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2013-03-03

文武は車の両輪、鳥の両翼

えー……目次作りを再開して全部消えやがったのでテンションだだ下がりです。
自分の不注意が憎い_ノ乙(.ン、)_

気を取り直して陰徳記、これまで大内義隆の文学への傾倒を追ってきたけど、
そんな義隆に諫言する家臣がいたようです。
冷泉隆豊さん。下巻で化け物と同衾しちゃった元満のおとっつぁんだね。

長いので2回に分けまする。


冷泉判官隆豊、諫言のこと(上)

都督義隆卿は、このように諸道の奥義を究めようと、
小技能の道ばかりに心血を注ぎ、武の学問は廃れ果ててしまった。
軍政や号令の通達などはまったくなく、口にも出さないほどだった。

いつも唐人の真似ばかりして、大明から装束を多数買い求め、自分でも着てみたり、
近習の者たちにも着せて、言葉も唐人の言葉を使うようになった。
あるときは公家衆を招いての歌会や蹴鞠の遊びに終日を費やし、
またあるときは貴僧高僧を呼び寄せて論議・説禅・詩文の製作をして、
堺の古禅門や京の遁世者などを集めて、茶の厚薄や茶器の善し悪しばかりを評価しあった。
弓馬の備え、兵学の道は廃れ果て、
公家の成れの果てもしくは出家者のようになってしまったのは残念である。
「堯の子は堯に似ず」ということわざも、こうしたことを言うのだろう。

冷泉判官隆豊は義隆卿の行跡を見て、
「いよいよ大内家没落のときがやってきたぞ」と思ったので、
あるとき義隆に諫言した。

「今の屋形様の御行跡を見ておりますと、まったく夢とも思えず、幻とも考えることができません。
先代の義興公は、天下の武門の棟梁となってもおかしくない器であらせられました。
将軍義稙卿は京都を落ち延びてからこの山口に下向し、義興をお頼りになって、
ついに天下の権勢を司るまでになられました。
義隆卿のお暮らしを見ると、先代とは打って変わって、今は武家としての道がことごとく廃れ果てて、
坊主か茶坊主の成れの果てのようになってしまわれたのは、実に口惜しく思います。
義興の武威がいまだに残っているからこそ備芸石の三ヶ国が御手に属してはおりますが、
この行いがずっと続くのであれば、この三ヶ国はそう遠くない未来に尼子に切り取られてしまうでしょう。

優秀な親を持った子というものは、
たとえその子が人並みであったとしても親と比べられてしまうものです。
はるかに生まれ劣っていたなら、
もともと持っていた資質よりもなお不器用ということにになってしまいます。
親が世にも不器用者であれば、子が人並みであっても、親より優れた者だと言われ、
もともとの資質よりはるかに大きな評価を得られるものです。
こんなことを申すのは恐れ多いのですが、屋形様を先代の義興公と比較してみると、
花のそばの深山木とでも申しましょうか。

そうは言っても、義隆卿が飛びぬけて愚将だと言うのではありません。
楠次郎左衛門尉正儀は、当時は並び立つような大将もいなかったでしょう。
それなのにそのころ、足利の一族である仁木・細川・畠山、そのほか諸将は、
正儀の智も勇もまったく十分ではないと言っていたそうではありませんか。
日本六十余州を敵として、やがて京に近い河内に在城していながら、
尊氏・義詮の二代についに国を狭められなかったというだけでも、
古今無双の名将のはずなのです。

この正儀でさえ、父の正成が開闢以来三本の指に入る名将だったゆえに、
正儀は父にも似ず兄にも似ずと軽視する者が多かったのです。
太平記にも、正儀は嘲弄されているのです。
正儀を見てご自分の身を省みてください。
正儀のような良将でさえこの有様なのですから、普通の将ではどうなってしまうでしょうか。

尼子晴久は祖父の経久とさほど遜色のない大将だと聞いております。
そのせいか、備芸石の国人たちも、尼子の手に属す者が多い。
先年、富田へご発向なされて敗軍されたことを無念至極とは思われないのですか。
当家では二代、尼子は三代の間敵対しておりますが、
当家は今までは先代の武威が残っていたから、互角の勝負ができたのです。
今後は次第に国や郡を切り取られ、先祖代々の武功によって与えられた領国さえも、
易々と敵に取られてしまいますぞ。それではあまりに口惜しい。

今のご様子では、源頼朝・木曽義仲が東国や北国で挙兵して京都に攻め上っているとも知らずに、
いたずらに月の管弦、花の歌会などにばかり心を移し、
怨敵追討のことなど話題にさえしなかった平家と同じことになってしまいます。
転覆した車と同じ道を行く者は同じように傾き、亡国と同じことをする者は滅ぶと言うではありませんか。
孔孟の道は国家を治め、万民を撫育するための枢要です。
また猛々しい武士の心をやわらげ、目に見えぬ鬼神をも従わせるのが和歌の徳です。
そうは言っても、だいたい一通りその道を知ってさえいれば、
その深淵の奥義を究めなくても十分ではありませんか。

文武の二つは車の両輪、鳥の両翼と同じと言いますが、
今の日本はまったく乱れきっていて、六十余州は六十六人の国に分かれ、
皆他を滅ぼして自分の身を立てようと、戦国の七雄、魏呉蜀の戦争のような状態になっています。
諸葛孔明のような智士勇者を探し出して兵道の奥義を尋ね、天下草創の功を心にかけるべきなのに、
そうはせずに、数寄の名人や蹴鞠の達人と聞けば
どんな遠方からでも探し出して召し寄せていらっしゃいますね。
あるいは茶の湯の記・蹴鞠の書であるといえば、
数千万貫の銭をはたいてでも買い求めてしまわれます。

唐の賢王は、夢で見た姿を絵に描かせて伝説の賢人を捜し求めました。
あるいは草盧の三顧といって、蜀の劉備は三度も諸葛孔明の草庵に行って諸葛孔明を獲得しました。
数寄・蹴鞠の名人を探し出すよりも、謀臣・勇士を召し出してください。
茶の記・蹴鞠の書をお求めになるより、黄石公が子房に授けたという一巻の書をこそ探すべきなのに、
このようなお振る舞いばかりではあまりにみっともない。
武道の学、軍法の正しい道を定め、そしてますます研鑽を積んで、
それから余裕があれば和漢両朝の聖賢の書を学ばれるのがよいのです。

そうは申しましても、孔孟の道を学ばれることが悪いと言うのではありません。
先に申し上げたように、両輪・両翼のようなものですから、文学に暗くてはどうしようもありません。
文に疎ければ仁義令智信の五つの道を理解できません。
この五つを知らなければ、鳥や畜類と変わりありません。
人は古今に通ぜざるを牛馬にして相手にせずと申しますから、
とにかく五帝三皇の道を学ばないのはよろしくありません。
高祖も『馬上で戦争を生業とする者が詩や書を気にかけることはない』と言いましたが、
『大風の歌』もあります。文は貫道の器なのですから、
学得しなければ聖賢の道に通徹することはできません。
聖賢の道を知らなければ明将とは言えません』


以上、テキトー訳。続く。

ちょ、よったかさまってば、コスプレまでしてたのコスプレ!
いや、やりそうだな~とは思うけど、期待を裏切らないな。
中国大陸風の装束を着て、近習にも着せて、言葉も向こうの言葉を使って……
あれ、明治のころにもこういう外国かぶれがけっこういそうwww

まあここまでくると、家臣たちも堪忍袋の緒がピクピクいってくるもので、
そこでまず一番に切り込んだのが冷泉さんということか。
冷泉家は後に毛利に従って子孫を続かせてるから、こんな話が伝わったのかもしれないね。

陰徳記ではありがちだけど、まあ隆豊さん、説教なげえよ_ノ乙(.ン、)_
この続きと、こんこんと諭されたよったかさまの反応は、待て次回!
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