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2013-03-20

尼子の小星落つ

如水命日にちなんで如水ネタ眺めてみたんだけど、
いかんせん私の文才では特に面白いことが書けないので、今日も陰徳記。
とりあえず如水さんは広家を大事にしてくれてありがとう! 本当にありがとう!!!

だいたいの流れ:
天文19年から20年ごろのお話。
大内家では義隆が文化に耽溺しちゃったり、義隆の寵を受けた相良と
重臣の陶・杉・内藤らの仲が険悪になったりといろいろあるけど、
備後の大内・尼子戦線では、平賀隆宗が神辺城の杉原忠興を追い落として、
一応大内家の支配領域を広げたよ、といったところ。


久村玄蕃允、誅されること

安芸の国久村の住人、久村玄蕃繁安は、先年大内義隆卿が出雲に出征したときに、
吉川治部少輔興経とともに反逆を企て、尼子へ一味したので、
安芸へと帰ってくることができずにしばらく富田にとどまっていた。
義隆卿が興経を赦免したときに、久村も七枚起請を書いて天神地祇に誓い、
「絶対に二度と逆心を抱かない」と、相良遠江守を通じて義隆卿に嘆願して、
ようやく赦免され、戻ってくることができた。

しかし久村は香川左衛門尉光景と所領争いを起こし、何度も私怨の合戦におよんで、
たちまち流浪の身となってしまった。
そのうえ筋違いもはなはだしいことに義隆卿を恨み、
神辺城の杉原一族に一味して、近年は大内へと弓を引いていた。
しかし杉原が城を去ってからは、久村は備後の国をさまよい、
藤井の何某と共謀して尼子を備後へと引き出して大内の城を落とし、
自分の武功にしようとたくらんだ。

香川左衛門尉はそれを察知すると備後へと行って、親類の平賀隆宗とともに謀略をめぐらし、
ついに久村を生け捕って、すぐに元就様を通じて山口へと報告を上げた。
義隆卿からは「久村の首を刎ねよ」と命があり、
検使を一人派遣してもらったうえで久村を処刑した。

久村が城を落とされた顛末はこうだ。
さる天文十五年正月三日、玄蕃は三百余人を率いて、
香川の居城である八木の城へと夜中に切り入ってきた。
香川は、久村がこのような計画をしているとは思いも寄らずに油断していたので、
久村はまったく抵抗を受けることなく押し入ることができた。
香川は主従三十人ほどで城戸口に出て行って防戦したが、まったく危機一髪の状況だった。

久村が肩を射られて前進をとめたところに、
城中の者たちが駆けつけて香川勢は五十人ほどになったので、
久村は怪我を負ったこともあり、攻め落とすのをあきらめて退却していった。

その後は互いに足軽を出して日々戦っていたが、久村が怪我を治療して完治すると、
また八木の麓へと攻め寄せてきて、何度も合戦に及んだ。
勝敗は日によってそれぞれだった。

光景は、どうにかして久村を討ち取ろうと考えたが、
相手が大勢なので、なかなかそれもできずにいた。
同九月十九日、香川石見守・同右衛門太夫・江戸十郎兵衛らに五十余人を差し添えて、
八木川を夜中に渡らせ、久村の在郷の谷影や林の中に隠しておくと、
自分は百人ほどを率いて、まだ仄暗い明け方に久村の郷へと攻め寄せた。
足軽を数隊に分けて五、六ヶ所に火をかけさせると、郷の家がカッと燃え上がる。

久村はこのとき敵が攻め寄せてくるとは思いもしなかったので、
あっという間に在家を四、五十軒も焼き払われて悔しく思い、
すぐに城中の兵三百余騎を残らず引き連れて、
深入りしてきた光景の手勢を討ち取ろうと進んだ。

光景はかねてから計画していたように、遠矢を少々射かけると、
後ろを振り返らずに退却し、八木川を渡る。
久村は、「あれを見ろ。光景は我が手並みに臆して逃げ去ったぞ。
あれを討ち取って、今朝家々を焼き払われた無念を散じようではないか」と、
まっしぐらに追いかけてくる。

光景は都合のいいところまで久村を引き寄せるため、
八木の在郷の呉竹の茂みまで来ると取って返し、藪陰から散々に矢を射かける。
久村は大勢なので、竹の林の左右から打ってかかってきた。
光景はそこをも捨てて引き退く。
久村がなおも追いかけてきたので、光景は八木の館近くになって、
また取って返して防戦した。
光景は久村と無手と渡り合い、どちらも一歩も引かずに攻め戦った。

光景が時分を見計らって太鼓を打つと、山上でこれを聞いてほら貝が吹き鳴らされた。
この合図で、久村の山陰に隠れていた兵たちが動き出し、
一気に鬨をあげて久村の後を遮り、打ってかかった。
久村は前後を敵に挟まれて機を失い、兵たちはたちまち隊列を崩して逃げ惑った。
どうにかして自分の城に帰ろうとしたけれども、
道を遮られてはそれもできないので、足の限りに逃げてゆく。
光景は伏兵たちに後を追わせ、時分は久村の城を落としにかかった。

城中に残っていた兵たちが必死に抗戦したので、江戸三郎左衛門・藤川七郎次郎、
そのほか十七人が怪我を負ったが、無二に攻め入ったため、
城中の兵たちもついに持ちこたえられなくなって逃げ去っていった。
光景はすぐにその城を焼き払い、久村に協力した一揆勢を、あるいは殺し、
または一命を助けて人質を取り固めた。
これで久村は再び自分の城に戻ることができずに、
備後の国をさすらって生け捕られたのだという。


以上、テキトー訳。

というわけで、今回は作者の香川正矩による先祖称揚の章だったね。
嫌味にならん程度にこういうの突っ込んでくるから、正矩大好き(*´∇`*)
ただ、仏教説話の乱舞と故事引用はきついです。読者の能力的に。
いつか、香川の本拠地だった八木にも行きたいな。
ついでに熊谷の城があった可部も。
そこから奥が大変なんだわ。安芸吉川氏史跡とか、どうやって行こう(遠い目)。
私は車運転できないから、公共交通機関で移動できないところにはなかなか行けない_ノ乙(.ン、)_

久村の末路を読んで、こうして没落していった名も知れない小領主は、
数知れないほどいたんだろうな、と考えてしまう。
なかなかに物悲しいよね。中にはどん底から這い上がってくる人もいるけどさ。
毛利家だって久村のようになっていた可能性だってあるんだもんな。
でも久々の合戦記、楽しかったです!

さてお次は……歌会の話らしいよw さすが香川w
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