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2013-05-05

もののふの死化粧

昨日は書状類を読んでいるところに知人から呼び出しがあって
会って飲んでいるうちに遅くなって撃沈、という体たらくでしたw
自堕落な連休ライフ満喫してるなぁ。

さてさて陰徳記、前回のあらすじ:
すっかり陶全薑(晴賢)の一存でことが運ぶようになった大内家。
備後では江田隆連が大内から離反し、尼子に属した。
元就はそれを陶に注進すると、自ら兵を率いて江田討伐に向かう。
その途中、大内方の兵を籠めていた湯木の城では涌喜が離反して目付け役を殺してしまう。
元就は、まずはこちらを攻めるべく、荻の瀬へ向かったところで、川を挟んで尼子軍と対峙する。
吉川衆、熊谷などが先陣となって橋の上で攻め戦い、敵将の一人を仕留めることができた。


備後の国、泉合戦のこと(下)

芸陽勢が勝ちに乗って追いかけようとすると、元春は
「敵は多勢だ。味方が狭い橋を追い越して、また引いてくるのは難しい。
早く引いてこい」と下知をした。
熊谷の衆が一番に兵を治めたので、皆また橋の前に弓衆を前に出し、備えを固めて控えていた。

二陣の尼子金吾(敬久)は、敵が勝ち誇って備えが乱れた隙を討とうと、
逃げてくる味方を押しのけながらかかっていこうとしたが、
道が混雑して急には進めないので、そばの畑のなかの畦に一旦退避した。
その隙に、芸陽勢はさっと引いて弓備えを立ち設けている。
金吾は大声を張って、「敵は最初の合戦で痛手を受けている。
もう力は残っていないはずだ。息も継がせず攻め戦えば、味方の勝利は間違いないぞ。
進めや者ども」と下知をして、橋の上に一度にドッと攻めかかった。

元春はかねてから金吾が無二にかかってくると考えていたので、
それを見て「今度は敵が橋を渡ってくるその途中を襲撃して勝利を得てやろう」と思っていた。
それで「敵に橋を越えさせろ」と下知をした。
あえて妨げなかったので、敵は易々と橋の上を進む。
けれども出雲勢は、敵が鏃をそろえて待ちかけているのを見て、
橋を渡りきらずにためらっていた。
そこに後ろから、金吾が「進めや者ども」と大音声を上げて下知をするので、
兵たちは橋を越えて進んだ。

元春は敵勢が半分ほど渡ってきたと見るや、
「者ども、かかれ」と采配を振るい身を翻して下知をした。
新庄勢は国人たちに先を越されまいと勇んだ。
熊谷・香川といった人々は元春の旗本の者たちを追い越そうと進んでいったので、
負けじ劣らじとかかっていくと、出雲勢はたちまち一戦のうちに利を失い、
また橋から引き返そうと、ほうほうの体で逃げ帰っていった。

金吾が橋を渡りきらないうちに、先陣の兵たちが早々と逃げ帰ってきたので、
「いったいどういうことだ」と怒ったけれども、
浮き足立った勢をまた立て直すことはできなかった。

芸洲勢は、「敵の後陣に国久が二千ほどで続いてきたならば、
今度は橋の果てまで追いかけていって一人たりと向こうの地へは渡しはしない」と、
またもとの配置に戻って敵襲に備えた。
国久は馬を早めて駆けつけてくると、初手の勢と入れ替わろうとしたけれども、
敵が早々に引いてしまったので、仕方なく怒りをこらえてしばらく敵陣を睨んで歯軋りをしていた。

後日、吏部(誠久)が金吾に向かってこう言ったそうだ。
「元春はまだ二十歳ほどの若大将だ。
剛強さばかりが先走ってきっと大いに勇み誇り、戦を第一に、
謀を二の次に考えているだろうから、欺きやすいと思っていた。
しかし今日の合戦の駆け引きは、備えの立て方といい、古今無双の弓取りである。
おまえたちもよく見ておけ。敵であっても、元春のやり方を学ぶといい。
なんという勇略全備の勇将だろう。
元就は子供までもよく生み育てた、果報めでたい大将だ。
武威が末代まで衰えずに盛んであるのは、弓取りが願ってやまない武運である。

大内の義興は、当人一代の間は武運も古今に傑出し、
義稙公を天下の武将に祭り上げて、自身は七ヶ国の太守となりながら、
九州をもその手に属させた。
だから今の元就よりも武名の誉れは世に名高いというものの、
子の義隆は武もできず、文も中途半端だった。
これを思えば、元就は弓取りとして義興にも勝る武運の持ち主だ。
弓取りとして子を持つならば、元就にあやかりたいと思うほどだ」と言ったという。

これは、魏の曹操が赤壁の戦いで呉の孫権が周瑜によって破られ、
その後兵を加えてもうまくいかずに、溜息をついて
「子を生むならば孫仲謀のような者がいい。
向こうの劉景升の子供たちは、豚や犬のような者しかいない」と言ったというのも、
まさにこのようなことかと思い知られる。

晴久は先陣の戦で味方が利を失ったと聞くと、急いで本陣を寄せたので、
国久を先陣として、橋を隔てて矢戦があった。
「吉川勢は朝からの戦で疲れているだろうから、少し息を整えよ」ということで、
元就様・隆元様が二千余騎で入れ替わりながら足軽競り合いをする。
晴久は二万の勢を川越えさせることができないので、
川岸に立って遠くから矢を射掛けることしかできない。

吏部・金吾は、今朝の合戦で利を失ったので、川を渡って一戦しようと進んだけれども、
亀井・牛尾たちは「川の水が非常に増しております。
渡ろうとしても大勢溺死するでしょう。それに、今日はもう夕暮れが迫っています。
決戦は明日ということにして、今夜のうちに手勢を分け、
川の上下に渡れる場所がないわけがないので、この土地に詳しい者を先に立て、
一隊を夜のうちに向こう岸に渡しましょう。
明日、両方から敵陣を挟み撃ちにすれば、勝利は疑いありません。
どうかこれからの川渡りはおやめください」と制した。

こうして日もすでに傾いていたので、敵味方ともに勢を引き上げた。
尼子勢は二日のうちに川の上下一、二里のところから勢を渡し、
三方から攻め戦おうと決議したが、
その夜からまた大雨が強く降って水かさがさらに増したので、
晴久は仕方なく釜棟に陣を据えた。
元就様父子三人は四千余騎で志和地に対陣した。

こうしてその日の戦が終わり、今日討ち取った首などを実検した。
首は六つあったが、そのなかに佐久木新右衛門が米原の首を提げて元就様の前に駆けつけてきて、
実検に備えていた。
米原は鉄漿を真っ黒につけており、乱れた髪に焚き染めた香がほのかに匂ってきた。
元就様は、「なんという剛の者だろう。
今日討ち死にすると思い定めていたのだろう。
勇に優れているばかりか、心も優美なつわものだ」と言って感涙に咽んだ。
御前に居並んだ侍たちも皆鎧の袖を湿らせた。
昔の斉藤実盛は、髪を墨で染めて名を北国の故郷までとどろかせ、
今の米原は髪に香を焚き染めて勇を備陽の戦場に刻み付けた。
感心しない者はいなかった。

さて、五月雨は絶え間なく降り続け、川の近くの村々の民家はすべて水底に沈んでしまった。
庭の木々も波間に沈み、魚が梢に遊んでいるような状況では、合戦などできるわけがない。
互いに水が引くのを待っていた。
そこに、備後の国人たちが元就様にこう諫言した。
「味方のわずかの勢で、晴久の二万以上の大軍と対陣なさるのは非常に危険です。
そのうえ新宮党は先日の合戦に打ち負けているのですから、
この陣を枕として討ち死にする覚悟で、会稽の恥を雪ごうと歯噛みをしていると聞いています。
あの父子三人の勢は、三千以上いるのは確実です。
三千人が決死の覚悟を決めて攻め戦えば、どんな強敵堅陣であっても、破れないことなどありません。

それどころか、晴久が二万の勢で前後左右からかかってきたなら、
敵勢の一陣や二陣は切り崩せたとしても、最終的には味方が負けてしまうでしょう。
かかるべきときにはかかり、引くべきときには引いてこそ、
敵に応じて変化する兵法ではないですか。
荻の瀬合戦では二度も味方が勝利を得ました。
これで面目は保てますから、この陣はお引き払いください。

昔の楠正成も、天王寺に出張して京勢を二度まで追い崩したとき、
宇都宮が五百余騎で向かってくると聞くと、正成は三千の勢で天王寺を退却しました。
そして再び大勢を率いて山々や峰々に篝火を焚き、少しずつ攻め寄せたのです。
宇都宮もまた、前回正成を退却させたことで面目を保ち、都に引き返しました。
このような例もあるのですから、今回は退却なさって大内勢の到着を待ち、
再び大軍を率いて打って出てください」

元就様はこれを聞いて、「皆の仰せはもっともだ。
しかしながら、先にも申したように、敵が大勢だからといって見逃すことはできない。
晴久の二万騎を我が四千騎で防戦して、たとえ利を失ったとしても、
毛利家の武名の傷にはならない。
また、もし打ち勝つことができたなら、我が武名は天下に輝くだろう。
この陣は地形も険難で、敵が数万でかかってきたとしても、
たやすく攻め崩されるようなことはない。
他の人々は好きにすればいい。この元就だけは、ここで引くなど思いも寄らない」と言った。

また元就様はこう言った。
「晴久は味方が大軍であると慢心し、敵がかかってくるとは想像もせずに油断しているだろう。
ここで夜討ちをしかけて切り崩そう」と、宍戸・天野・熊谷などの人々と決議した。
同六月一日の夜、忍びに慣れた兵たちを敵陣に遣わし、陣取りの詳細をよく下見させた。
同五日(三日)の晩に切りかかろうと決定したが、
尼子はどんな深慮があったのか同五日(三日)の辰の刻、釜棟を引き払って山内へと出た。
そこから毎日足軽を出しては、在所在所で野伏戦をした。

同七日、陶の入道からの飛脚が到着し、
「近日中にそちらの境まで出張するので、粘り強く対陣してほしい」と言い送ってきた。
これで芸陽勢は力を得て、一方ならず勇み猛った。
こうなると、芸陽にいた大内勢が思い思いに馳せ加わり、六千余騎ほどになった。


以上、テキトー訳。おしまい。

うむうむ、やっぱり合戦は読んでて楽しいな(*´∇`*)
計略の応酬とか攻防がドキドキするよね。
私の苦手な故事や仏教説話もそんなにたくさん出てこないし……w

そんでもってまた元春爆ageだよ!
そうだよ、元春はカッコイイんだよ!
ただの脳筋や疲れた中間管理職とはわけが違うのだよフハハハハハ!!!
ホント吉川家にご奉公したいわぁ(*´∇`*)

あと尼子晴久や新宮党、手ごわくてかっこいいね!
米原さんもステキじゃない。鉄漿つけて髪に香を焚き染めて戦場に出てくるとか。
もし首を取られても見苦しくないように、ってことだよね。
自分で死化粧したってことか。
こんなところで意地を張る……それがもののふなのか。
そういえば経家も、鳥取城に入るとき、自分の首桶持参したっていうしな。
切腹の前には行水をして、お気に入りの服でその場に臨んだんだよな。
……せつない(´;ω;`)

さてお次、もしかしたら書状類に浮気するかもしれませんというかすでにしている。
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