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2013-01-21

信長と本願寺の泥沼

だいたいの流れ:
信長は大坂の城を手に入れようとして、何度も本願寺に襲撃をかけたが、
地の利堅固で各地から馳せ集った精鋭たちや鉄砲の量などに押され、
戦利得られないばかりか、主力の兵まで討たれてしまう。
天正四年、ついに信長は総攻撃をかけたが、この合戦も大坂勢の勝利に終わった。


大坂所々の戦のこと

同(天正四年)六月十四日、本庄の出城で合戦があった。
同五年八月、天王寺と勝曼の塔の間で合戦があった。
敵味方が二千余り討たれたとのことだ。
天正五年・六年・七年の三年間、佐久間右衛門尉が本願寺に度々夜討ちをかけて忍びを入れたが、

あるときは開山の御影に汗を流し、または影供の鉢が二つに割れ、それにとにかく用心が厳しかった。
敵を数人討ったこともあって、また田甫の砦で何度も合戦があった。
端の坊を大将としたときは、小船をしっかりとこしらえて、
水上を自由に動き、敵の大船を打ち破り、比類のない勇を顕したそうだ。

中嶋では生嶋権五郎・北村新介・同新太夫が、武藤弥平兵衛と戦って勝利を得、
武藤を討ったことは大坂方には伝えられているけれども、
深手を負っただけだったのか、『信長記』には武藤は病死したと載っている。真実はわからない。

同六年、尼崎でも何度も合戦があった。
同七年三月十六日、大和田で合戦があったが、戦の途中で大地震が起こって馬が驚いてしまったので、
備えが乱れて寄せ手が逃げ崩れ、水に溺れて死んだ者が多かったそうだ。

また信長が貝塚に陣を据えたとき、紀伊の一揆勢ならびに根来寺の宗徒が二万程度で打って出たが、
紀伊の一揆勢が一戦すると、信長は七万余りの大軍だったので、
たちまち一戦に負けてクラカリ峠へと引き退いた。
このとき根来の宗徒は五千余りで山上に陣を据えていたが、
とても叶わないと思ったのか打って出ることはなく、ただ遠くから見ているだけだった。
これで紀伊の一揆勢は易々と討ち負けてしまったそうだ。

一揆勢は戦に負けたことを無念に思って、再び一戦して先日の恥を雪ごうと、
奥熊野の那賀郡の者をかき集めて、三万余りで打って出た。
信長は何を思ったのか、一戦もせずに早々に引き上げていったそうだ。

その後根来が寝返ったということで、雑賀の者たちが根来衆を討とうとしたところ、
根来衆が再三申し開きをしてきたので、赦免されたという。

雑賀口の一揆の合戦の配置は、総軍勢の監督は鈴木源左衛門、
先備えの大将は山内三郎太夫・高橋監物・西之口平内太夫・原平馬・天井浜主計、
他国の加勢の大将は鈴木孫市・的場源四郎・佐武源左衛門、
合戦で弱いところに加勢する浮武者の大将は高松三允・打越藤左衛門・津屋十郎左衛門・
高仏十郎次郎・土屋平次郎・和歌藤左衛門らであった。

那賀郡の配置はわからないので、尋ね聞いてから記そうと思う。
門跡が籠城している間の合戦の様子は、ここまで聞き及んでいる。
遠国なので詳しいことはわからない。再びよく知っている人に問うてみたい。


以上、テキトー訳。

久しぶりに出た、正矩の「遠国のことなのでよくわからない」w
こういう姿勢は、だいぶ好感が持てる。
わからないことをわからないと書ける勇気って、大事なんだね……
いや、たまにぶち当たる論文とかが、余計な補完やら推量で、
さも真実めかして書いてあったりするからさ。
しかしあれは確信犯だな。史料の曲解や恣意的な抜粋なんかをする先生方も多いよねw
こういうのに慣れて笑い飛ばせるようになりつつ、私も気をつけないと。

『陰徳太平記』を世に出した宣阿の代になると、
毛利家の物語もさらに深い意図をもって変造されていくようだけど、
いつか読み比べてみたいな。
もちろん、『安西軍策』や各種覚書、その他軍記なんかもね。
こういう方向に行くと、思想史まで絡んできて大変なことになりそうだけど、
まあ、いつかの夢ってことで。

さて次章、ようやく毛利家近辺の話に戻りそうな感じです♪ヾ(。・ω・。)ノ゙
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