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2013-04-30

隆房以前の陶家

さてすっかり輝元の命日を忘れていたんですが
輝元が亡くなったのは、寛永2年4月27日ですな。そして葬儀が5月13日。
新暦のときにでも輝ちゃん追悼スペサルでもやるか……

というわけで今回はひっさびさの陰徳記。
どこまで読んだっけ……?
とりあえず陶隆房が大内義隆を滅ぼして、大内家の権力を握ったって流れだったよな。
それで実は主君殺しに至った原因を作ったのが杉重矩の虚言だったとかで、
杉も滅ぼし~の(このへんは史実と大きく隔たりがあるらしい)、
隆房は実名を「晴賢」と改め、また剃髪して「全薑」と名乗った、という感じ。

今回は、隆房の前代の陶家のことと、大友宗麟の弟を大内家当主に迎えたあたりの章を
2章続けてお送りしまうす。


陶兵庫入道、嫡子次郎を殺すこと

陶尾張守入道全薑は主君義隆卿を討ち果たしたことで、神明仏陀の神罰を恐れて当然となった。
さらに「養父の入道道麒が草葉の陰で怒っているだろう」と、
全薑は先々のことが恐ろしくなった。

道麒入道には次郎という一人の子がいて、器量骨柄も世に優れ、実にすばらしい若侍だった。
しかし、ややもすれば自分の才能を鼻にかけ、義隆卿を見かけると、
「隋の煬帝の詩にでも出てきそうな大将だな。
この人は武士が主君と仰ぐべき大将ではない。
出家くずれか流浪の公家のようなことばかりしているではないか」と、
眉をひそめて嘲笑っていた。

父の入道は、「嫡子の次郎は武も文も全備しているし、
そのほかの芸能の道だって、弓馬は達者だし乱舞にも堪能、
詩歌・管弦に至るまで、人間がたしなむべき道では一つとして劣ったものなどない。
このような末法の世には稀有な才能だ。

しかし自身が勇ましく熟慮できるからといって、それを鼻にかけ、
主君の義隆卿を何かにつけて侮っているようだ。
これは非常にまずい。天の呵責を受けることになろう。
『春秋左氏伝』にも、『内では君主の過ちを諫め、外では君主のすばらしさを称揚するものだ』
と書いてあるというのに、次郎の振る舞いときたら、この入道の心にはまったく適わない。
きっと将来は、義隆卿の政道にほんの少しでも私情が入れば、
次郎は大いに恨みを抱いて、いつか復讐しようとするかもしれない。
まったくどうしたものか」と思い悩んでいた。

そんな折、越前から幸若太夫が下向してきたので、義隆卿は非常に喜んでもてなし、
「烏帽子折」を所望した。
太夫が広縁で手拍子を打ちながら舞うと、
聞いていた人々は貴人も賤民も皆感動にたまりかねて涙で袖を濡らした。

陶の入道は自分の宿に帰ると、嫡子の次郎を呼び寄せ、
「おまえはいつも舞を好んで舞っている。幸若の音曲を学んでみるか」と問いかけた。
次郎は、「私が幸若を真似るのは、実にカラスがカラスの真似をするようなものですが、
父の命であれば、似せて舞ってみましょう」と扇を手に取り、手拍子を打って舞った。
次郎の舞は、幸若の舞よりもさらに趣深いものだった。
父の入道も、「わが子ながら、なんと器用なものだろう」と感心したが、
これでさらに主君のことをないがしろに言うようになるだろうと、簡単に想像がついた。

またそのころ、大明国から義隆卿に書簡が届いた。
義隆卿はすぐに香積寺・国清寺などの長老西堂を呼び集め、その書簡を訳させた。
その末座に陶次郎も列席していたので、父の入道は自宅に帰ってから次郎を呼び寄せ、
「おまえは今日の書簡の内容をだいたい覚えているか」と問いかけた。
すると次郎は「末座で一度聞いたところで覚えられるわけがないでしょう。
しかし推量で内容を当ててみましょう」と言って、硯の埃を払うと墨をすり、
筆を墨に染めてサラサラと書き始めた。結果、一字一句の間違いもなかった。
入道が「それを読んでみなさい」と言うと、次郎は立て板に水を流すかのように読み進める。
父の入道は、「次郎は人間ではないのかもしれない。菅原道真の再来なのだろうか」と、
ただ呆然としていた。

その後も入道は注意を払って次郎を観察していたが、次郎の器用才芸にはさらに磨きがかかり、
また義隆卿を軽んじるような考え方もやめなかった。
父の入道は、「次郎は将来、義隆卿を侮って主従の礼を乱し、
大内家の頭痛の種になるかもしれない。
主君の御ためを思えば、わが子など取るに足らない」と考え、ひそかに次郎に毒を飲ませた。
次郎は十五歳になった春のころに、哀れにも亡くなってしまった。

その後陶入道は、問田紀伊守の嫡子を養子として、五郎隆房と名乗らせた。
入道にとっては妹の子に当たるので、養嗣子にむかえたとのことだ。
その入道は十六歳から屋形に近侍し、最後まで他家には見向きもしなかったそうだ。
『礼記』に「人の臣下となっては外に交わることなく、二君に見えることなし」と書かれているのも、
この入道の生涯と同じことである。
道麒入道は、主君に対して二心を抱かなかったために、
可愛がって大事に育てたたった一人の子を殺し、忠節を尽くした。
これは異国にも稀なことだろう。我が国でも聞いたことすらない。

それというのに、当代の隆房は義隆卿に恨みを抱いて反逆を企て、
ついに主君を討ち果たしてしまった。
それどころか、摂政関白殿をはじめとして多くの公卿を討ち、悪逆の限りを尽くした。
そのため神の怒りに触れてたちまち天罰を蒙るばかりか、
亡父の入道の怒りも深く、不孝の罪を免れないだろう。
陶の行く末は恐ろしいことになりそうだと思わない者はいなかった。


左京太夫、山口入りのこと

さて、陶入道全薑は、豊後の大友左衛門入道宗麟の弟である八郎義長(初名晴英)を迎えるため、
陶安房守隆満・杉勘解由判官・飯田石見守(興秀)・陶尾張守の郎党の伊香賀民部少輔を差し下した。
八郎義長は同二月中旬(十一日)に豊後を出た。
供奉の者としては、橋爪美濃守(鑑実)・同小太郎・吉弘右衛門太夫をはじめとして、
五百余騎が付き従ったという。

同三月朔日に周防の多々良浜に着いた。
その昔の琳聖太子の吉例を踏襲して、この場所に二日間逗留し、同三日に山口に入った。
陶入道全薑が執事として国中の政治をつかさどった。
義隆に一味した者たちは所領はすべて没収され、
隆房に同調した者たちへの恩賞として与えられたので、たちまち栄枯があ入れ替わった。

毛利右馬頭元就様にも、今回陶に味方した行動が評価されて、
安芸の国の佐藤郡が、己斐の川を境として与えられた。

こうして備芸石の三ヶ国のつわものたちは、みな義長の手に属した。
義長はやがて八郎という名を改め、左京太夫と名乗るようになった。
両雄相争うのが世の習いだからか、陶と杉・内藤たちの仲は悪くなっていったという。


以上、テキトー訳。

ほうほうほう、これまで陶家って調べたことなかったけど、
軽くウィキペってみたよ。
まず、陶入道道麒とは陶興房のこと、次郎とはその長男の興昌のことかな。
『陰徳記』では隆房が養子だとされているけど、実子(次男)らしいね。
長男の興昌については、父の興房が暗殺した説もあるんだね。
もしやその説の出所はこの陰徳記……?

しかし陶次郎さん、いわゆる神童というやつだったのね。
プロのパフォーマーばりに歌ったり踊ったりする子供や
おそろしく暗記物の得意な子供って、いつの時代もどこかにいたんだねw
その自慢の息子が主君を軽んじるからと手にかけてしまう道麒……
まだ若かったのに、教え諭して導くって方法はなかったんだろうか。
子殺しの話はたまに出てくるけど、切ないね。

そんでもってさくっと国入りしてる大内義長。
義長についてはよく知らんし、取り立てて言うこともないな。
ちゃっかり領土を広げてる元就さんさすが元就さん!

さてお次は、大寧寺のお話っぽいよ!
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