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2013-01-19

原田、会稽の恥を雪ぐ

昨晩は眠気に勝てずに早々に沈没しておりました。
そして今日も22時ごろからすでに眠気が……_ノ乙(.ン、)_<ぐぅ
どういうことなの。

さて陰徳記、だいたいの流れ:
信長と本願寺籠城衆の対決、第二ラウンドが始まった。
大坂は地の利堅固なので、織田勢は度々合戦に負けていたが、
前回の大将を務めた原田備中守(旧名:塙九郎左衛門)は、なかでもひどい負け方をして、
付城の天王寺を追われたばかりか、逃げ込んだ住吉までも焼かれてしまった。


原田備中守、討ち死にのこと

さて原田備中守は、大坂勢を寄せ集めの一揆勢と同じだと侮って、
一戦のうちに追い立て切り捨て大勇を顕し、人よりも高名を稼ごうと考えて、
うかうかとかかって戦った。
しかし一揆勢とはいえ、鈴木など、紀伊で昔から活躍してきた御家人や役人たちが相手なのである。
土民の一揆とはわけが違う。
その祖先を調べてみると、今信長の将として名を上げている柴田・筒井・滝川にも劣らず、
ましてや羽柴・惟任などとは比べ物にならないほどの者たちであった。

その者たちが、宗門の信心を固め、義だけを心にかけて防ぎ戦ったので、
原田はたちまち一戦に負けてしまったばかりか、天王寺の付城まで追い立てられ、
その上住吉まで焼き払われてしまった。
これまでの武名は泡と消え、人々に「戦下手」と呼ばれるようになった。

原田は、「こうなっては命の永らえても何の意味もない。
きっと先日の勝ち戦と同じように、天王寺に敵が攻め寄せてくるだろう。
そのときに十死一生の合戦を遂げ、行きようが死のうが、
とにかく会稽の恥を雪がなければ」と考えた。

信長はこらえ性のない荒大将なので、原田が二度も戦に負けたという報告を聞くと大激怒した。
「この大の臆病者をまた天王寺に籠め置いても、再び落とされて、敵に力をつけてしまう。
天王寺には佐久間右衛門尉父子が籠もるように。
原田は長岡・荒木らの手に従い、大坂勢を押さえて天王寺の城を堅固に築け」と言い送ってきた。

原田はこれを聞いて自分の陣所に帰ると、家之子郎党を呼び集めて、涙をはらはらと流した。
「私はこれまであちらこちらで勇名を馳せてきた。
これは誰でも知っていることだ。
けれども天命が尽きたのか、先日は二度も戦で利を失ったばかりか、
天王寺の付城を落とされてしまった。
このせいで信長公は天王寺の在番を変更なさり、佐久間に仰せ付けられた。

こうなっては人に向ける顔がない。
手勢だけでいいから、これからすぐに大坂に攻め寄せ、
諸人の目を驚かす一戦をして、討ち死にしたいと思う。
最期の様子をよく見ておいて、故郷に帰ったら妻子に語ってくれ」
原田がこう言うと、皆「これまでの御厚恩に、今こそ報いるときです。
今回は我らもお供して戦死いたします」と申し出た。

こうしたとき、信長から「木津の砦を乗っ取れ。
この城に味方の勢を入れ置けば、大坂を攻めるには都合がいい」と下知があり、
検使として猪子兵介・大津伝十郎の二人が派遣されてきた。
原田は願ったり叶ったりと喜んで、最期の盃を一族郎党と酌み交わし、
同(天正四年)五月三日に出陣した。

先陣は三好笑岸・根来の衆徒、そのほか和泉・河内の加勢の者、
二陣は原田備中守と定めて、木津へと攻め寄せていく。
木津の城からは、下間出羽守・八木駿河守・木津の願泉寺・江戸報恩寺・本多土佐守・
鈴木孫市・同一楠・田辺平次・山田新介・村上利介・山名内記・益田少将などが打って出て、
鉄砲で散々に撃ちかけてきた。

三好は信長に一味した証拠として参戦しただけで、自分の身に必要な合戦ではない。
根来・和泉・河内の者たちは、心は大坂に味方していたので、一戦するとすぐに退却した。
原田は、「こここそが私の戦死する場所だ。
華々しく戦って、末代まで名を残そうではないか」と手勢に下知をすると、切ってかかった。

三好らも助けに来て、未明から戦が始まった。
敵味方入り乱れ、切りつ切られつ攻め戦う。
原田は今日が最期とばかりに戦ったので、その威力は過日の十倍とも言えた。
勝負はわからなくなり、いつになったら戦が終わるとも予想できない。
ただ命を限りと思ってばかりいると、巳の刻(午前10時前後)ごろになって大坂から出火した。
町の家屋が数十間も焼け、煙がカッと天に上ったので、
木津勢は「これは何事だ」と心細くなり、少し退いた。

原田は、「さあ敵が引いたぞ。進めや者ども、一人も逃がすな」と真っ先に進んだので、
寄せ手は遅れるまいと追いかけた。
十二人の侍大将たちは武勇の誉れが傑出していたので、ここで取って返さないわけがない。
あっという間に馬を引き返し、ここを先途と戦った。

難波の出城にいた河那部主馬助・八木左近・森三河守・野里三右衛門・西川新太郎・
佐々木将監・荒木信西軒・中村壱岐守も七百余騎で切って出ると、
鬨の声をあげ、ここを押し破ろうとして進んだ。

寄せ手が引き色になってくると、原田備中守は大音声を上げて名乗りかけ、
益田少将と渡り合って散々に突き合ったが、前の深田に落ちてしまい、益田によって討ち取られた。
益田は首を掻き切って高く差し上げ、「原田備中守を討ち取ったぞ」と叫んだ(天正四年五月四日と)。
これを見て、塙喜三郎・同小七郎・氏家左近進・箕浦無右衛門も、同所で枕を並べて討ち死にした。

こうなっては寄せ手はたまらずに一気に退却したが、
そこここで大坂勢は寄せ手を数百人討ち取り、天王寺まで追い崩した。
武者の首もたくさん取れたという。
とるにならない武者は討ち捨てにして天王寺へ追い込み、
そこの堂を少し焼き払って引き上げていった。


以上、テキトー訳。

原田はいい男だなぁ……
前の章読んで「ダッセwww」とか思ってたけど、ごめんね。
まあダサいことはダサいんだけどさ。やるときはやるじゃないのさ。
信長のお叱りもきっと、原田の死力を引き出すための餌だったんだよね多分メイビー。
……いや、でもうーん……現場下ろされるってのは、だいぶキツいよねorz

最近本願寺の話ばかりなので、大日本古文書などをチラ見しながら、
毛利・吉川成分をチュウチュウと補充する生活です。
手紙も読んでると楽しいね! あんまりよく意味はわかんないんだけど。
広家の家臣宛の書状を主に眺めていたら、ちょっと元気出たw
「苦労をかけるね」とか「病気大丈夫?」とか、家臣宛だからこういうのが多い。
まるで自分に言われてるようで……(*´∇`*)ハァン

体調が思わしくない方、仕事に疲れてしまった方は、是非とも脳内で、
好きな武将が「其方打続辛労入察候、気分如何候哉」などという
自筆のお手紙をくれる妄想をしてみるといいんじゃないかな!
広家は右筆に任せた手紙でも、たまに花押を置くついでに直筆の音信を添えてくれたりするよ!
そういうのって……何かがみなぎる……

さて次も本願寺だぜ~_ノ乙(.ン、)_<キッカワ……
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