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2013-04-03

最後の賭け

だいたいの流れ:
いよいよ陶隆房が大内義隆を討ち果たしにやってくるとなって、騒然とする山口。
大内家の家臣たちも大方が陶に同心してしまった。
義隆はギリギリまで和睦を望んだもののかなわず、
妻と別れ築山の館を出て、法泉寺へと落ち延びる。
しかし義隆を警護するために集まった冷泉隆豊らとは足並みそろわず、
掻き集めた兵も大半が逃げ散り、これまで目をかけてきた側衆までもが、
一人、また一人と逃げ出していくのだった_ノ乙(.ン、)_

ちょっと折れそうな心にズキンとくるな、この展開。


義隆卿難風に遭い給うこと、並びに公家衆最後のこと

義隆卿は法泉寺を出ると、糸伊根・朝倉・大坂を越え、八小路の谷を足に任せて進んでいった。
三位中将殿・新介殿は、日ごろはちょっとした遊びに出るにしても輿や車を使っていたので、
いつもはたった百歩すら自分の足で歩くことはなかったというのに、
今はきこりさえ辟易するような深い山道を、徒歩で踏み迷っている。
足から流れ出る血で落ち葉が真っ赤に染まり、まるで紅葉を踏んでいるようだった。

秋の半ばも過ぎているので、露が落ちてきたかと思えば通り雨が降り、
落ちる涙と争うように、袂が乾く暇もない。
峰の木の間から見える白雲を見ては敵の旗かと肝を潰し、
深い谷に隠れている猿の声を聞けば追っ手の声かと震え上がる。
涙ばかりが溢れてきて、道もはっきりと見分けられない。
あちこちで一休みしたり転んだりと、満足に歩けない様子だった。

このままでは敵に追いつかれてしまうと考えた岡辺右衛門尉は、
綾木というところで小荷駄の馬を二頭奪い取り、二人の若者を乗せた。
下山田というところを過ぎて、長門の国の岩永の即心庵という寺へ入り、
食事を整えたが、若者たちは不安と疲れで胸がいっぱいなのか、まったく手をつけない。

正午になるとこの寺を出て、カマ・岩渕・秋好などというところを通って
深川の大寧寺を左に見ながら、大津の三隅の松を過ぎ、
通嶋の後根壱岐守という船頭を頼って落ちて行った。

その壱岐守は若狭へ行っていて留守だったので、
仕方なくその浦の人々に「船を提供してほしい」と頼んだ。
しかし落人だとわかっていて船を出す者などいなかった。
義隆卿が「まったくどうしたらいいのか」と呆然と立っていると、
後根壱岐守の家人たちが、
「先祖代々仕えてきた主君がこのような有様になっているのを見ながら、
船を貸さないことなどできない。
明日は陶によって罪科に問われようとも、かまうものか」と、小船を一艘貸してくれた。
義隆卿一行はそれに乗って、二、三里ほど漕ぎ出した。

この場所(仙崎)は、海上が広々としていて島影もなく、入日の光は波に沈む。
その向こうは唐土だという。
いつも潮の流れが速く船路としては危険なところだったが、
義隆の運が尽きたのか、にわかに空が掻き曇ってきた。
矢よりも鋭い突風が北から吹きつけて、波濤は天まで翻り、
すぐにでも船が転覆してしまいそうになる。

義隆は、「皆はどのように思っている。
大内ほどの者が、運が尽きて家人に国を追い出され、
矢の一つさえ交わさずに逃げ出したのは、末代までの恥になる。
今となっては、法泉寺で死ねばよかったと千度万度悔いても、まったく意味がない。
そのうえ、船に乗って逃げようとして、海底の水屑となったと言われては、
その悪名は泥の上に土を塗りたくるようなものだ。

さあ、ここから船を漕ぎ戻して、出てきた浜辺に戻り、
追っ手が近づいてきたら、一矢報いて戦死しよう。
もし敵がまだ近づいていなければ、深川の大寧寺へ行って、そこで自害しようと思う。
あの寺は石屋和尚を開山として、清浄な結界が張られている聖域だ。
死骸を仏法繁栄の地に埋めれば、きっと修羅道の苦患を逃れることもできよう」と言った。
供奉していた者たちもこれに賛同し、心細い様子でもとの地に漕ぎ戻っていった。

昔、九郎太夫判官義経が頼朝と仲違いをしたとき、九州の方へ落ち延びようと、
渡辺神崎から船に乗ったものの、平家の怨霊が海上に現れ出て、
たちまち猛風荒波が船を転覆させようとした。
義経はしかたなくもとの港へ漕ぎ帰り、吉野山に分け入ったそうだ。
そのときの様子もこのようだったのかと偲ばれて、哀れなものだった。

三条殿は義隆卿が深川の方へと行ったと聞くと、その後を着いていこうとしたが、
途中で一揆勢に打ち殺されてしまった。
各務は湯田の縄手で、陶安房守隆満の手勢に討ち取られた。

二条の左大臣尹房公は、法泉寺を迷い出ると、深い谷をのぼって山を越え、
神明山の後覚雄寺という寺へ入ったが、
そこで杉勘解由判官の手の者と行き会って、刀や脇差を奪い取られた。
それから「お腹を召されよ」と勧められたものの、尹房公は、
「私は武士ではない。陶も私に対して恨みはないだろう。なぜ自害しなければならないのだ。
内藤興盛の方へ言い送ってあることがある。その返事によっては自害しよう。
しばらく待て」と言った。
しかし邪険放逸な荒くれ者たちだったので、取り押さえられて首を掻かれた。
享年五十八歳だったという。

昔、平資盛が摂政松殿基房の車と行き違ったときに下馬しなかったため、
松殿の供奉の者たちが資盛を馬から引き摺り下ろし、散々に恥辱を与えた。
祖父の入道相国(清盛)はこれを聞いて大いに腹を立て、
兵たちを遣わして松殿が出てくるのを待ち受け、随身の元結を切ったり散々に暴行したうえ、
車の中へ弓の筈を差し入れて御簾を切り落としたという。
これは世に類なき悪逆と言われてきたが、今回のことについては、
かたじけなくも大織冠(鎌足)の末裔である摂政関白という高貴な人が、
このように戦に巻き込まれて横死したということは、
世が末世になったとはいえ、実にひどいことであった。


以上、テキトー訳。

おおお、天候にまで謀反されてまったのね、よったかさま(´;ω;`)
ホントこうなってくると、不憫すぎて何も言えん。
一緒に逃げてる人も大変だよね。
肉体的にもつらいけど、精神的なものが特に。
精神的なつらさって、肉体にも大きく影響するもんな。

公家の皆さんもなんだか大変なことに……
待遇のいい仮宿を見つけたと思ったらそこが火薬庫だったとか。
運が悪かったよねぇ。
まあ、きっと来世はいいことあるさ!

以下、どうでもいい近況なんだけど、
最近朝の4時とか5時とかにふと目が覚めて、目覚ましが鳴るまで
朦朧とした状態で夢を見ていることが多いデス。
つまり、夜によく眠れていない!
ちょっとこれが続くとヤバイというか現在でも疲労感がたまっててマズイ。
背中のバキバキ感が物語ってる。もともと悪い首にも響いてきた_ノ乙(.ン、)_
季節の変わり目だし、私もトシだから、ついに自律神経がイカれたかな。
もう少し様子を見て、改善しないようだったらとっとと医者に行こう~><
ていうかこういう問題は何科にかかればいいのさ……

そんなわけで睡眠を大事にしたいので、眠くなったらすぐさま寝る生活をしようかなと。
更新は途切れ途切れになるかもしれないけど、健康あっての物種ですから!
まあ継続して読んでらっしゃる方もいないだろうから、大丈夫(・`ω´・)
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