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2013-02-27

押しつ押されつ神辺合戦

うええ、予想的中で残業が引き続いてますよ。コンバンワ。

さてさて陰徳記、天文十七年ころの毛利家周辺の情勢という感じかな。
前回読んだのは、大内の陶隆房を大将に、毛利家の面々が尼子方の杉原忠興の神辺城を攻めたとこらへん。
元春が大活躍して杉原播磨守盛重と接戦するも決定力に欠け、
杉原に遺恨があるからぜひ任せてほしいという平賀隆宗に任せて、陶・毛利などは兵を収めた。

この間毛利家は元就・元春・隆景などが山口に下向して大内義隆に拝謁し、
隆元の嫁さんが決まり、元春と陶隆房が義兄弟の契約を交わした……というのは、
ずいぶん前に拾い読みしたお話。
今回はその続きから。


平賀・杉原合戦のこと

平賀隆宗・杉原忠興は、互いにいずれも劣らぬ大の剛の者だったので、
毎日打って出ては足軽競り合いをしていた。
同年十一月十九日、杉原播磨守盛重。同左衛門太夫が七百騎を率いて平賀の向城へと攻め寄せた。

盛重は、「足軽をそろえてこの城に籠もっているということは、
杉原の城を攻め落とすつもりだからだと聞いております。
それなのに、このように戦を決することもなく、
いたずらに日数を送っていらっしゃるのをよくよく考えてみると、
単にこの城が盗賊などに侵入されないように、用心のために籠もっていらっしゃるのですかな。

となれば、我が主忠興にとって、隆宗はとてもいい協力者です。
今後は盗賊を恐れることもなく、雨風の厳しい嵐の夜にも、
安心してくつろいで眠ることができます。
これも皆隆宗のご恩だと思います。
たった一人で我が城を攻め取ろうと仰ったというのは、
世の人々の口さがなさゆえの間違いでありましょう」と挑発した。

隆宗はこらえ性のない男で、
「播磨守め、憎いことを言うものだ。今から目にもの見せてやろうではないか」と、
五百騎ほどを率いて打って出た。
隆宗は弟の隆祐に向かい、
「あの敵を引き寄せて一人残らず討ち取ってやろう。
おまえは麓へと下って足軽をけしかけ、矢戦をして弱々しく引いてこい。
十分に引き付けたら、無二にかかって討ち取ってやる」と言って、
隆祐へと三百余騎を添えて山を下らせた。
自身は二百余騎で、旗を巻いて城の戸を出ると、道の途中に控えて待ちかけた。

さて隆祐は麓に駆け出て行くと、杉原の軍勢に立ち向かって矢戦を始めた。
一矢射ては引き退き、引き退いては一矢射て、四、五町ほども引いていくと
敵は勝ちに乗って山の半腹まで攻め上ってきた。
隆祐は「そろそろいい時分だ」と思って、自分がまず一番に取って返す。
これを見て、合図のために山頂に置いておいた者たちが太鼓を打ったので、
「やっと合戦のときが来たぞ」と、隆宗と二百余騎は右手の方の深い谷から真っ直ぐに駆け出し、
敵の横合いに切ってかかる。

杉原左衛門太夫・同播磨守は名うての勇士だったが、
敵の奇兵に不意を撃たれてはかないようがない。
たちまち押し立てられて、一度にどっと潰れてしまった。
隆宗は追いかけながら敵を五十余人ほど討ち取った。
「先ほどの言葉に似合わず、よくも逃げていくものだな。
さあ引き返してこい、左衛門太夫。戻ってこい、播磨守」と呼ばわったけれども、
杉原は取って返してもかないようがなかったので、城中目指して引いていく。

翌日、また敵味方で足軽競り合いをしていると、杉原播磨守はこれを遠くから眺め、
昨日の恥を雪ごうと、鑓一本に弓一張、太刀を持った徒歩の者を一人ずつ組み合わせ、
数百騎の足軽をそろえて、隆宗の本陣に無二に切ってかかった。
隆宗が少々油断していたうえ、兵数も少ない。どうにもかないそうになかったが、
隆宗はまさに最強の剛の者だったので少しもひるまず、
馬を一面に並べ立てて、しばらくの間は防ぎ戦った。

しかし敵は昨日の負け戦の鬱憤を晴らそうと、
敵陣を破れなければ戦死しようと一筋に思い切って戦っている。
それに杉原左衛門太夫は昨日の合戦で傷を負って臥せっていたが、
播磨守が出たと聞くと、具足さえつけずに馬に飛び乗り、五十騎ほどで後に続いてきた。
これでは隆宗には勝ち目はない。
隆宗は敵陣をキッと睨み、「どうやら担がれたな。一人として生きて城へ帰すな」と兵を鼓舞し、
ドッとかかっていく。さしもの杉原勢も四、五反ほど引き退いた。
隆宗は、「かかるも引くも時によるものだ。さあ今こそ引け」と下知をして、真っ先に退却した。
兵たちも我先にと引き退いた。

これを見て、盛重らは逃がすまいと追いかける。
隆宗は一番に取って返して追いすがる敵を払いのけてはさっと引き、引いてはまた取って返す。
そうしているうちに馬を射られ、危機一髪というところに、
向城から弟の隆祐が、「このままでは味方が皆討たれてしまう」と言うや否や、
四、五百騎で打って出てきた。

これを見て盛重は、「昨日のお返しは思う存分してやったぞ」と喜んで、
首を四、五十ほど討ち取ると、整然と兵を収めた。
隆宗は十死に一生を得て城に帰り、
「杉原には一度も背中を見せたことなどなかったのに、
あの播磨に不意を突かれて退却するとは、口惜しいものだ」と、歯噛みをして立っていた。

翌日二十一日、また足軽競り合いをしていると、隆宗はいつものように鉄仕立ての鎧を着て、
屈強な兵を三十人ほど選りすぐって敵の足軽を軽々と押し立て、
逃げ散る敵には目もくれずに、そのまま城中へと駆け込ませた。
そこで古い小屋に火をかけさせると、すぐに駆け出てくる。
城中の兵たちはこれを見ると、
「今の武者は隆宗だぞ。まったく油断していて打ち漏らしてしまった」と、
太刀や長刀を持って追いかけてくる。

平賀城へと入るときに、三の丸の堀の橋の下へと、誰かはわからないが一人隠れている者があった。
その者は、恐怖のあまりに隆宗とともに城に入らなかった。
なんという臆病者だろうと皆が思っていたが、実はそうではなく、
また敵が追いかけてきたときに、その橋の下から太刀で数人の敵の足を薙ぎ払ったので、
隆宗は無事に退却することができた。
後から「あれは誰だ」と尋ねてみると、坂新五左衛門だった。
そのころはとある事情があって吉田(毛利家)から離れ、浪人して平賀に身を寄せていたが、
こんな働きをしたということだ。


以上、テキトー訳。

杉原も平賀もかっこよろしいな(*´∇`*)
毛利方の平賀はもちろんのこと、杉原も毛利傘下に入ってから大活躍するんだけどね。
そんでまあ、つらつら調べているうちに面白い情報に行き当たったんだけど、
香川春継(『陰徳記』著者、香川正矩の祖父)の妻(継室)がね、
杉原盛重の娘だという系図があったんデスヨネ……本当かしら。
しかしこの盛重ageっぷりを見るにつけ、杉原の血が正矩にも受け継がれていると見てもいいのでは。
なんてことを思って読んでおりました。
あ、そういえば神辺城合戦は隆景の初陣という線が濃厚なんだっけ……?

香川家の詳しい系図はまだ行き当たったことがないので、岩国に行って某館に籠もりたいお!
しかしそこにある史料が毛筆でかつ崩し字だった場合、敗戦決定だお……!←読めない。
家臣筋の系図の翻刻刊行、手ぐすね引いてお待ちしておりますぜ徴○館さん!
森脇・小坂・宇都宮・宮庄なんかもよろしく頼みますホントに。
PDFデータベース公開とか……無理ですよねそうですよね。

さてさてお次は、山口滞在を終えた元就一行のお話だよ!
でも明日は、もし早く帰れたとしても、私は呑む! 呑むぞおおおお!!!
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