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2013-01-16

将を射んとすれば

だいたいの流れ:
西国の押さえにするために大坂の地を所望した信長だったが、
石山本願寺の顕如は譲ろうとしない。
そこで織田勢は隙をうかがって石山の城を攻め取ろうとするも、
各地から集まって籠城を固めていた門徒たちに返り討ちにされてしまう。


信長公大坂を敗軍のこと、並びに信長、伊勢・越前へ働くこと

同(元亀元年九月)二十日、信長は大坂表を退陣するとの噂があった。
大坂の城中では、「もしかしたらこれは信長の謀略で、退陣と発表して我らを油断させ、
一気に兵を出して不意に城を攻めてくるつもりかもしれない」と会議をして、
あちらこちらの砦へと加勢を入れた。
「敵は大軍なのだから、一人も後追いをしてはならん。
もし敵を追いかけるときがきたら、それぞれの大将から下知をすること。
下知もなく敵を追った者は、法敵仏敵と同じである」と、固く掟を定めた。

翌二十一日未明より、信長の先陣は淀川に沿って上り、
一つの付城に軍勢を籠め置くと、江口に船橋をかけて静かに引き上げていった。
大坂では若武者たちが忍びやかに森口に打って出て、六千余騎が一緒になって、
吹田・鳥飼に合図して摂州嶋上下二郡の兵を整えた。

二十二日の午の刻、信長が江口をわたると見るやいなや、
太鼓を打ち、貝を鳴らし、一丸となって攻めかかっていく。
けれども天下の武将に備わったほどの信長なので、退き口もいかにも完璧で、
一備えずつ真ん丸になって退いていたが、
大坂勢が後追いをしてくるのを見ると取って返して、馬を一面に立ち並べ、足軽を先に立てて控えた。
大坂勢も敵の備えが思ったより固いので、切ってかかることができない。
寄せ手も退却途中の大軍なので、進むに進めなかった。

こうしたところに前田又左衛門・柴田修理亮・和田玄蕃などが集まってきて、
一揆勢相手と見るや、一発攻撃をして蹴散らそうと、手勢数千騎を率いて切ってかかってくる。
大坂勢は難なく一戦で突き立てられ、散り散りになって退却した。
討たれたものは数知れない。
大崩れになった敵を見て、寄せ手がなおも追いかけて一人残らず討ち取ろうとしていると、
寄せ手の付城の一つから火が出て、周辺の陣屋もすべて焼けてしまった。
寄せ手は大騒ぎになって、前後の備えが一緒に、我先にと逃げていく。

これを見て一揆勢はあちらこちらから鬨を上げて攻め近づいたので、
淀川に逃げ込んで水に溺れて死ぬ者もあり、またそこの一揆勢に討たれた者もあった。
名のある武士は討たれなかったが、雑兵たちは数知れぬほど討たれた。
江口から山崎までは、草も木も打ち砕かれたようになり、死骸が道に溢れた。
信長は少しも怯えることなく、山崎に一夜陣を据え、京都へと帰っていった。

さて門主はこの様子を聞くと、今回討ち死にした敵味方の追善のために、
同二十五日から七日間、三部妙典を読経した。一日に三回の法事を執り行い、
その自他不二平等利益の志はありがたいものだったという。

信長は、大坂に攻め寄せた二度の合戦に一度も勝利を得られなかったので、
攻めあぐんで考え込んでしまった。
しかし羽柴・柴田・滝川たちが、
「大坂の城はただの長袖(僧)たちの寄せ集めです。攻め破るのは簡単ですが、
伊勢・越前・紀伊の三ヶ国の門徒たちが心を合わせて立て籠もっておりますので、
味方は勝利できませんでした。
まず越前・伊勢・紀伊、それに加賀・近江・播磨の浄土真宗の者たちを攻め滅ぼせば、
大坂は攻めずとも落ちましょう」と大いに諫言した。
信長は「もっともだ」とこれに同意し、元亀二年からは大坂にはまったく出陣せず、
伊勢の長島願証寺へと同年七月から攻めかかった。

はじめの合戦では戦利を失って、氏家卜全が討ち死にした。
その後は一揆勢の城を数ヶ所攻め落としたけれども、
約束を破って一揆勢を鉄砲で数百人撃ち殺したので、
一揆勢は大激怒して数千人で信長の六、七万の勢に切ってかかった。
一揆勢はどうにか信長の旗本にたどり着こうとしたものの、信長の運が強かったのか、
一揆勢が主力の一族の陣を信長の陣だと勘違いして切ってかかっていったので、
信長はまったく無事だった。けれども一族は数十人討たれてしまった。

その姓名を聞いてみると、信長公の伯父の津田大隈守・その弟の半左衛門・津田市の助・
弟の仙・同六郎・同孫十郎・赤見左衛門佐・大野佐次八郎・佐渡民部太輔・
坂井七郎左衛門といった者たちである。
このときの大将は下間三位という者だった。
あちらこちらの合戦で三百余騎が討たれ、七十余人が大坂に籠もっていた兵のさきがけであった。

また翌年の天正元年八月十五日に信長が越前に攻め入り、
浄土真宗の門弟たちを征伐したという報告が入ると、顕如上人は、
「あの国を平定したら、信長はまた大坂へ発向してくるだろう」と考えて、諸国へ檄文を回した。
それにはこうある。

 「今回、越前へと敵が侵攻してきたそうである。
  こうなれば、当寺も一大事の籠城をすることになるだろう。
  どこにも頼ることはできないので、今回志を起こし、
  一筋に籠城しようという心がけのある者たちが相談して参上してくれれば、
  実にありがたく頼もしく思う。
  なかでも、いつも言っていることだが、仏法の集まりについては、
  信心を固めたならば、いよいよ緩みなくたしなむようにするといい。
  まだ信心していないなら、片時も早く入信していただければありがたく思う。
  なお、詳しくは瑞坊が申し伝える。あなかしく。

   (天正元年)八月二十五日
                顕如(判)
     紀州
     坊主衆中
     門徒中へ」

このように諸国へ檄文を飛ばすと、もともと信心が固い宗門なので、
我先にと集まってきて立て籠もり、兵糧を百里も先から運んできて、
鉄砲・弾薬なども十分に集まった。
また堀を掘り、逆茂木を備え付けて、いよいよ城を堅固に構えたとのことだ。


以上、テキトー訳。

なんとな~く学生のころを振り返ってみると、
そういえば確かに歴史の授業で信長の本願寺攻めとかあったよね。
という程度の知識だよね私は。
ああいう授業では、「何年に何があった」という流れは追うけど、
「どういう目的で」って部分が欠落していたのか、ほとんど印象に残ってない。
こういう部分に焦点を当ててくれれば、もっと興味をもって取り組めたのに。
そういう面では、軍記のような物語は人生を豊かにしてくれるわ……

いや何が言いたいって、毛利・吉川勢が出てこないのであんまり言いたいことはない(おい)。
でも、本願寺攻めを中断して越前攻めに転向した理由が出てくるわけじゃない。
将(本願寺)を射るには、まず馬(各地の門徒衆)を射よ、ってことだろ。
こうしたストーリーがあったほうがわかりやすいよね、とは思った。

とかなんとかボンヤリしながら読んでるけど、
まだまだ続きそうな本願寺VS信長。
この先もボンヤリ読んでいきます。
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