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2013-05-03

尼子と大内の狭間

陰徳記、だいたいの流れ:
大内義隆が陶隆房の謀反によって滅ぼされ、大友宗麟の弟である義長が大内家当主となった。
隆房は入道し、実名を晴賢と改めて全薑と名乗る。
義隆に味方した者たちは滅ぼされ、所領を没収され、陶に一味した者たちは所領を増やした。
しかし義長と陶全薑の大内領支配には問題もあり、杉・内藤らとの軋轢も増えていった。


備後の国、泉合戦のこと(上)

天文二十一年(二十二年)、備後の国の江田にある旗返の城主、
江田の入道(玄蕃助隆連)は、それまで大内家の幕下に属していたが、
たちまち志を翻して尼子(晴久)に一味した。

そうなってしまったのには、次のようなわけがあったという。
山内大和守(少輔四郎隆通)がこう言って江田を誘った。
「あなたが大内家に属しているのは実にまずいと思う。
つらつら大内家の様子を見ていると、滅亡はそう遠くないとわかる。

まず義隆卿だが、太公の言ういわゆる十過、
つまり『貪りて利を好む者あり。仁にして人に忍びざる者あり。
智にして心つたなき者あり。信にして喜んで人を信ずる者あり。
廉潔にして人を愛さぬ者あり。智にして心緩き者あり。
儒にして喜んで人を任ずる者あり』という七つの不善が備わっていたものだから、
結局は家人の陶によって家を滅ぼされ、命を奪われてしまった。

今は縁もゆかりもない大友左衛門督義鎮の弟である義長を大内の当主に据えているが、
これは傀儡師が人形を舞わせているようなもので、
何につけても陶の一存でことが運ばれている。
陶全薑は杉の重矩を断罪して誅してしまったから、この一族は皆きっと陶に恨みを抱き、
『何か事件でも起きないものか。全薑に向かって一矢報いてやろう』と、
時節を待っているはずだ。

内藤(興盛)・豊田といった者たちは、
義隆卿が相良という大奸臣を重用して政道がことごとく狂っていたために、
一旦は陶に味方したのだ。
陶が不善を改めて内藤・豊田らに礼を尽くし朋友の交わりを深めるならまだしも、
そうしないばかりか、陶はまったく鼻持ちならない驕慢な古入道だ。
義隆を討ち果たした後は、自分こそが防長豊筑の大将であるとばかりにますます驕り高ぶり、大
内家の諸士を皆自分の家之子郎党のように扱っている。
内藤・豊田といった人々も、『これでは義隆のときよりひどい』と、後悔しきりだという。

陶は弓矢を取らせれば豪胆そのもので、大将の器に適しているように見えるが、
これもまた『勇にして死を軽んずる者あり。急にして心の速やかなる者あり。
貪りて利を好む者あり。剛毅にして自ら用いる者あり』といった不善に他ならない。
いずれは尼子によって滅ぼされるか、
そうでなければ防長豊筑備芸石の味方たちがバラバラになって陶に背き、
同士討ちが始まって滅亡することになるだろう。
そうなればその隙に乗じて尼子が備芸石をたちまち手に入れることになるだろう。
たとえ六尺の棒で大地を叩こうとして失敗することがあったとしても、
このことに関しては、私の予言が外れることはないと思う。

陶が滅びた後に大内の領分を切り従えることができる大将は、
毛利元就か吉見正頼の二人のうちのどちらかだ。
元就には国人たちが多く付き従っている。
なかでも熊谷・天野という将兵の器を兼ね備えた者が一味しているから、
羽翼もすでに整っている。だから今後は毛利家の武威はますます大きくなるだろう。
そのうえ隆元・元春・隆景の三人の子供は、いずれも劣らぬ大将だ。
たとえ元就がいなくなっても、百年後まで毛利家の弓精はいや増すはずだ。

尼子晴久の家老たちは、主人に『元就と和睦してください』と諫言をしている。
晴久の祖父の経久は大内義興と何年も敵対していたが、
元就が尼子家に一味していた間は、大内義興が名将であったにも関わらず、
芸陽では大内が何度も戦利を失っている。
その子の義隆は父に比べようがないほど出来が悪かったというのに、
今は元就が一味しているから、安芸一国は残らず大内家に従っている。

とにかく、大内・尼子の国争いは、元就が味方した方が勝利しているわけだ。
だから『晴久も先非を悔いて元就と和睦してください』と、
牛尾遠江守たちが再三意見をしているのだ。
晴久も、『元就が味方に与するなら、備後一国は元就の切り取り放題だ』と仰ったそうだ。
おそらく右馬頭(元就)も、大内家の武運を見限っているだろうから、
尼子に属すことになるだろう。

あなたも尼子に従うべきだ。
しかし大内家の勢いが尽きてからでは、降参したのと同じになってしまう。
大内家の武威がまだ盛んなうちに尼子に一味しておけば、
尼子への志が深いと表明できて、あなたのためになるだろう」

山内がこう言ったので、江田はその道理に屈服してすぐに尼子に属し、
大内への手切れとして、大内領の在所へと攻撃を加え、
民家に放火したり一揆勢を薙ぎ捨てたりした。

元就様はこのことを山口に注進すると、自ら四千余騎を率いて備後の国へと向かった(四月五日)。
江田はどうにもかないようがないと思い、すぐに尼子へと早馬を遣わして急を告げた。
晴久は「元就が小勢で備後へ打って出てきたとは、願ってもない幸運だ。
急ぎ後詰をしてあっという間に打ち滅ぼし、
その勢いに乗ったまま芸陽一国を切り従えて、周防へと攻め入ろう」と、
出雲・伯耆・石見・美作の勢を集めた。
そして総勢二万余騎で出雲を打ち立った(四月)。

備後の涌(湯)木の城には、大内家から主力の兵が十三人差し籠められていたが、
涌木(喜)の何某がすぐに心変わりして尼子に一味し、
その十三人をすべて討ち果たしてしまった。
元就様は「まずは涌木を攻め滅ぼそう」と、五月二十日にその表へとやってきた。
そこに尼子晴久が二万余騎で着陣し、涌木が味方に与したことに力を得て
、尼子紀伊守国久・嫡子の式部大(少)輔誠久・次男の左衛門太夫(敬久)を大将として、
牛尾遠江守(幸清)・宇山飛騨守(久兼)・米原左馬允・桜井刑部少輔・
広田隠岐守・疋田左衛門尉など五千余騎が荻の瀬表へと打って出て、
晴久の本陣に五十余町ほど先立った。

国久は、芸陽勢が橋を前にして備えていると見ると、軍を三つに分けた。
先陣は尼子式部少輔・宇山飛騨守・米原左馬允・疋田左衛門尉をはじめとした二千余騎である。
二陣は尼子左衛門太夫・牛尾遠江守・桜井刑部少輔の一千余騎、
その後に尼子紀伊守が二千余騎で控えた。
「一陣・二陣で元就父子と渡り合って攻め戦えば、
勝っても負けても敵の備えは乱れるだろう。
そのとき国久が旗本を率いて無二に攻めかかり、敵の将を討ち取ってやろう」
という計画が立てられた。

芸陽勢も、先陣は吉川治部少輔元春を大将として、
それに従う国人衆は、熊谷伊豆守信直・香川左衛門光景・飯田七郎右衛門尉・
山田左衛門太夫・福島三郎左衛門尉・遠藤左京亮など二千余騎が、
荻の瀬の橋を前に備えていた。
元就様・隆元様は、こちらも二千余騎で少し後ろの小高い場所に控えている。
泉の入道父子は、「私はこの土地に詳しいので、
先陣に馳せ加わって一合戦して参ります」と元就様にことわってから、元春の手についた。

はじめは互いに弓衆を出して橋の両方のたもとに詰め寄り、矢戦をしながら時間が過ぎていった。
「荻の瀬の表で合戦が始まりました」と晴久の本陣に注進が届くと、
晴久はすぐに川添(副)美作守(久盛)・立原備前守(幸隆)・伊藤入道・
三沢三郎左衛門・松田勘解由・目黒佐渡守など三千余騎を、
「新宮党に合力せよ」と差し向けた。
晴久自身も、「先陣の合戦の様子によっては本陣を率いて一合戦しよう」と考え、
二十余町ほど進んだ。

国久父子は、「合戦が始まれば、きっと晴久が駆けつけてくださるだろう。
まだ味方が続いてこないうちに一戦して敵を押し破り、
私一人の高名にしてしまおう」と考えて、すぐに橋の上に進んできた。
元春も、「晴久の大軍が後から続いてきたら一大事だ。
その前に急いで切り崩さなければ」と考えて、一気に敵を挫こうと、
一際進んで渡り合い、わき目も振らずに攻め戦った。

出雲勢の大将は、そのころ鬼神のように世間から恐れられていた国久父子である。
芸陽勢の大将は、大強将の名を得た元春である。
元春は当年二十二歳の若大将なので、その勇気は金輪の高山を照らすほどであった。
そのうえ新宮党の人々とは、今日が始めての大合戦となるので、
自分の手並みを見せつけようと、日頃にも増して豪胆さをふるった。

そうしているうちに、橋の上の戦は火花が散るほどになったが、
最近の五月雨で川は水かさを増し、流れが逆巻いて川岸を覆っていたので、
どこから渡れるのかわからなくなっていた。
尼子勢の方が多勢であったが、川を渡ることもできなかったので、
ただ橋の一本道を競り越そうと、揉みに揉んで攻め戦った。

出雲勢のなかで米原左馬允が名乗りを上げ、
三度の合戦では毎度真っ先に進んで向かう敵を多く突き伏せ、命を限りに攻め戦った。
その様子は、伝え聞く治承の昔、源三位入道(頼政)の郎党、
渡辺省・授・続の源太が宇治橋の上で勇猛に戦ったという話を思い起こさせ、
敵も味方もこれを見て皆感心した。

両陣の兵たちは橋を狭く感じたものの、ほかに通れる場所もなく、
肩をぶつけ鉾を並べ、叫びながら攻め戦っていた。
その声や音は、幾百幾千の雷が天地を揺るがすかのようであった。
元春が「いつまでも勝負を決さないままではいられない。いざ目にもの見せてやる」と、
自ら鑓を提げて橋を渡ろうとすると、新庄勢は言うに及ばず、
熊谷・香川・飯田・山田・福島・遠藤も無二にかかって敵を押し崩した。
出雲勢は突き立てられて少し引く。
米原左馬允が「なぜ下がってくるのだ。進めや者ども」と叫んで真っ先に進み、
ここが最後だという気合を見せる。
すると芸陽勢が少し怯んだので、米原は勝ち乗ってこのまま橋を競り越そうと、身を躍らせて進んだ。

備後の住人に、佐久木新右衛門という者がいた。
名高い弓の名手であったが、橋が非常に狭くて渡りようがなかったので、
川下の方へ回り、敵に矢を射掛けていた。
米原が一人で真っ先に進むのを見て、佐久木はよく引いて矢を放った。
その矢は米原の脇から肩まで貫通した。
さすがにハンカイのように勇猛な米原も、あまりの深手にたまらず鑓をカラリと投げ捨て、
橋から真っ逆さまに川の中へと落ちてしまった。
佐久木は「やったぞ」と弓を投げ捨てて走りかかり、米原の首を掻き切った。

芸陽勢はこれに力を得て、槍長刀の先を揃え、一度にドッと突きかかった。
出雲勢はたちまち橋を追い抜かれ、群れになってさっと引いた。
式部少輔は名高い力持ちの勇将だったので、
「これはどうしたことだ。敵は小勢だというのに、こうも易々と突き立てられるとは口惜しい。
引き返せ、宇山。戻れ、疋田」と下知をして、自らも馬を引き返し、鑓を入れて散々に戦った。
しかし浮き足立った軍勢の耳に下知は届かず、皆逃げていく。
式部はわずかな勢では勝ち目もないので、二、三町ほど引き退いた。


以上、テキトー訳。つづく。

( ゚∀゚)o彡°かっせん!かっせん!
若元春が非常にヤル気な( ゚∀゚)o彡°かっせん!かっせん!
イィィヤッフーーー!!!
取り乱しましたが、やはり合戦描写は楽しいね!
血気盛んな若元春……燃える。
最近、元春には中間管理職的ストレスフルなお父さんリーマンのイメージが定着していたので(私の中で)、
なんだか心が洗われたような気分です(*´∇`*)

すっかり元春に心奪われているけど、今回の話で注目すべきは、山名と江田のやりとりだな。
どちらにつくかを見極めるのって大変だよね。
「大内家が傾いてから尼子に属しても手遅れだよ!
今のうちに尼子についたほうがおトクだよ!」ってな考え方は、よく現実を見てるよなぁ。

そんでもって元就が相変わらず爆ageされているわけだけどもw
元就が加担した方が勝つ、って、すげえなwww
あと、吉見と毛利がだいたい同格、みたいな捉え方がなかなか興味深い。
もう一つ、毛利の傘下の国人で、最有力が熊谷・天野というあたりも……
実際どうだったのかは、勉強不足なのでよくわかんないけども。

さてさて、次回も続きを読みますが、せっかくのお休みなので、書状なんかもゆっくり読みたいねぇ。
ホント、3年くらい仕事行かないで軍記や書状に埋没したい!
はっ、これが五月病か!←違う。
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