--------

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2013-05-09

元和三年、人質改め騒動③

元和二年、家康死去→翌三年、秀忠上洛。
これに合わせて諸大名も京都に集まり、江戸に置いている証人の改めが行われた。
吉川からは当主の近縁の人質が出ておらず、
秀就に対して、「この件で幕府からつっこまれたらヤバイですね~」と
そそのかす者がいた(おそらく秀元)。
秀就は慌てて、幕府から難癖をつけられないうちにどうにかしようと、
吉川に対してふさわしい人質を求めてくる。

広家はそれを承知し、「現当主である広正の意向を聞いてきちんと返事をする」と回答。
そして広正には、「新たに人質を出す経済的余裕もないし、これからのおまえのためにも、
おまえ自身が秀就様が江戸に行くときにお供してご奉公すると返答しなさい」と指示。
また「秀元は吉川の足を引っ張ろうとしているから十分気をつけなさい」とも。
広正もそれを承知した。というところまで追ってきた。

今回は吉川への援護射撃というか、
関ヶ原の戦後処理で人質関連の交渉に当たった、福原広俊その人の文書。
「請書案」てことは、福原が輝元(宗瑞)・秀就に提出した文書の写しかな。


●福原広俊請書案(吉川家文書1319)

   越後殿(福原広俊)より萩様(輝元)への御請けの案書

申し上げます。

一、江戸証人お究めの儀について仰せ聞かされました。
  今回のことは御代始めのために改めて行われたのでしょうから、
  とくに申し上げるに及びません。
  これ以前も何度かお究めがあったことです。
  ですから、佐渡殿御父子(本田正信・正純)のところへ参ってすべてお話し、
  私が書き物を仕上げておきました。

一、広家様の人質に関して、大御所様が
  「その必要はない。吉川・福原は人質など出さずともよい。
  しかしながら、家中の決まりということならば、とりあえず誰かを置いておくといい」
  とお定めになり、佐渡殿から何度も聞かされております。

  そのように心得てこれまで過ごして参り、ときどきは江戸や駿河からもここへと申し上げ、
  また江戸で若殿様(秀就)へも申し上げました。
  しかしその頃は、若殿様は「また何か福原が騒いでいる」とお思いになられていたので、
  お耳にも止まらなかったのでしょう。もちろん覚えてなどいらっしゃなないはずです。
  今回の初めてきちんとお聞きになって、仰天なされ、
  お究めがひときわ厳しくなると思し召されているのです。
  
  第一、そのようなお究めをなさっている衆が、
  自分の手柄か威厳がかかっているかのように申されているのです。
  この件は、それほど重大な問題ではないはずですから、ご安心なさってください。
  何を申したところで、佐渡殿(正信)がいらっしゃらない(元和二年六月死去)ので、
  申しても仕方ありません。
  上野殿(正純)はその時々によって間に合わせで物を仰せられる方ですので、
  確実な話はできません。

一、広家様のご子息のことは、彦次郎殿(毛利就頼)をお出しになっても、
  ひときわもっともなことです。
  そうすれば公儀に対しても問題ありませんし、
  ご家中で何かとご算段なさる必要もないでしょう。

一、左介様(広正)のご縁辺、また在国のことについて、
  これ以前に決定されたことを申し上げ、つぶさにご了解を得ています。
  この件については、公方様が私を呼び出されて、
  吉川のせがれのことを確かにお聞き届けくださいました。
  大御所様もそれでよいとお定めになりました。

  江戸でのことは、これもまたすぐに注進してきました。
  ご存知の通りですから、これ以前のことも書きません。
  この時分、誰が申したことであっても、
  しかるべきことはそのようにお沙汰なされるのが肝要と存じ奉ります。
  申すに及ばないことではありますが。
  このことをよろしくご披露ください。恐惶謹言

     (元和三年)九月二十八日          福原越後(広俊)


日付から想像するに、秀就が京都から萩に帰ってきた後、
広家に人質の要求をするのと同時進行で福原に問い合わせてたんじゃないかな。
広家が秀就からの使者に返答するとき(十月三日)に、
この写しが広家の手元にあったかどうかわからないけども、
「彦次郎を出す」という選択ではなく、広家は「広正を秀就に江戸で奉公させる」という選択をした。
これなら対外的に「人質」って扱いにもならないし、
毛利家にも家中の一門衆にも面目が立つし、すばらしい発想の転換!?

ついでに、広正に最初の三通の書状を送った(十月三日)後、
広家から広正に送られた書状を見てみよう↓


●吉川広家自筆書状(吉川家文書1307)

追って申す。
これまでおまえ(広正)が江戸に参らなかったので、公儀の御代はじめの今になって、
おまえも役儀はじめ(秀忠上洛の際の挨拶)となったのだ。
所縁(輝元娘との婚姻)などについての長州様(秀就)への御礼も、
おまえが江戸に参上して申し上げるべきだった。
だから、本来なら去年参上すべきだったのに、そうしなかった。
今年のことは定まっていたとはいえ、長門様へのご奉公という名目ではなく、
公儀(秀忠)が在洛されていたからだった。

長門様が来年江戸にお下りになるとき、おまえがこちらに居残っていてはよろしくない。
「今回の問題は江戸で解決しましょう」と申せばいいのではないかと思う。
とにかくおまえが江戸に滞在すれば、失脚する心配はないだろう。

私も以前、女(妻?)ともども伏見に在番していたことがある。
このとおりに分別してもらいたい。
なお、この者たち(使者)の口上を聞いて、彼らと相談してほしい。
恐々謹言

     (元和三年)十月五日         蔵人 広家
          又(又次郎、広正)参       蔵


以上、テキトー訳。もうちょっとだけ続く。

まず言いたい。
わりと言いたい放題ですね、福原さん!!! シビレル!
「たいしたことじゃないのに大げさに騒ぎやがって」みたいなw
「私は秀就様にちゃんと申し上げたんですがね、聞いてなかったんですね」ってとこは、
心が荒れているというか、怒りの念を感じたよwww
それにさりげなく「本田正純も役に立たねーしよー」みたいなこと言ってるしw
こういう、物怖じせずに直截に物を言う人って好きだな。
そういえば佐野道可事件のときの福原の書状も、
なんだかイライラが伝わってくるような調子だったと記憶してるけど、
ちゃんと読んでないんだよな。いずれまた……

そして広家。
「よく考えてみれば、早めにおまえを江戸に行かしとくべきだったよね☆」っておいw
「お父さんも同じ道通ったんだから、がんばってね」みたいなそういう……
まあ広正も無事に家督相続したし、将軍へのお目見えも済んだし、
結婚もして毛利宗家の縁者になったしで、頼れる存在になってきたってことなんだろうな。
プラス、このころには竹姫のおなかに広正の子供が宿ってたはずなんだ(翌年二月誕生)。

そんでこの問題が最終的にどういう決着になったかというと、
決定事項が明記してある書状を見つけられなかったので確実とは言えないけれど、
彦次郎は人質に行ってないし、
その後広正が度々秀就とともに江戸に行ってる様子が見て取れるし、
当時吉川の江戸証人だった家臣の師弟は、
広正の長男の長松(吉川広嘉)と入れ替わりで国もとに帰ってきている。
ということはつまり、広家の提案したとおりにことが運んだってことだね。
めでたしめでたし?

次回はこの問題の「解」というか、今さらながらあさった家譜にヒントがあったので、
これまで漏らしていた情報を拾っていきたいです……
とりあえず、今日までに見つけたものは、およびに追記しときました。
もっとちゃんと調べてから取り掛かれよっていう……_ノ乙(.ン、)_<ムリダ
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

検索フォーム
カレンダー
09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
Twitter
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。