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2013-05-07

元和三年、人質改め騒動①

ちょっとこいつは追いかけだすと長くなりそうな問題なんですが、
長い休みを利用してどっぷり読んだのがコレだったので……
って、もっと他にさ、前から追いたかった書状があるじゃない!
なぜいつもそれを探そうとして脱線して別のところに興味が向くのか。
私の習性なのか。それとも神のお導きなのか……おそらく前者。

てなわけで、吉川家の江戸証人問題に関する書状を読んだよ!
権現様が元和二年に亡くなって、
翌元和三年の秀忠の上洛にあわせて諸将も京都に集結したときに
吉川の人質関連で持ち上がった問題があったようだ。
このときは、秀就はもちろんのこと、
なんと吉川広正も、「病気の宗瑞(輝元)の名代」として上洛した。
輝元の娘婿だからね!
 〔追記:広正が遣わされたのは、秀忠在洛中、毛利家からの二度目の挨拶とき〕

まず一通目、萩の秀就から井上元応を使者として、次のような要求が広家に突きつけられた。


●井原元応口上覚案(吉川家文書1316)

   井掃部(井上元応)口上

一、証人のことは、お知り合いから御意見があり、殿様が仰せ出されたとのこと。
一、公儀から仰せ出されてからでは遅いので、前もって進上するようにとのこと。


関ヶ原後、吉川家からの江戸証人は、広家の実子ではなく、
それまでは家臣の子弟を人質として置いていたわけなんだけれども、
秀忠上洛のタイミングで証人改めがあり、毛利家としても一門の人質を確認した。
そこで「吉川家からは当主の近縁の人質が出ていない」ってことが再確認されたわけだ。
で、秀就は知り合いから「この件で幕府から文句がついたらヤバイんじゃないですか?」
と言われて、慌てふためいてしまった。
それで秀就は吉川家に対して、幕府から「ちゃんとした人質を出せ」と言われたり、
もしくはあらぬ疑いをかけられる前に、
こちらから当主近縁の人質を出したいと言ってきた、というところ。

これに関する広家の請書の写しが次↓



●吉川広家請書案(吉川家文書1315)

御書、謹んで頂戴いたしました。
証人のことについて仰せ下された件は、ご口上の通りに承知いたしました。
左介(吉川広正)に申し聞いて、追って言上いたします。
このことを殿様(秀就)へご披露くださいますよう。恐々謹言

     (元和三年)十月三日
          井掃部(井原元応)・祖三左(祖式元信) 両人御使


広家は秀就の要求を承知したが、応じるかどうかについては、
現当主である広正の決定を待ってから、最終的な返事をします、ということ。
広正はそのとき萩にいたようで、
広家から広正に、この件について「申し聞」いている書状が、次↓


―――――――――――――――――――〔追記 ここから〕―――――――――――――――――――

●吉川広家自筆書状(吉川家文書1311)

備前(宍戸元続)がお越しになって承ったとおり、聞き届けた。

一、使者の方々への返事は、今日申し上げた。

一、この件について私が考えていることを、この三人(広家から広正への使者)に
  くわしく申し聞かせておまえに遣わせる。

一、前々からのことを考え合わせてみると、おまえも私も進退がかかった一大事の問題だと思う。
  人々に手を回さないまま、何もせずにうかうかとしていれば、
  実に大変なことになるので、そう考えて気を引き締めてもらいたい。

一、私の内意は、覚書のほかにもあって、この三人に申し聞かせてある。
  おおまかなことは内覚に書いたので、ここでは申すに及ばない。
  恐々謹言

     (元和三年)十月三日         蔵人 広家
          左介殿(広正)御返事

―――――――――――――――――――〔追記 ここまで〕―――――――――――――――――――

●吉川広家覚書(吉川家文書1317)

   「内覚」

一、江戸の証人のことについて、仰せ出されたとおり、備前守(宍戸元続)の口上を聞いた。

一、おまえが上洛したときに、このお尋ねもあるかと思って、
  証人のことについて、両御所様(家康・秀忠)のご所存を、
  先年越後殿(福原広俊)が話したとおりに、おまえにも伝えてある。

一、今回は公儀からの命令ではないようだ。
  江戸で、御奉行衆ならびに人質改めの衆が話をしていたのを殿様(秀就)がお聞きになり、
  公儀を大事に思し召されて、仰せ出されたそうである。
  それ以前は、両御所様のかたじけなき御意にて、
  実子を差し出さずに済み、そのまま今まできていたのだが、
  今さらこちらから証人のことなど持ち出してしまっては、
  殿様の御ためにも、おまえや私にとっても、近年では外聞も悪くなる上に、
  公儀に協力していない態度になってしまう。

一、証人のことは、上様も奉行衆も、
  先年両御所様が免除してくださったことを忘却されていなければ、
  新たに人質を出すようにとは仰せになるはずがない。

一、もしかしたらこのことを、他に問題が多くて失念されていて、
  重ねて仰せ出されているのかもしれない。
  これまでは萩(毛利家)からはその沙汰もなく、
  公儀のお定めを私に仰せ聞かされているのであれば、
  そのときは先年越後殿が免除を取り付けてくれたことを申し上げると、
  萩への返事にも申してある。

一、これは推測だが、上様がご上洛されたときに、
  人質改めの衆がよくわかっておらずに申し出されたことを甲州(毛利秀元)が耳に入れ、
  両殿様へ申し上げたのではないかと思う。

一、このとおりなので、まさか萩(秀就)が仰せ出されたことではないだろう。

一、たとえば、もし実子を人質に出すことになったなら、
  その証人の手当ても物入りだし、限りがないように思う。
  公儀のお役目やまかないもあり、かれこれと外聞も失うことになろう。
  今年の検分ですらようやくまかなったのだ。
  家中の少々の費用だけでもこの状況で、さらに今年は
  お役目や公儀の普請がまったくなくてもこのとおりだ。
  そのうえ家中も前とは違ってきていて、これからますます困窮に及んで、
  役儀に関わろうとする者がいなくなってしまうだろう。こういうわけで、よく考えてほしい。

   以上

ここまでは、今度の証人のことについて私が思ったことを述べた。
またおまえや私の身上のことについて、つれづれと考えていたことを書き記す。

一、甲州とおまえの間柄について、これからは十分用心しなさい。
  油断をしていたらいずれ大変なことになると思う。

一、江戸の公儀のことは、越後殿・児豊(児玉景唯)が在番しておらず、
  今となっては甲州一人が諸事を取り仕切っている。
  公儀・内儀ともに、彼の思う通りにことが運んでいる。
  近年では彼の公の交際範囲が広くなって、出費がかさんでいるようだ。
  おまえのことを、「国もとで殿様の御城下にいるわけだから、
  気遣いも費用も必要なく、ずいぶん楽な身の上だ」と言っているそうだ。
  今は殿様の縁者となったのだから、甲州に限らず、人々はあれこれと嫉み、悪口を言うことだろう。
  このことは内々よく心得ておくように。

一、若殿様と甲州はいつも江戸にいる。
  おまえの所領のことも、甲州にとっては過分の知行に思えるだろう。
  だから、国もとにばかりいて江戸から遠ざかってしまっては外聞も悪い。
  人々の評価を油断なく気にすること。

一、おまえは今度、ご父子様(輝元・秀就)にこのお話をお受けすると、
  私が申したとおりに申し上げなさい。

一、そしてこれはおまえの個人的な考えだといって申し上げなさい。
  おまえは幼少のころから長門(秀就)様や甲州と同じように江戸に居住すべきだったが、
  両御所様が赦免してくださったので国もとにいることができた。
  もう十分に成長したので、自分が江戸に罷り居て、ときどき上下を出して、
  若殿様へのご奉公に励まなくてはならないと。
  知行・役目の限り、それは皆様ご存知の通りであり、一筋に江戸に伺候する覚悟であるので、
  あれこれと人に申し付けておかなければならないこともあるだろうと、こう申し上げなさい。
  人質などというものは、費用のめどがつかずにお引き受けできないので、
  そのように覚悟したと申し上げなさい。

一、このように申すのは、私が人質を出すのを嫌がって、
  事をすりかえて、おまえに苦労をかけようとしているわけではない。
  今後のおまえのためでもあるし、
  当座は今までの領地の収入ではどうにもならないと思ったのでこうしたのだ。
  こうしたところは細々と計算してみてほしい。

一、もう一件、内緒の話があるが、それは別紙に書き記してある。
   以上

     (元和三年)十月三日          広家(花押)
          左介殿(吉川広正)


以上、テキトー訳。この問題はまだ続きます。

関ヶ原が終わってから二十年近く……当時のことを知らない者も増えた。
家康が存命の間は、一度出した人質を検分することもなく、
家康と諸将の間で交わされた約束が効力を持っていたけど、
今回はその約束が再確認される時期にきてたわけだね。

「吉川は人質なんか出さなくていいよ!」って約束は、
家康だけでなく秀忠も承知していることだけれども、
今回人質改めに当たる現場の人間までには周知されていなくて、
「吉川はふさわしい人質を出していない」ってことが浮上した。
ただ幕府側はあまり問題視はしていなかったけど、
毛利家側がうろたえてしまった……
というか、秀元が秀就をうろたえるように仕向けた、という感じだろうか。

秀元と広家は、慶長十年末に輝元の仲裁で和解しなければならなかったくらい、
実に仲が悪かった。
これは秀元と広家の関係が急に悪化したから輝元が仲裁に入ったというわけではなく、
それまで何となく険悪なムードだったものを、
同年に起きた五郎太石事件、それに関連した熊谷一族の粛清、
そしてこの騒動で乱れた家中の結束を強化するための起請文連署、という一連の流れのなかで、
秀元・広家両家の和睦も進められたようだ。
ついでに言うと益田元祥もバリバリ広家派(姉婿だからか)で、
秀元の家中とは関ヶ原の乱中の衝突もあり、秀元と険悪だったので、このときに和睦した。
誓紙に血判したくらいで人間同士のこじれた仲がいきなり良くなるわけなどないので、
まあ、問題を起こさない程度に、ずっと仲ワルだったんだろうなぁ(遠い目)

そういう因縁があって、今回の人質改め騒動なわけで。
巻き込まれる広正ェ……いや当主なんだからしょうがないのか。
続きでは、広家の秀元への思いの丈を追いたいと思います。
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