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2013-01-25

押して押されて南前最前線

ちょっと会議に引き続き、突発トラブルがあったので日が空いてしまいまったが
私は生きてます(虫の息)。
岩国と北広島行くまで死ぬもんか(^ω^三^ω^)

さて陰徳記、だいたいの流れ:
織田が本願寺を大坂から追い落とし、毛利との緊張が高まるなか、
境目近辺では小競り合いが頻発していたようで、伯耆では南条元続兄弟が依然抵抗を続けていた。
同じころ、南方の境目でも動きがあったようで……


備中小倉合戦のこと

さて輝元様・隆景様は、備中小倉の城を攻めようと発向したが、
その城に付城を構えようとして、竹の庄に陣を移した。
福山に籠もっていた敵は、たまりかねて退散してしまった。
なので福山の城を接収して人数を入れ置こうと、有漢というところから福山へと陣を移した。
これを聞くと、一揆勢は皆自分の家を放り出して、小倉の麓へと集まっていった。

輝元様の馬廻の衆である、児玉小次郎元兼・粟屋与十郎元信・神田惣四郎元忠の三人を大将として、
同(天正八年四月十三日(十四日)の夜ごろに、在郷の一揆勢を薙ぎ捨てようと探し回ったが、
近隣には敵は一人もいなかった。
三人は、敵に会うまでは帰れないと考えて、若さゆえの血気盛んさで三里ほど走っていき、
夜が白々と明けるころに、小倉の尾首へとたどり着いた。

城中でもかねてから覚悟していたことなので、
弓・鉄砲三百余挺を抱えた者たちが峰や谷へと走り渡り、敵を射立てる。
寄せ手の足並みは乱れ、すぐに引き色になった。
粟屋与十郎は駆け回って、味方を勇め、乱れた備えを立て直そうとしたけれども、
なかなか簡単にはいかない。
けれど粟屋はなかなかのつわものなので少しもひるまずに、味方を勇めるために駆け回った。
そこに、敵が雨のように弓・鉄砲を射掛けてきた。
粟屋は体を射貫かれて馬から真っ逆さまに落ち、死んでしまった。

こうして一備えの大将が討ち死にして、そのうえ地理にも詳しくない。
夜中からどれだけ走ったのか、血潮の滾るままに遅れるものかと走ってきたので、
皆の体も疲れきっていて、しかたなく退却を始めた。

これを見て敵は、「兵法では、敵の疲れに付け込むのが一番いいのだ」とばかりに、
追いかけてきて散々に射立ててきた。怪我人や死人も多くなり、逃げ切れそうにない味方もいた。
児玉与七郎・奈古屋与七郎・井上源右衛門元勝・小寺右衛門・宇多田藤右衛門などは
ところどころで取って返し、敵と渡り合って討ち死にした。
神田惣四郎も四ヶ所に傷を負い、もう絶体絶命かと思われたが、
粟屋孫次郎が神田を自分の馬に乗せ、自分はしんがりを務めて退却した。
輝元様は孫次郎を大いに感賞した。

児玉小次郎元兼は、何度も取って返して敵を追い払い、味方を助けた。傷を数ヶ所負った。
しかし父にも劣らぬ大の剛の者だったので、少しもひるまずに小高い場所に上り、
「児玉小次郎なり」と名乗って控えていた。
これを見て、退却しようとしている味方の勢が同じ場所に数百騎馳せ集ってきたので、
敵はこの威勢に辟易して、かかってくることができない。
熊谷玄蕃はずっと児玉と一緒にいて、活躍した。

井上七郎兵衛尉も、何度も取って返しては大弓に大きな矢を番え、数人を射伏せた。
岡宗左衛門も高い場所に馬を乗り上げて下知をし、味方を助けながら引いていく。
なおも敵が後を追ってくるので、三沢摂津守の手の者で野尻蔵人という者が取って返し、
しばらく敵と戦っているその隙に、味方は遠くまで逃げ延びることができた。
河原六郎右衛門も取って返し、追いかけてくる敵を一人馬上から突いて落とすと、
その首を取って差し上げた。勇壮な振る舞いである。

山県三郎兵衛尉は粟屋与十郎と非常に仲のいい友だったが、
敵に押し隔てられて岡山まで退却すると、そばにいた者たちが
「なあ三郎兵衛尉よ、粟屋が討たれたのを知っているか」と声をかける。
山県は「なんと、与十郎が討ち死にしたのか。
日ごろから、死ぬときは一緒だと約束していたのに」と言って取って返し、
小倉の麓へ攻め寄せてたった一人で坂の途中まで上って行った。

「山県三郎兵衛尉という大の剛の者である。
とある理由があって、討ち死にしようと思ってここまで来たのだ」と名乗ると、
「なんと強い者だろう。自分が討ち取って高名してやろう」と、
二、三十人ほどが競って打って出てくる。
山県は討ち死にすると思い定めていたので、無二に駆け入って散々に戦い、
ついにそこで討たれてしまった。

敵も福山から引き上げていった。
この日討たれた者は、雑兵を含めて百三十余人だという(加茂崩れ)。
輝元様は味方が深入りしたことを聞いて、危ないと考えたので、本陣を五十余町ほど寄せた。
敵はこれを聞いて、深追いすることができなかった。

さて、福山は敵の方にせり出している山で、
しかもこちら側からは渡りづらい川を隔てていたので、地の利が悪いということで、
川より西の勝山に城を築いた。
五月三日、桂源右衛門・赤川次郎左衛門・岡宗左衛門、
並びに三村の郎党の竹井宗左衛門を添えて差し籠めると、
輝元・隆景は松山へと引き上げていった。

堀田の加茂(小倉)の城には、伊賀左衛門尉(久隆)が立て籠もっていたが、
直家は何を考えたのか、伊賀の家人の川原四郎右衛門という者を引き込むと、
「おまえが主君の左衛門尉を討てば、多くの所領を与えてやるぞ」とそそのかした。
川原は了承し、馬の血出をするのを口実にして、主人の左衛門尉を招き入れ、
毒を盛ったので、左衛門尉は翌日死んでしまった。

その子の伊賀与三郎は明石飛騨守の婿だったが、
その城にいた親類の誰かがこのことを知らせたのか、
伊賀の城を出て安芸の国へとやってきた。
「なかなかに大忠の者である」と、すぐに隆景様が所領を宛行ったそうである。


以上、テキトー訳。

おおおおお、負け戦、久しぶりだけどけっこうキツイな。
読んでて涙目になってくるわ。
慎重な景さまも一緒にいたのに、どうしてこういう軽挙があるのか不思議だけど、
輝元の馬廻衆が大将なら、まだ若いだろうし、
いつも輝元のそばにいるんだから、前線で戦う経験も積んできてないよね。
是非もなす。

さてさて、粟屋与十郎と山県三郎兵衛尉の美しい友情物語が出てきたね。
「死ぬならともに!」っていう友人同士って、ついつい裏読みをしたくなるよな……
おまえらデキとるんとちゃうんかい。
ええ、私の頭がくさってるからこんなことを思うわけですけれども、
この時代は男色なんて掃いて捨てるほどあるだろうし、穿ちすぎなわけでもないと思うのよ。

さあ、次の章は……とページをめくったところで愕然としました。
陰徳記の下巻、読み終わった……!!!
いや、訳が面倒な仏教話をすっ飛ばしたりしてるんで、厳密には終わってないけど。
ひいいぃぃぃ、上巻は読んでない章ばかりなので、次からはそちらを読むことになりそう。
どこから手を付けるのかは決めてません!!!←威張ることじゃない
あと、そろそろ目次もちゃんと整理したいと思います。
ちょっとずつやっておけばよかったなぁ……

ちなみに、今回の章の次の章はこちら
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