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2013-04-02

義隆と、周囲の男たち

だいたいの流れ:
陶隆房が大内義隆に反逆した。
冷泉隆豊らは、築山の館に籠もって一戦を遂げるべく準備をしていたが、
義隆は側近の諫言に従って法泉寺に退いてしまう。
慌ててその後を追う隆豊ら。
しかし集めた兵力は、定まらない方針辟易してか、半減してしまう。


義隆卿、法泉寺落ちのこと

さて、ここまで供奉してきた三千余騎の兵たちも、
このような弱将に与して易々と討ち死にするのは堪えられないと思ったのか、
夜半のうちに二千余騎は逃げ散って、縁を頼って陶の手に属した。

陶尾張守隆房は、義隆卿がすでに山口から逃げ去ったと聞くと、
九州へ渡らせては由々しき一大事になると考えて、
取るものもとりあえず、富田のや若山を打ち立って、その日の夜に山口に入った。
杉・内藤らが待ち受けていたので合流し、五千余騎で、同二十九日の正午、
法泉寺の門の外まで攻め寄せると、鬨の声をどっとあげた。

寺に居合わせた兵は五百余騎に過ぎないので、はかばかしい防戦ができるとは思えない。
義隆は、山の手を固めている冷泉判官・黒川近江権守・佐波新介・江口五郎の方面へと、
阿川太郎隆保を遣わした。
「寺の中の兵が皆逃げ出してしまって兵がいない。皆ここに集まってきてくれ。
同じところでどうにかしよう」と告げると、皆山の手から法泉寺目指して下ってくる。

阿川太郎は日ごろから、自分は人よりも十倍力持ちだと自慢していて、
「山狩や川狩を生業としているから、敵の五人や十人は簡単に殺せる」とうそぶいていた。
義隆はその話をまともに信じたのか、阿川を深く信頼して、弓百張の大将にした。
それほどの男なのだから、今回は諸人の目を驚かす合戦を見せてくれるだろうと、
人々も頼もしく想っていた。

冷泉たちが山を降りた後に阿川が残っていたので、
もう合戦を始めるつもりだろうかと人々が思っていると、
阿川は鎧を脱ぎ、笠をかなぐり捨てて、山伝いに逃げていった。
これを見て、諸軍士も我先にと足に任せて逃げ出してしまった。
こうなっては法泉寺でまともに一戦する兵力もない。

義隆卿は二条左大臣尹房公に「和睦の仲介をしてほしい」と頼んだ。
尹房公は「陶たちはなかなか承知しないでしょうが、まずは申し入れだけでもしてみましょう」と、
法性寺殿・外記殿を使者として内藤下野守興盛のところへと遣わした。

「義隆は隠居して、子の新介に家を譲り、
国の政道を陶・杉・内藤の三人に任せるつもりです」と告げると、
内藤はこれを聞いて、「もう三日ほど早く仰せくださっていたなら、
陶に申し聞かせて和睦する道も開けたでしょう。
しかしこれほどまでに差し迫ってしまうと、どんなにこの興盛が申したところで、
隆房は絶対に聞き分けますまい。
使者のご両人は、何の問題もないので、ここにとどまればよろしい。
義隆卿にはご自害しか残されておりませぬ」と、冷徹に返答した。
二人の使者も、後は何も言うことができずに、怒りを抑えて帰っていった。

しかし陶たちも、実際に主君を討ち果たすのも空恐ろしく感じたからか、
寺にしきりに使者を送って「切腹なさってください」と申し入れてはくるものの、
力任せに攻め入ってくることはなかった。
隆房は家人たちに「相良・冷泉をはじめ、
義隆に味方している者たちの家をすべて焼き払え」と下知し、
攻め寄せて家々を打ち壊し、資材や家財を奪い取っていく。

それどこか、築山・隆福寺・浄光寺・求聞持堂、そのほか寺社仏閣を数十ヶ所も焼き払った。
また何者が言い出したのか、「その寺の阿弥陀像は閻浮檀金でできている」
「この堂の釈尊は赤栴檀だ」と言うや否や、
欲の皮の突っ張った者たちは、「これが金仏だろう」「あれが赤栴檀だろう」などといって、
仏像の髪を切り取り、指をもいでいく。
山口にありとあらゆる堂塔の諸仏像がその被害に遭った。

同二十九日、大内家代々の什書などを入れた箱を一つ抱いて、
今八幡の宝殿に持ってきた者がいた。
その者は箱を神光寺・宮司の二人に渡すと、「これを納めておいてくれ」といって、
掻き消えるようにいなくなったという。

さて、大内義隆は法泉寺で自害するつもりだった。
しかし清の四郎が大いに諌めた。
「ここで易々と自害なさるなど、口ほどにもありませんな。
ひとまず九州の方へと落ち延びて、豊前・筑前の家人を集め、
この鬱憤を晴らすための戦をするべきです。

昔の右大将頼朝は土肥の杉山の合戦に負け、そのときはたった七騎になりましたが、
最終的には六万騎を集めて、驕る平家を滅ぼしました。
また、大納言尊氏は都の合戦で利を失い、
九州の多々良浜の合戦ではたった三百余騎しか手元にいませんでしたが、
ついには天下を握る武将となりました。
これはみな、命を永らえさせたからこそです。
どうか、早く落ち延びてください」

義隆卿はこれを聞いて賛同し、二十九日の夜半、
二条殿の若君・三位中将殿(良豊)・義隆の御曹司である新介を先に立てて、
法泉から逃げ出した。

清の四郎は、自分が諌めた義隆を見送ると、しばらく後にとどまった。
皆は「この男はきっと、これまでの重恩に報いようと、
防戦しながら死ぬつもりなのだろう」と考えたが、実はそうではなかった。
四郎は鎧兜を脱ぎ捨てて、菅の小笠で顔を隠し、
どこで手に入れたのか破れた墨染めの衣を着て、
乞食僧のような格好になると、敵の間を紛れ出て行った。
とある民家の床下に隠れていたところを探し出されたが、
柱にしがみついて出てこないので、鑓で突き殺された。みっともない振る舞いである。

また、安富源内は、少年のころは春の花のような顔つきが艶やかだったので、
義隆の男色の寵愛は甚だしかった。
昼はいつも近くに座らせ、夜はいつも枕を並べて寝たもので、片時の間も離れることがなかった。
だから義隆は馬の足を止めて何度も安富を待ったが、結局やってこない。
義隆卿は「源内は討たれてしまったのだろうか。
以前から、死ぬときは一緒だと約束していたのに、先立ってしまったのか」
と涙を押さえて落ちていった。
しかし安富は死んだわけではなく、山口の方へと忍び出ると、
内藤下野守を頼って、取るに足らない命を助けてもらっていた。口惜しいことである。

佐波新介は敵に押し隔てられて義隆卿に供奉できなかったので、
一方を押し破って石見の国に向かっていた。
伊雲という土地で一揆勢が「落人がいるぞ」と取り囲んでくると、
新介は「憎いことをする奴らめ。逃げる者は放っておいてくれればいいものを」と散々に戦い、
敵を数人切り伏せると、ついにそこで討たれてしまった。

また隆福寺の玉堂和尚は、敵が寺の中へと乱れ入ってくると、
使用人や小僧に至るまで皆殺しにし、伽藍を焼きたてて乱暴狼藉に及んだので、
たちまち紫の法衣を脱ぎ捨てて破れ衣を身につけ、乞食のふりをした。
そして破れ椀に義隆から与えられた方衝を割って底に敷き、その上に焦げ飯を入れると、
それを食べながら外に出て行く。
乞食の姿を真似ているので、人もこれを見咎めることはなく、あえて引き止める者もいなかった。

玉堂和尚はそのまま忍んで都に上り、割って持ち出した肩衝を継ぎ合わせて、数万貫で売却した。
それからその肩衝は玉堂と呼ばれるようになり、
玉堂和尚は「欲堂和尚」と呼ばれるようになった。
その肩衝は、今でも世に伝わる天下の名品だということだ。


以上、テキトー訳。

あわわわわ……なんなんだ、この逃げ足の速いっつうか変わり身の早い連中は!
いや、変わり身が早いならもっと早期の段階で逃げてるか。
いよいよ見捨てるしかなくなったってことなんだろうか。
しかし義隆……(´;ω;`)ウッ
男色の寵愛深かった安富も、玉堂和尚までも。
ちょっと言葉が出てこないね。

でも玉堂和尚はなんかちょっとひどすぎて逆に好きかもしれない。
こういう欲望の強さと小賢しさ、しかも僧という身で、ってのが、
なんか世の中ってのをよく表してるような気がしてね。
「命あっての物種」ってことなんだろうなぁ。あと金な。

そういえば漫画の「へうげ」にも、こういう坊さん(商人?)が出てきたけど、
どことなく憎めないんだよね。
抜け目のなさ、生き汚さに強い生命力を感じるというか。
ちなみにどうでもいいけど「へうげ」の宗箇さんカワイイ(*´∇`*)

ハァ……冷徹な内藤さんも萌えるなぁ←ダメ人間。
さあ、次も続きを読むよ~!
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