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2013-04-27

寺社領と観音と僧と俺とおまえと大五郎

GW前がこんなに忙しくなるとは……(愚痴)
それと会社の課題が楽しくてつい夢中になってしまって、
古文に向かえる状態じゃなかったよ!

てなわけで今日は、『陰徳記』でも書状類でもなく、別の文書を読んでみようかと。
『続・岩邑怪談録』という、岩国徴古館発行の冊子に、
ちょっと気になる記事を発見。
そいつをチョイと今風に訳してみようっていうかコレ、わりと読みやすいから、ついw

「岩邑」シリーズは、江戸時代に岩国藩で編まれた記録で、『怪談録』ってのは、
そのなかでも社会面的な記事を集めた編纂物みたい。
都市伝説のようなものの他に、寺社の話も載ってるので、
今回はそちらから、とあるお寺のご本尊に関する話題を。


10 普済寺の十一面観音

この観音は、もとは安芸の国の新庄の日の山城の麓、
和皮というところに桑願寺という臨済宗の寺があって、その本尊であった。
この桑願寺の住持が死んでしまったことで、
同所の西禅寺の住持は二宮佐渡守の弟①であったが、
西禅寺を隠居して「ホウオウケン」という庵にいたので、
広家公がこの人を桑願寺にお据えになった。

また、吉見次郎兵衛(元頼、文禄三年、石見の三本松で討ち死にした。
吉見三河守広頼の嫡男。正室は元春公の娘であり広家公の妹②である。
この室は文禄元年死去、法号「雲岩秀梅禅尼」)の妻が早々に亡くなってしまったので、
芳珪君(熊谷氏、雲岩秀梅君の親=元春室)がこの位牌に釈迦を添えて、
生前の御部屋を差し添えて桑願寺へと寄付した。
このため、桑願寺に昔からあった本尊の観音は脇立てにして、この釈迦を本尊に据えた。

その後広家公は出雲に所領替えとなり、雲住寺という住持を取り立てた。
そのため日の山の所領は、わずか部屋付きで五千石となった。
その内二千石は元氏公(広家の次兄)へと分与された。
こうして従来とは変わってしまったので、
西禅寺・桑願寺・洞泉寺の三つの寺はもはや立ちゆかなくなってしまった。

そこで御部屋預かりとなっていた二宮甚右衛門へと、侍従からこのことを嘆願すると、
甚右衛門は、「西禅寺は元氏公の領内なので、
元氏公に嘆願すればどうにかしてくださるだろう」と言った。
住持はすぐに元氏公へと願い出た。
住持は杉山へと参るようにとのことだったので、その地へと行った。
「杉山の西堂」というのはこの僧である。

桑願寺の住持は老人だったので、程なくして亡くなった。
その跡には、洞泉寺の住持が据えられた。
慶長の年の関ヶ原の一戦が終わると、広家公が岩国に移転することになって、
一時期由宇村に居住していた。
岩国に洞泉寺を建立することになり、桑願寺の住持は、
その釈迦と秀梅君の位牌を持って岩国に来ると、洞泉寺へと入院した
③。
そのため日の山の桑願寺の観音はその跡地に捨て置かれ、寺も民家となった。

そのころ、近所の「石」というところの商人が、
日の山に捨て置かれた観音を拾い、粗末な藁屋に置いていた。
その商人の子供は十二、三歳の男子だったが、急に熱が出てうなされだし、
「私は吉川代々の守り仏である。早く吉川殿のいるところへ連れてゆけ。
さもなくばこの子の命を奪ってやる」と言い出した。

親夫婦は驚いて、「吉川殿はどこにいらっしゃるのですか」と問う。
すると「周防の国の由宇という場所である」と答えがあった。
親夫婦がその観音を運ぶ用意をすると、病人であった子供はたちまち元通りに快癒した。
その商人はすぐに由宇村へと向かい、
由宇村へと広家公にお供していた出雲の雲住寺の住持のところへと行って、
事の次第を語った。
住持も不思議に思ってその観音を受け取り、鳥目銭などを商人に与えて、故郷に帰した。

その後、今の普済寺――森脇飛騨守が建立したものであるが、以前は無量寺といった――には、
寺は建立したものの本尊がなかったため、
安芸の国からもたらされたその観音が洞泉寺の仏壇の脇に置かれていたので、
これを譲り受けて無量寺(普済寺)へと据えることにした。


以上、テキトー訳。

とまあ、岩国の普済寺の本尊の観音の来歴をまとめたものなわけだけど、
おそらくハイライトとしては、不思議な現象が起こって観音様が商人の子供に乗り移り、
「自分を吉川殿のもとへ連れて行け」と言い出したってあたりなんだろうな。
マユツバ? けっこう!
しかし子供を人質にとって庶民を脅す観音様が受け入れられているあたり、
このころの宗教観が見え隠れするというかw
観音様も祟るんだねぇ。

私が気になっている部分は、下線部。
①「西禅寺の住持は二宮佐渡守の弟」ってのは、もしかして元長と仲良しだった
恵雍さんのことだったり……?
と思ったけど、別の僧侶のことかもしれないね。
だがしかし、「ホウオウケン」かどうかはわからないけど、
広家の出雲時代には、恵雍さんは西禅寺を離れて石見の寺(霊光寺)にいたらしいこと、
広家が岩国に移ってから、恵雍さんも岩国に招かれたらしいことはわかってるんだ。
このあたりは下線部③と一致する気もするけど、恵雍さんが入ったのは、
洞泉寺じゃなくて永興寺なんだよな。やはり別の僧侶のことかな?
広家が恵雍さんに対して、二宮佐渡守の子供の病気や死亡について気遣う手紙を送っているので、
恵雍さんが二宮佐渡守の縁者かもしれないと強く思っていただけに、追跡調査をしたいところ。

あと、下線部②では、広家の母(元春の妻、熊谷氏)が
吉見家に嫁いだ娘の弔いを依頼しているわけだけれど、
この娘の出生?がなんとなくあやふやなんだよな。私が得ただけの情報では。
「養女」としている文献もあるんだ。
ただ、南条元続に嫁がせた「元春の娘」ってのが確実に養女で、
こちらは今田家の実の娘らしいので、文献上ではそれと混同されているのかも?
これも追跡調査したい案件。

ああ、家中系図を拝見したいなぁ……
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