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2013-05-06

元就が平賀に激おこぷんぷん丸

タイトルは一度言ってみたかっただけです。
すっきりした(*´∇`*)

陰徳記、だいたいの流れ:
大内家ではクーデターを起こした陶入道全薑(晴賢)の新政権が確立されたが、
備後の国では江田隆連が大内家から離反し、尼子へと属した。
元就はこれを討伐するために隆元・元春らと備後へと向かい、
加勢に駆けつけてきた尼子勢と荻瀬橋で戦って敵を後退させる。
尼子勢への夜討ちの案も出たものの、折からの露の大雨で断念し、
大内からの加勢である陶全薑の軍勢の到着を待っていた。


毛利・平賀座敷論のこと、並びに祝城没落のこと

尼子修理大夫晴久が数万騎を率いて備後の国に打って出てきたとの報告があると、
大内左京大夫義長から元就への加勢として、陶尾張守入道全薑が差し向けられ、
同(天文二十二年六月)十日に旗返表へと到着した。
こうしたところに、旗返の城を切り崩すための会議が開かれ、諸将は皆陶の陣に駆けつけた。

ここで、毛利と平賀の間で、座敷の上下について論争が起こった。
その成り行きを聞いてみると、このようなものだったという。

元就様は、「合戦評定のときに、陶の入道の左の席は元就でなければならぬ。
すでに備芸の半分以上を幕下に収め、そのうえ一昨年の上洛のときには、
万松院義晴公のご推挙をもって従四位に叙せられている。
それに、義晴公にご相伴まで許されているのだ。
だから、国の中には自分に肩を並べる弓取りはいない。
誰が自分より上座に座ることができるというのか」と思っていた。

平賀太郎左衛門は、「元就がどんなに武威が盛んで、
当国の半ば過ぎを手中にしているといっても、
昔から宍戸・平賀・毛利といい続けてきたものだ。
昔から決まっている座配なのだから、正四位であろうと従四位であろうと関係ない。
陶入道の左の席には、この隆宗こそが着くべきだ」と言い返した。

陶の入道も、「この問題をどうしたものか。こ
れはもしかすると味方が分裂する事態に発展するぞ」と思い、
「私の判断ではどうすることもできない。ただ神のご存念にお任せしよう」ということにした。
元就・隆宗の二人も、「ともかくこれ以上話し合うことではない」と考え、
近くの八幡の神前で占いを行って、「左の座は元就」と神託が下った。
それでも一同は納得せずに、十五日は元就、十六日は隆宗というように、
順番に左座に着席して会議を行った。

こうしたところに、陶の入道の老母が危篤だという知らせが舞い込んできたので、
陶入道は取るものもとりあえず山口へと戻っていってしまった。
代わりとして、義長からない当下野守興盛、陶からは江良丹後守(房栄)に六千余騎を差し添えて、
備後へと軍勢が送られてきた。

さて、江田の端城の祝(高杉)の城を切り崩すため、元就様父子三人を大将として、
宍戸・平賀(広相)・熊谷・天野・三須・香川・遠藤・入江・山田・飯田など六千余騎が、
七月二十三日に、一気に攻め破ろうと、鬨の声を上げて攻め上がった。
城の尾首は吉川衆、左は吉田衆、右は平賀・宍戸(隆家)・熊谷・天野などが一勢ずつ攻め口に進んだ。

城中には、祝甲斐守・同治部大輔をはじめとして、主力の兵二百余騎、
また久代修理亮からの加勢の百騎、そのほか雑兵など七百五十人が立て籠もっていたが、
矢間を開けて散々に射掛けてくる。
寄せ手は三重の空堀を越え、一気にドッと塀に突きかかっていく。
城中の兵たちは鑓・長刀でそれを突き落とし、切り落としてきたので、
勇んでいた寄せ手もたまらずに、堀際へとさっと引き退いた。

元春様は後ろから藤の丸に三引両の旗を押し立て、「かかれ、かかれ」と下知をする。
諸卒がまた塀に取り付くと、城中がまた射立て突き立ててくるので、
寄せ手はまたもや元のところまで引いた。

こうしたところに粟屋弥七郎(就俊)ただ一人が一歩も引かず、
「この城の一番乗りは粟屋弥七郎だ」と名乗りを上げ、
塀のそばに生えている榎の木にしがみついて、「エイヤッ」と声をかけて塀を乗り越えようとした。
そこに敵が鑓を構えて、粟屋の体の真ん中をズンと突き貫いた。
さしもの鬼神のような粟屋も、真っ逆さまに落ちて死んでしまった。

元就様・隆元様・元春の父子三人が堀を越え、塀に近づいたらすぐに乗り越えようとするのを見て、
諸卒は一気に塀や格子を切り破り、城中へなだれ込もうとした。
城中はまた射立て突き落とそうとしたが、寄せ手が少しも怯まずに乗り越えてくるので、
城中の兵たちは塀の裏からさっと引いた。

右の方をキッと見ると、平賀太郎左衛門隆宗(広相)の鎧は篭手や脛当てまで金でできていたので、
まるで仏像のように見えた。
平賀勢は五百余人が真っ先に進み、青竹に鹿の角を結いつけたものを五十人ほどに持たせて、
到達すると同時に一気に「エイヤッ」と塀を引き崩し、足をとどめることなく乗り入っていった。
「鬼平賀」と呼ばれるのもまさに道理だと思うほどに、猛々しいやり方であった。

祝は甲の城に引き籠り、攻め込めば切り出し、切り出せば押し込み、
四度か五度までは防ぎ戦ったが、多勢に無勢でどうにもかなわず、
甲の城戸までも破られてしまった。
吉川勢は一番に甲の丸に乗り入ると、祝甲斐守・同治部大輔・同長戸守を討ち取り、
元春の手柄とした。

これを見て雑兵たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出そうとしたが、
あちこちで追い詰めて討ち取ったので、首の数は多く、逃げおおせた者は少なかった。
その日の首級六百のうち百七が吉田勢、百十一が元春様、八十が平賀、七十五が熊谷、
六十三が宍戸、七十一が天野、六十九が香川・飯田・山県などの佐東郡の者たちが討ち取ったものだった。

諸軍勢は勝ち鬨を上げて本陣へ引き返すと、
その日の夜の亥の刻に城に火をかけ、山の中へと引き退いた。
内藤・江良は備後の国人に手勢を加えた一万余騎で、
尼子勢への押さえとして送られてきていたというのに、
祝の城へ馳せ向かわなかったので何一つ手柄を立てることができなかった。
それが山口に報告されるとまずいと思ったのか、
味方の三吉の者たちをそ知らぬ顔で取り囲み、「敵だ」といって討ち取ると、
山口へは「尼子勢を討ち取った」と注進した。

こうして元就様と内藤・江良の勢合わせて一万六千余騎は、
伊山に陣を構え、同年の十一月まで対陣していた。
江田は堪りかねて、同十三日に旗返の城を空け、山内へと退却していった。
旗返の城には、すぐに江良丹後守が入った。

晴久は江田が城を去ったので仕方なく山内を引き払い、出雲へと兵を引き上げていった。
元就様も吉田へと帰陣した。
内藤興盛も吉田へ寄るとしばらく逗留し、同十二月初旬に山口へと下っていった。


以上、テキトー訳。

上座・下座で難癖をつける元就……これは新鮮だわ(*´∇`*)
いやまあ、武士は面目が命ですからね。怒って当然ですよね。
器ちっちぇえとか全然思ってナイデスヨ?
陶さんが困って神様に丸投げするのもナイス!
正直どうでもいい問題に関して、くじ引きって素晴らしい解決手段だよな。
考えようによっては、元就と平賀に隣の席を争われるマドンナ陶さん(ただし剃髪済み)。
これはこれでおいしいですmgmg
でも、順番に座ることでOKなら、最初からそうしてれば……イエナンデモナイデス

合戦シーンはホント好きだ。
元春が下り藤三引両の旗だったり、平賀さんの必殺☆塀はがしがかっこよかったり。
まるで仏像のような平賀広相……ゴールドクロスかよ。
毛利の装備は古くさそうだからなw 目に付いたんだろうなwww

ところで江良・内藤の三吉への所業は、あのまんまでいいんですか!
なんかとってもひどいことしてるけど、完全スルーじゃない???
元就の側室の一人って、三吉氏じゃなかったっけ。
元秋やら元康の母親が……ここの三吉さんじゃないのかな?
とりあえず、帰り際にちゃっかり吉田に寄って、
娘さんと久々の対面を楽しんだであろう興盛、よかったね!

さて、お次は備中の話題です。
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