続ければ、わかるようになるかなぁ。なったらいいなぁ。
でも私の場合は狭いほうへ狭いほうへ行く癖があるので(恩師のお墨付き)、
そちらに興味が向くのはいつになるやらw

さて本願寺の合戦はこれでは終わらない。
次章も引き続きドンパチやってくれそうだぜヒャッハーーー!!!
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