--------

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2013-03-05

隆豊「お屋形様のばかー!」 義隆「ご、ごめんね?(´・ω・`;)」

昨日、昼ごろまで、夜に会議があるってのをまるっと忘れててさ……
今日は朝起きて「あー、月曜日か。ユウウツ~」とか思ってたよ。火曜日じゃん!
トシって怖いね。

てなわけで陰徳記、これまでのあらすじ:
大内義隆は多才で博識で、精力的に文化活動に邁進していた。
あるときは高僧を招いて自らも修行に精を出し、
また歌道・蹴鞠・数寄の名人を呼び寄せては文化人との交流にいそしむ。
唐渡りの装束を山のように取り寄せて近習たちとコスプレしてみたり、
大陸の言葉で話すようになったり……するうちに、武備は廃れ、
大内家重臣はそろそろ堪忍袋の緒がプルプルしてきた。
冷泉隆豊は、義隆に対して諫言を始めた。

その長い長い隆豊のお説教の続きから。


冷泉判官隆豊、諫言のこと(下)

『木曽義仲は無双の勇将ではありましたが、儒学をまったく習得していなかったので、
帝一人を敬うことも知らず、下々の万民を撫育する道さえわきまえておりませんでした。
やがては君にも邪魔にされ、民にも背かれて、
国を出るときは五万余騎いた兵たちもついには散り散りになり、
最後の合戦のときにはわずか三千余騎だったそうです。

往古からの名将に、文武の二つのうち一つも欠けている者はいません。
けれども、乱れた世は武をもって治め、
静かな世は文をもって治めるものだと言い伝えられてきていますので、
このような乱世だからといって、武ばかりに傾注して文を捨ててはいけません。
国家太平となったときには、和歌・連歌・数寄・蹴鞠、
そのほかどのような道も知っていなくてはみっともないでしょう。

文といっても文字の学問ばかりのことではありません。
たとえ一文字も知らなくとも、政道に邪がなければ、それは周公・孔子の道といえます。
文字の些細な問題を気にしてはいけません。

私が陶入道道麒に武の学の奥義はどのようなものかと尋ねたことがあります。
道麒は、『大明に私情による贔屓がないように、
家之子郎党下々にいたるまで憐憫をそそぎ、恩を施すことだ。
家人はまるで慈母を思う赤子のように主人を思い、上下が親子のようになるのが一番だ。
なかでも智謀が人より勝り、勇猛さが世に抜きん出ている者を大切にして、
おべっか使いや奸人をすみやかに遠ざけるほかに奥義というものはない。
これは英雄の心をとらえるのにも適している』と申されました。
確かにもっともだと思います。

何事も、中の一文字に外れるべきではありません。
武も文もそのほかの技芸技能も、中庸を外れないようにする心得こそが大事なのです。
舜は禹にこの言葉を授けました。
『人心これ危うし、道心これ微なり、これ精これ一、まことにその中をとれ』と。
中庸の徳は、義隆卿は俊才博学でいらっしゃるので、
私が申し上げたところで智者の前の説法ですので、この三寸の舌先を弄するに及びません。

この隆豊の愚盲な身にふさわしい話をしましょう。
まず、武も中庸が大事であります。
源義経は、勇は頼義・義家・利仁などにも勝るほどの大将ではありましたが、
勇に誇って梶原の悪口をいい、そのほかの諸侍のことも侮っていました。
あまりに勇の優れた将だったので、平家が滅びて後は、
頼朝は自分の天下を奪う者は義経だと思っていたうえ、梶原が強く讒言したので、
ついに義経は奥州衣川で討たれてしまったのです。
もし勇の中庸さえ忘れなければ、頼朝の疑心を招かなかったでしょうに、
自分の勇を誇った結果がこれです。
『剛強、剛烈なだけでは、その国は必ず滅びる』といいますが、そういうことです。

また新田義貞は、勇も謀も尊氏より何倍も優れた名将でしたが、
運の極みだったのか、諸国の官軍が一挙して天下を覆そうとしたとき、
黒丸の城を放っておいて京都に攻め上っていれば、再び天下草創の功を立てられたでしょう。
それなのに、小事を気にかけてその城を攻め、
そのうえ鹿草の三百余騎にたった十七騎だけで戦ってついに死んでしまいました。
敵が大勢なので少し引き退いて味方の勢をの到着を待って戦っていれば勝ちは疑いもなく、
敵を滅ぼせたでしょうに、自分の勇を過信して敵を侮ったためです。
これも、勇に中庸の心得があれば無駄に戦死はしなかったでしょう。
中庸を忘れて勇ばかりを心がけたせいです。

戦いに大勝しようとして危ない行動を省みなければ、
運が天にかなって一度や二度は勝つこともあるかもしれませんが、
最終的には大いに利を失って、必ず身を滅ぼすことになります。
これも中庸、勝つには、自分の命を永らえて最終的に敵を滅ぼせばよろしい。
逃げる敵を追うのは百歩までというのも、追う戦いにも中庸があるということです。
武道でさえこの通りなのですから、遊びや小技芸は、
ほどほどにしておくに越したことはないと思います。

今の義隆卿のご行跡は、言ってみれば、公家が太刀の使い方を学び、
あるいは早業や力技ばかりで歌の詠み方を知らないようなもの、
出家した僧が仏法修行をそっちのけにして乱舞を極め、弓道に身を投じるのと同じですぞ。
このままでは、公家の道も立ち行かないし、出家の法も正しくはならないでしょう。

先年、浄福寺の真発意意伝学文のために京都へと差し上しておかれましたが、
内外学一字も学ばず、ただ小歌・尺八・蜘舞などを見て聞き覚え、
赤手拭で鉢巻をして、長い脇差の横へ大きな印籠の緒を長く結い下げ、
四条五条の河原の相模田楽・猿楽などに心を染めているといって故郷に連れ戻されました。
以後の見せしめのために重罪に処されたではありませんか。
この真発意とお屋形様のご行跡はまったく同じですぞ。
賢い人を見たら同じようになりたいと考え、愚かな者を見たら自分の身を省みるもの、
ということはすでによくよく学んでいらっしゃるではありませんか。

このようなとんでもないご行跡のままでは、あなたの行く末を見るのが悲しくて仕方ありません。
どうか私を、比干・伍子胥の例にならって刑にかけてくださいませ。
主君の横暴を諌めないのでは忠臣ではありません。
死を恐れて言うべきことを言わないのは勇士ではありません。
間違いを目にしたならば自分の死を顧みずにお諌めするのが忠の至りというものですので、
たとえこの身が車に引き裂かれたとしても、それこそ望むところです」と、
隆豊は涙を流しながら諌めた。

義隆卿はさすがによく物がわかっている人だったので、
「おまえの諫言は実にもっともだ。おまえの他に誰が私を諌めてくれるだろう。
これは父の左京兆の仰せだと思った。
今後は隆豊の言うように、武の学に専念して、賢人・哲人の臣を集め、
軍政号令の準備を余念なくして、他のことには目もくれないようにする。
もっとも道理なおまえの言葉は、私が死ぬまで忘れまい」と言った。

隆豊は涙を押さえ、「私は才もなく愚かな身で大そうなことを申し上げましたが、
それなのにこのようなご上意、まことにありがたきことでございます。
それに私の諫言を忘れまいとの仰せ、実にかたじけないことです。
しかしご自分のお立場すら忘れてしまうようなご様子ですから、
またお忘れになることもありましょう」と言った。
義隆は、「桀や紂が自分自身を忘れたという話を思い出してそんなことを言うのだろう。
ということは、私を桀や紂にたとえているのだな」と、恥ずかしくもまた口惜しくも思ったが、
ただ頷いて、「その諫言を守るようにしよう」と言って、御簾の中に入っていった。


以上、テキトー訳。おしまい!

隆豊! 最後一言多い! それ言っちゃダメな言葉!
「殊勝な振りしてどうせまた忘れるんでしょ」ってあんた……orz
せっかく心を入れ替えようと本心から思ったとしても、
こんな最後っ屁かまされちゃ、逆にひねくれちゃうよ。
義隆「わし、信用されてないね。フフッ……三・゚・(ノД`;)ダッ」

やー、でも堪えきれずに涙流して説教しまくる隆豊さん、ええなぁ。
叱ってる方がぼろぼろ泣いてるってのは燃えるよね。
きつい言葉を吐きながら、主君を傷つけてる自分の行いに、
隆豊自身も傷ついていたのだ、とかだったらもう禿げる。
大内家は萌えの宝庫やー(*´∇`*)

さてさてお次は吉川興経と元就が不穏な雲行きになりそうで。
ひいぃ。
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

検索フォーム
カレンダー
09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
Twitter
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。