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2013-04-07

そして遺された者たち

えー、昨日は老骨に鞭打って怪しい天気の下で運動してたうえ、
ついついのせられて深酒をしたため沈んでました_ノ乙(.ン、)_
酒と女は2ゴウまでとはよく言ったもんだぜ。
でもまだ即日~翌日に筋肉痛が来るから、ちょっと自慢!
しかし筋肉痛が持病に影響するのはどうにかしてほしい。

さてさて陰徳記、だいたいの流れ:
ついに陶隆房が大内義隆を追い詰め、義隆は船で逃げようとするも悪天候のために断念し、
大寧寺で自害する。
それまで付き従ってきた冷泉隆豊らも義隆の自害を見届けて寺ごと遺骸を燃やし尽くすと、
寄せ手と散々に戦って、あるいは自害し、または討ち死にした。
とりわけ、冷泉隆豊の最期は立派だった。

今回は、最後に義隆が大寧寺の異雪和尚に頼んで逃がそうとした人々のお話。


三位中将殿・大内新介最後のこと

二条の尹房公の御曹司である三位中将殿・大内新介・持明院一忍軒・小幡四郎らは、
異雪和尚とともに後ろの山に分け入っていたが、兵たちが追いかけてきて、
とある岩陰にいたところを探し出されてしまった。

兵がすぐに討とうとすると、異雪和尚は兵に向かって、
「ああこれ、急いで事を仕損じるな。
私が隆房と深く師弟の契約をしていることは、世のすべての人が知っている。
だから義隆卿は、理を曲げてこの愚僧に新介殿をお預けになり、
出家させるようにと、昨日の夕方におっしゃったのだ。
また、三位中将殿は陶の敵ではないのだから、討つ理由がない。
もうしばらく待ってくれ」と言った。

すると新介が「義隆はどうなったのですか。どちらに行かれたのです」と問う。
追っ手の者たちは、「昨日、大寧寺で御自害されました」と答えた。
新介は、「もしかしたら父御前も落ち延びていらっしゃるかもしれないと思ったからこそ、
ここまで逃げてきたのです。
義隆が自害なさったのなら、陶がそれを許したとしても、私が生きる意味はありません。
たとえ僧になったとしても、人々に、
『これが大内の子だ、義隆の嫡子だ、父が討たれたというのに落ち延びて露のような命を拾い、
身の置き所がないから出家したのだ』などと言われては、みっともないと思います。
我が身の恥となるばかりか、先祖二十四代の名折れです。

昨日大寧寺で、私も死ぬと申しました。
天野藤内と岡辺右衛門にこっそり打ち明けたところ、彼らは
『義隆も自害したということにして、寺に火をかけ、後ろの山に分け入っていただき、
落ち延びていただくことになっています。
幼い人々を連れていなければ、昨日門司の関を越えられたでしょうに、
二人の若者が不憫で思うように道を進めず、急げなかったのです。
だからこれからは、二手に分かれて逃げるのですよ』と言ったのです。

私もそれを信じて逃げてきましたが、口惜しいことです。
親子なら、一緒に死ぬべきだったのに」と、涙を流して言った。
「もう陶の返事を待つまでもない。今ここで自害しよう。
私の首を取って陶に見せれば、勧賞してもらえるだろう。だ
からおまえたちに頼みたいことがある。私の母上はまだ山口近辺にいらっしゃるだろう。
これを最後の形見として渡してほしい」
新介は自分の髪を少し押し切ると、身に着けていた守り袋に入れて渡した。

その後、三位中将殿に向かって、「あなたは何も恐れることはないでしょう。
陶に言って、都にお帰りなさいませ。
隆房は私のことを逃がさないでしょうから、私はここで自害いたします。
これまで仲良くしてくださったことは、来世までも忘れません」と言った。
新介はすぐに小幡四郎を呼び、「私の首を打て」と差し伸べた。
小幡四郎は「かしこまりました」と肌脱ぎになると、新介の首をためらいもなく打ち落とし、
返す刀で自分の腹を切り破って死んだ。
新介は十二歳、小幡四郎は十五歳だったという。

鳳の子は鳳だという。
武士の家に生まれた者は、幼いとはいっても死ぬべきところで間違いなく死ぬ。
あわれなことであった。
このような歳でさえこれほどの振る舞いをしたのだから、
成長した暁には新介は良将の名を得て、小幡は良臣の誉れを得られただろうにと、
人々は皆涙で袂を濡らした。

三位中将殿も自害しようとしたが、そこを押さえられて討たれてしまった。
一忍軒はそこから逃げ出そうとしたため、
兵たちは一忍軒を取り押さえて首を打ち、頭を石の上に転がした。
兵たちは「流れに枕し石にくちすすぐ、という言葉がありますが、
石の枕は冷たくて、さぞ寝心地がよいでしょうな。
あなたの口はずいぶん悪くて、いつも人のことばかり義隆卿に悪し様に言い募っていらした。
その報いを今思い知ったことでしょう」と言って、
死骸の胸の辺りをしたたかに踏みつけて通っていった。

さて、豊筑の地で義隆に味方していた者たちにも、すぐさま討手が差し向けられた。
杉豊後守興運・太宰少弐興連・子息の弾正忠隆景は、
若杉山に籠もって「一矢報いてから死のう」と呼ばわったが
、国人たちは皆心変わりしてしまったので、
しかたなく若杉山から逃げ出して、津屋の村で討たれてしまった。
小幡山城守は、津和野の吉見正頼を頼って逃げていったが、
陶の兵たちが追いかけてきたので、木賊原で自害して死んだ。
そのほか龍崎加賀守・城井入道・野中何某なども皆討ち取られた。

相良遠江守は、自分の居城の東関山に引き籠もって一戦しようと思っていたが、
三隈の水無山にいた波多野をはじめとして、多くの者が陶に一味してしまったので、
居城に入ることもできず、また津和野に留まることもできずに、筑前の国へと逃げ下った。
そこで花尾の城に立て籠もり、陶が攻め寄せてきたら一戦して死んでやろうと考え、待ちかけていた。

陶尾張守はすぐに野上隠岐守房忠に三百余騎を添えて筑前へと差し下した。
立花・宗像といった人々もこれに従って、総勢三千余騎で花尾の城へと攻め寄せる。
相良は家之子郎党たちが皆このことを聞いて逃げ出してしまったので、
一矢報いることもできずに、やがて腹を掻き切って死んだ。
野上が武任の首を取って山口に送ると、陶は首実検を行って
「積年の鬱憤を晴らしたぞ」と、上機嫌になった。

こうなると、防長豊筑の四ヶ国は、完全に陶の下知に従うようになった。
横紙を裂くほどの隆房も、さすがに主君を討ち果たしたことで天の冥罰が恐ろしくなったのか、
実名を改めて「晴賢」と名乗り、頭を剃り上げて、法名を全薑と号した。
薑(はじかみ)は西に伸びる植物なので、薑の字をつけたのだという。
これは平相国清盛が入道したときと同じだと思わない者はいなかった。


以上、テキトー訳。

幼い子らまで皆殺し……いや、非情なんだけど、仕方ないね。
成長して挙兵しないって確約はないし、平清盛も見逃した子供(源頼朝)に
転覆させられてるからな。
三位中将はとばっちりだけど、生かしといても特に利益にならないなら、
不安の芽は摘むに越したことはないわけで。

新介は、小さいのにしっかりしてるな。12歳だってよ。
うぃきぺさん情報だと7歳なんだぜ、このとき。
7歳ではさすがにこの物言いはできないから、12歳設定で読んだよ。
まあ、12歳くらいになれば、一通り論理立てたしゃべり方ができるようになってくるよね。
そして側に仕えてる小幡四郎が15歳か。
12歳の主君を介錯して、自分も腹を切って死んでしまうとは。立派だったね。
小幡氏は、一族の女が元就の側室に入ってるね。子供はいなかったようだけど。

そんでもってある程度落ち着くと名を改めて出家する隆房さん……
薑ってのは、つまりショウガのことだよね。
しばらくショウガ食べるときには隆房のこと思い出しそうだわ。
好きなんですよ、ショウガ。
なんて、どうでもいい話は置いといて。

次章は隆元と元春が出てくるよー!
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