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2013-04-05

露のように、雷のように

さて昨日は深夜帰りですぐ寝てしまったけど、
どうにか一週間終わったぞ!

陰徳記、だいたいの流れ:
主君の大内義隆を討つと決心した陶隆房に同心する者は多く、
義隆はそれまで暮らしていた山口の築山を逃れ、九州に逃れるつもりでいた。
しかし警固に当たる冷泉隆豊らとも息が合わず、慣れ親しんだ近臣も次々と逃げ出してゆく。
どうにか船に乗るも、折からの悪風で進むことができずに、
自害を決心して陸に漕ぎ戻った。

ついによったかさま、最後のときがやってまいりました。


義隆卿の自害、並びに大寧寺炎焼のこと

義隆卿は主従十三人で瀬戸山崎へ船を漕ぎ戻し、陸に上がると、
道場原の一本松を心細げに打ちながめ、白潟港などというところを過ぎ、深川の称名の市を通った。
するともう鷲津の一族が早くも追いついてくる。

義隆卿は雨のように矢が放たれるのを見て、
「流れ矢に当たって死ぬよりは、引き返して討ち死にしよう」と、馬の頭を引き返させた。
すると、鷲津の者たちはさすがに代々仕えてきた主君だからなのか、
皆バラバラと地に這いつくばって頭を垂れ、かしこまった。
義隆がまた背を向けると、それを追いかける。
二、三度そんなことを繰り返しているうちに、ほどなく大寧寺へと入ることができた。

大寧寺では異雪和尚がすぐに出てきて、
「それにしても定めなき世のためし、盛者必衰の習いとは申しながら、
今このようなご様子を拝見するとは、夢とも思えず現実とも感じらせません」と涙を流した。
義隆卿は、「私の武運は尽き果ててしまった。
家人の陶によってこのような身に追いやられるとは、口惜しいことだ。
こうなっては、今生の心残りもない。
ただ来世こそは、よいところに至りたいものだ。

まずこれまで同道してくれた、二条の関白殿の御若君である三位の中将殿・
持明院入道一忍軒・我が愚息の新介のことを、よろしく頼みたい。
どこかの岩陰、木の陰へと隠しておいて、はかない命を助けてほしい。
二条殿・一忍軒は折を見て京都にお帰しし、またあの新介のことは僧にでもさせて、
私の後世を弔わせてくれ。
一人の子が出家すれば、その一族縁者は皆天に生まれることができると聞くから、
未来永劫の苦しみを逃れて、都卒店に生を受けられるだろう」と言った。

異雪和尚は、「その三人のことはご安心ください。
私が預かって筑紫の方までお供いたし、はかないお命をお助けいたします。
最後の一念によっては悪い道に落ちるものです。
しかし、即身即仏の契りをなされば、三塗地獄に入ってもまるで物見遊山をしているようなもので、
餓鬼畜生地獄に入っても責め苦を味わうことはないといいます。
外に向かって仏を求めるべきではなく、もし仏を求めれば仏を魔に摂らせられ、
もし祖を求めれば祖を魔に縛せられ、
森羅万象虫けらに至るまで、仏性を備えていないものはないのです。
ましてや人間に仏性がないはずがありません。間違いなく成仏解脱できますよ」と言った。
義隆卿が三拝して、「どうか道号を授けてほしい」と言うと、和尚はすぐに「瑞雲珠天」と名づけた。

和尚が湯漬けを出してくれたので、皆でそれを食べているとき、冷泉判官が箸を取り直した。
「これまで再三諫言をしてきましたのに、お聞き入れくださらなかったから、
今こうして逆臣によって国を追われ、身を滅ぼそうとしているのです。悔しくてなりません。
あのときお許しをいただいて、隆房と刺し違えていれば、
聖琳太子から二十四代も続いた大内家が断絶することはなかったでしょうに」と、
涙を流して歯噛みをした。

天野藤内はカラカラと笑って、「運が尽きると、さしもの勇士も心を乱して、
どうしようもないことを言い出すものです。
義隆卿の世であるからこそ、日ごろ申し上げてきた意見をお聞き入れくださらなかった、
などと責め立てることができて、今後の御名のためにすることができるのではないですか。

もうこれが最後だというのに、主君の不足を申し立て、戻ってこない月日を悔やんでも、
それは意味のない愚痴でしかありません。
今は、敵が攻めてきたら皆潔く討ち死にすることだけを考えていればいいのです。
ほかに何を思うというのです。冷泉殿ともあろうお方の仰せとは思えません」と言った。

隆豊は、「実に無様なことを申しました。若い人々の前だというのに恥ずかしい。
先ほど、最後の一念によっては永遠に六道四生を流転すると聞きました。
私も最後の一念で修羅道に生を受けようと思います。
そして八万四千の眷族を引き連れて陶の首を取りに行き、
近ければ三年、遅くなっても七年のうちには獄門に晒してやります。
もし陶が七年以上生きたならば、隆豊の亡霊はいなくなったのだと思ってください。
ああ、伍子胥の例にならって、両目をくりぬいて敵城の東門に掛けておいてほしい。
その目で陶の週末を見届けたいのです」と言った。
その、目をカッと見開いて歯を食いしばる様子は、修羅の三目もこのようなものかと思われて、
それは恐ろしげだったそうだ。

こうしたところに敵が大勢大門のところに攻め寄せてきて、ドッと鬨の声を上げた。
冷泉判官はすっと立ち上がると、大弓と大矢を携えて門外に立ち向かう。
「今ここに攻めてきているのは、陶・杉・内藤か」と問うと、
敵は「いや、杉・内藤の若党でございます」と答える。

冷泉判官は「これから義隆卿がお腹を召されるところである。
逆意を構えたからといって、このようなときに狼藉はするな。
しばらくそこに控えて、雑兵たちを抑えていろ。
家人とは、悪逆非道であっても主人を真似るものなのだから、
これから蒙る天罰さえも省みず、主君の御自害を妨げようとするかもしれない。
この隆豊の弓の腕前はよく知っているだろう。
矢種が続く限り、太刀の刃が堪える限りは、私が相手をしてこの門の中には入れないぞ。
一言の返答しだいによっては、矢を放ちかけてやる」と言った。

寄せ手はこの返答に迷ったのか、しばらくは何も言わずに誰かが口を開くのを待っていたが、
六十歳ほどに見える男が進み出てきた。
「冷泉殿の仰せはもっとも至極でございます。
たとえ自分自身の遺恨が積もり積もったために逆賊に一味したのだとしても、
まさしく先祖代々仕えてきた主君の御自害を妨げることなどありましょうか。
お心静かにお腹をお召しください。それまでは私が警固をいたしましょう」と男が言う。

冷泉が、「よくぞ申した。名を聞こう」と問うと、男は、
「これなるは、先年奸人の讒言のせいで刑罰に処せられた鷲津の一族でございます。
御勘気を蒙った身として、何の面目があって名を名乗れましょう。
雑兵たちが乱れ入ってこないうちに、どうかはやく御自害なさってください」と言った。
隆豊は、「それでは鷲津殿、よろしくお頼みいたします」と言って急いで立ち帰った。
そしてこのことを義隆に伝え、「自害なさってください」と促した。

義隆卿は仏前に向かって焼香を三拝してから、腹を一文字に掻き切る。
冷泉判官は、「ああ、ついに御自害なさったか」と言うや否やその首を打ち落とし、
そのまま障子や畳などを重ねて、香の火をカッと吹きつけた。
異雪和尚は、自分は若君たちを連れて後ろの山に隠れていたが、
代わりに死骸を供養するようにと、同じ寺の僧を一人残し置いていた。
この僧は義隆卿の側近くに使えていた者の子だったので、涙を押さえているばかりだった。
冷泉判官が、「これまで見届けてくれたことは、重ね重ねありがたい。
もうこれまでだ。早くお逃げなさい」と促すと、この僧も仕方なく深い山へと隠れていった。

そのうちに火が燃え広がっていくと、智翁和尚を開基として、
仏殿や山門、庫裏や方丈、草堂法堂にいたるまで、
鷲津弘忠が家宝家財をなげうって華麗に作り上げた大伽藍も、
兵火によって一宇も残らず焦土となってしまった。悲しいことである。

冷泉隆豊らは、棟木が焼け落ちるまでは義隆卿の死骸を守っていたが、
もはや敵が乱れ入ってきたとしても火の向こうにある義隆卿の首を取ることができないと確信すると、
すぐに走り出て経蔵へ上り、寄せ来る敵を待ち受けた。
敵がこれを見て、自分こそが討ち取ってやろうと乱れ入ってきたところに、
隆豊は真っ先に進んできた兵を射伏せた。

これをはじめとして、散々に矢を射っているうちに、数人を射殺した。
そうなれば近づく者もなく、この間に、長く続いた大寧寺の建物や義隆卿の遺骸は、
一片の煙となって消えてゆく。
隆豊はそれを見て一首の歌を詠み、小指の血で一切経の表紙に書き付けた。

「見よや立つ煙も雲も半天に誘引いし風の音も残らず」

こんな歌を詠んでいる場合でもあるまいに、日ごろ慣れ親しんだ道でもあり、
また黄門定家卿の末裔だからなのか、このような状況でも歌を口ずさむ心立ては、
ずいぶんと優雅なものであった。
武道にも歌道にも優れ、千人の英、万人の雄とも呼ばれるべき人だったと、
さしもの横紙を裂く陶隆房も鎧の袖を濡らしたという。

義隆卿をはじめとして、皆時世の詩歌があったのだが、煙となってしまったのか、
後世に伝わっているものはない。

さて、冷泉たちの矢種が尽きると、寄せ手が間近に攻め寄ってきた。
冷泉判官隆豊・天野藤内隆良・黒川近江守隆像・岡部右衛門隆景・禰宜民部丞右延・
大田隠岐守隆通・岡屋左衛門隆秀などは、思い思いに切って出て、火花を散らして攻め戦った。
隆豊は名高い大力量だったので、太刀をまっすぐにかざして、向かってくる敵を二人切り伏せた。
右延も敵の突く鑓を払いのけて切り伏せ、多くの手傷を負いながらも、
ついにその場でぼろぼろになって死んだ。
そのほかの者たちも、いずれも劣らぬ勇士だったので、皆向かってくる敵をよく討ち取った。

冷泉は味方が皆討たれてしまったのを見ると、
「もうこれまでだ。敵の手にはかかるまい」と、経堂の中へ走り入って腹を十文字に切り破った。
そして自分の臓腑を掴み出して天井に投げつけ、自ら喉を描き切って死んだ。
今でもその経堂には、隆豊が臓腑を打ちつけたところだという血の跡が残っている。

こうして天文二十年九月一日、いったいどんな日だったのか、
大内家はこれで断絶し、琳聖太子の末裔も根を絶ち葉を枯らしてしまった。
哀れなことである。


以上、テキトー訳。

ああ、ああ、ああ。なんていう。
ついに死んでしまったか。義隆も隆豊も。
なんだか胸がいっぱい。

お小言の連続でちょっと辟易してた隆豊さん。好きだったよ。
最後もかっこよかったね。
最後の晩餐のときにまで嫌味言うこともないだろって思ったけど、
人間らしくてなんだかいいなぁ。
向かってくる敵を射伏せ切り伏せて、割腹し、腸を天井に投げつけるとかは、
だいぶ人間離れしてるけれども。
あと、戦いながら血で歌を書き付けるとかね。なにやってんですかもう><

義隆は、どんな気持ちで旅立ったのか。
隆豊は、どんな気持ちで介錯したのか。どんな気持ちで主君の遺骸が燃えるのを見守ったのか。
この死の瞬間に、すごいきらめきが凝縮されてるような感じがして、
少し雰囲気に当てられてしまった。
酒も飲んでないのに酔っ払うとは……

少しびっくりしたのは、義隆をはじめ「辞世の句が残されていない」ってとこ。
そういえば、だいぶ前に読んだ、陶隆房の最後にも、辞世の句は登場しなかったな。
義隆のもの、隆房のものとして伝わってる歌は、
いつごろどのように伝達されたのかってのにも興味がわいてきました。
歌といえば、吉川経家の辞世も、なんか真贋があるらしいので、いつかそれも調べたい。

とりあえず今夜は、物語に酔ったついでに、少し酒かっくらって寝るぞー!
明日は悪天候の中で運動しなきゃならんかも知れんので_ノ乙(.ン、)_
お願いします中止にしてください(´;ω;`)
雨天決行は承知してるけど嵐の中でやるべきじゃないと思うの。
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