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2013-03-01

義隆様「俺は年増でも構わず食っちまう男なんだぜ」

なんとなくの流れ……とやろうと思ったけどや~めた!
大体天文十八年くらいの山口の様子のお話ですよ~。
よったか様よったか様!


紹鴎の数寄、並びに観世宗摂の関寺小町の能のこと

そのころ天下第一の数寄の名人と名高い武野紹鴎一閑居士という禅僧が、
堺から山口へと下向してきていた。
義隆卿の傾倒ぶりはたいそうなもので、朝から晩まで数寄にばかり没頭した。
上を見て学ぶのが下の者たちというもので、大身から小身まで、
侍たちも皆数寄のことばかりを考えて、茶の器一つを買うといっては数千貫もの銭を費やし、
二畳台目、三畳台目の数奇屋を構えるといっては、いくばくかの金銀を投じた。
そうしているうちに、皆自然と貧しくなっていった。

こうして茶の器には何万もの銭を惜しむことはないのに、
兵具や馬具は破れようが折れようが修理もしない。
数寄には米や銀をなげうったものの、境目の城の塀が破れ堀が埋もれてしまっても、
補修をすることはなかった。

また観世宗摂もそのころ山口へ下っていたので
、義隆卿は、茶の湯と交互に乱舞の遊びを開催していた。
そのうち、紹鴎は堺に帰っていった。
宗摂も暇乞いをしにやってきたが、義隆卿は
「今回の滞在の間に関寺小町の能を見られなかったのは残念だ」と、強く所望した。

しかし宗説は「関寺小町は、私ごときではなかなかよく演じられません」と固く辞退する。
義隆はそれは残念そうに、鷹狩りのついでに宗摂を氷上まで送っていった。
宗摂は「お屋形様の義隆卿が、私のような猿楽師をこれほどまでに大事にしてくださるのは、
世にもまれなことだ。こんなご厚恩に報いることができるだろうか。
せめてお望みになっていた関寺小町の能をご覧に入れなければ」と、非常に喜んだ。

そして氷上の大坊で観世彦次郎・福王甚右衛門などを脇として、
高砂・真盛・関寺小町・椛狩・弓八幡などを疲労した。
宗摂らは実に天下に二人といない名人なので、なかなかに趣深かったそうだ。
あまりに感動した見物の者たちは上も下も袖を濡らし、
あるいは声を上げて「すばらしい、すばらしい」と叫ぶ声が鳴りもやまなかった。

義隆も感動しすぎたのか、ただ陶然と浸っていたが、五番の能が終わると、そのまま大坊で酒宴を開いた。
一座の観世三郎は、先年山口に下ってきたときはまだ十六歳ほどの花の盛りだったので、
花をかざす舞の扇は袂でさえもかぐわしく、
雲まで届くかという謡の声は月の都の舞楽かとさえ聞き違えられ、
近くにいる者はその姿の美しさに目を奪われ、遠くにいる者は麗しい声に心を惑わした。

義隆卿もそのときはとにかく三郎を気に入って寵愛も甚だしかったが、
現在は三郎も二十歳ほどになってしまったので、義隆卿の寵もすっかり薄れてしまっていた。
三郎も自分の身がすっかり盛りを過ぎて逞しくなってしまったことを顧みて、
この夜の酒宴にはただ階の近くまでいざり出ると、
中秋の名月を歌に詠みながら、背を向けがちにしていた。

義隆卿は、「これ三郎よ、そんなに月ばかり眺めるものではない。
過ぎれば人を老いさせるという。何か忌むべき理由があるのだろう。
しばらくは中に入って、今夜が最後の名残なのだから、酒の一つも飲んで酌をせよ」と命じた。
三郎は「かしこまりました」と言いながら、
まだ月ばかり眺めては、少しも打ち解けた様子がない。

義隆卿がまた、「三郎や、一節謡え」と声をかけたので、三郎は「承りました」と言って、
それは麗しい声を上げた。
「盛り更たる女郎花の草衣しおれたて、昔だに捨てられし程の身を知らで、
また姥捨ての山に出て面を更科の月に見ゆるも恥ずかしや、よしや何ごとも夢の世に、
なかなか言わん思わじな、思う草花にめて月に染まりて遊ばん」と謡った。

三郎の、義隆の寵愛が薄れた恨みはこの一曲にすっかり表現されていたので、
義隆は再び恋慕の思いを燃え上がらせ、「もう少しここにとどまってくれ」と袂にすがり引き止めた。
宗摂父子は秋が更け冬も暮れてまた春が来たころに、霞とともに山口を去っていった。
尼子・山名・赤松といった人々のところへも立ち寄ったので、
秋の半ばを過ぎるころにみ、月の都に入っていった。


以上、テキトー訳。


据え膳平らげるどころかおかわりしやがったよ、このお屋形様……ギリィ(某T房さんの歯軋りの音)
よったか様といえばその道で有名だけどホント期待を裏切らないな。
少年としては盛りを過ぎた三郎と、義隆の駆け引き(というか一方的に三郎の手練)、
堪能させていただきやした!
現代で例えれば、客の執心が薄れたホステスがカラオケで恨み節歌ったのがきっかけで
焼けぼっくいに火がついたような感じだろうか。矮小化しすぎか。
ていうか観世三郎って、元就が後年安芸に召し寄せた人じゃなかったっけ(うろ覚え)。

ちなみに、「関寺小町」というのは、晩年の小野小町を題材にした謡曲らしいね。
いつか聞いてみたいもんだ。
それに当時の猿楽師でも、演目の得意・不得意はあったんだね。
焦らしに焦らして義隆の関心を買った観世一座の抜け目なさといったら(褒めてる)!

さてさてお次もよったか様無双な感じですよ?
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