--------

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2013-05-10

元和三年、人質改め騒動④

記憶の奥底に引っかかっていた書状を探していて出てこなくてキィーっとなり、
ようやく見つけ出したものの、今回追っている事件には直接関わりのないものだったので
がっくりきている_ノ乙(.ン、)_

そんなわけで元和三年の吉川家人質騒動、書状を拾いながら流れを追ってきたわけだけれども、
今回は拾いそびれていたいくつかの文書をあらためて拾ってみる。

まず、秀忠上洛に合わせて人質究めがあることがわかっており、
福原広俊があらかじめ毛利家人質リストを提出していたようだ。
それが↓


●福原家証文(文庫「巨室」14)

一、長門守(毛利秀就):慶長七年に江戸に罷り下る
            ただし、妻子ともに江戸に在住すること
            付けたり、お心付けとして毎年米二千俵づつ拝領

一、吉川内蔵人(広家)……知行は三万五千石
   証人:同名善兵衛(二十九歳)を長門同然に差し出した
      重ねて証人として、同名六左衛門尉(二十五歳)を差し出す
      現在この二人が江戸に在住している
      お心付けは最初から与えられていない

一、毛利山城守(元倶)……知行は六千石
   証人:兄弟の弥一郎(元種)(十七歳)を差し出す
      お心付けはなし

一、宍戸備前守(元続):知行は六千石
   証人:実子の左介(元高)(十三歳)を差し出す
      お心付けはなし

一、福原越後守(広俊)
   証人:実子の左近(元俊)が当初から江戸に在住
      お心付けはなし

一、堅田大和(元慶):お屋敷を拝領し、妻子ともに在住
           お心付けはなし

 この状況に間違いはありません。
     (元和三年)六月一日
          御年寄中様


こうやって並べてみると、当主本人+妻子が在江戸というのが秀就、
そして堅田元慶(輝元側近、関ヶ原一乱の責任を問われて、戦後から死ぬまで江戸に留められる)の二人。
毛利元倶・宍戸元続・福原広俊はいずれも兄弟か実子を江戸に置いていて、
吉川家の優遇っぷりがよくわかるね。
「同名」の者を二人置いているけど、いずれも重臣の子だし。
当主の二親等以内ではない。
こりゃ、事情をよく知らない人が見たら、「なんで吉川だけ?」ってなって当然だよなw

そんでもって下の書状が、輝元・秀就から広家へと
「相応しい人質出してね」という趣旨(ズバリ本題は口上のみ)のお手紙。
他の書状と少し離れて収録されてたから見逃してた><



●毛利宗瑞(輝元)・同秀就連書状(吉川家文書1275)

江戸証人のことについて、御奉行衆が申されたことがあるので、
この者を遣わせる。
どうか納得をしてもらいたい。
公儀(幕府)から仰せ出された後では、よくないと思う。
詳しくは使者の者たちから口上で言わせる。
恐々謹言

     (元和三年)九月二十九日     長門守 秀就
                      右馬  宗瑞
         広家 参


差出の日付が九月二十九日ということは、
で取り上げた福原広俊の請書(二十八日)を踏まえたうえで、広家に命じていることになる。
ということは、福原が「広家様の人質は彦次郎殿(毛利就頼)で十分でしょ」と言っているので、
最初から「彦次郎を江戸証人に出せ」という要求だったんだろうと知れた。

そして以下、後に広正が毛利家に提出したという書物に、
この件の顛末が載っておりました。
ただし私はその書物自体にはたどり着けなかったので、
「吉川家譜」に引用されているものを孫引きしておるよ_ノ乙(.ン、)_



●広正から御本家(毛利宗家)へ差し出した御書物

「毛利隠岐(就頼)が幼少のとき、
 台徳院様(秀忠)から江戸に差し出すようにとの命令があったと、
 毛利甲斐守(秀元)から宗瑞様(輝元)へ申し上げられた。
 その件を広家に仰せ聞かされたところ、それ以前からの取り決めを、
 福原越後(広俊)が詳しく宗瑞様へ申し上げたので、
 福原の証言を甲州へ仰せ聞かされると、その後御沙汰はなくなった」


以上、テキトー訳。

広正の書物ってやつは、広正がそのできごとを解釈したうえで
なおかつ毛利家に提出するものとして相応しいように書かれているから、
そのままするっと信用するわけにはいかないよね。
「秀忠からの名指しでの要求」ってのは、当時の文書と噛みあわないし。
でも、「その後は何の沙汰もなかった」ってのは事実だろうから、
吉川家の人質騒動は自然消滅したみたい、ということはわかった。
あと、やっぱり輝元・秀就からの吉川家への要求は、
「彦次郎を出せ」ってことだった可能性がより濃厚にw

まとめてみると、
・元和二年に徳川家康死去、翌三年に徳川秀忠上洛
・秀忠上洛に合わせて京都に終結した諸侯に対して、幕府より人質究めが行われる
・人質究めの過程で、毛利家中の吉川家からは、当主近縁の人質が出ていない点が注目される
・幕府の役人が吉川家の人質に目を付けたことで、
 毛利家としては、幕府から催促や咎めがある前に、
 吉川家から相応の人質を出させようとする
・輝元・秀忠は人質交渉の実務に当たった福原広俊に相談、
 関ヶ原の戦後処理過程で家康・秀忠が吉川家の人質を免除した経緯を確認
・福原はそうした事実を強調しながらも、新たに人質が必要であるならば
 広家末子の彦次郎で十分だと回答
・輝元・秀就から広家に対し、彦次郎を江戸証人に出すように要求
・広家は毛利家からの使者に対して人質の件を了承
・広家は経済的な余裕がないこと、また嗣子広正の将来を慮り、
 広正に対して「人質は出せないが、自身が江戸で秀就に奉公すると返答せよ」と指示
・広正は広家からの指示通りに毛利家に返答する
・輝元・秀就は広家・広正・福原からの回答を受け、秀元と相談
・吉川家の人質の件は、とりあえず現状維持に……
といったところかな。

秀元の陰謀説は確実というわけじゃないから、そっとしとこう……
本当だったとしても、私が秀元の立場なら同じ提案をせざるをえないだろうし。
決して意地悪したかっただけじゃないはずだよ。
福原・益田元祥・児玉景唯らが帰国してしまって、
自分一人で幕府との交渉しなきゃならんのだったら、責任重いもん。
下手打つわけにいかないもん。
慎重になりすぎて悪いということはない。

というあたりで、今回の一連の考証を終了したい。
長々とお付き合いくださりありがとうございました~!
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

検索フォーム
カレンダー
09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
Twitter
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。