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2013-05-16

毛利家のミスターパーフェクト

はははは。またもや脱線に脱線を重ねてたどり着いた書状を読むよ!
今回は益田! 益田ダイスキ!!!
広家の三歳年上の義兄だよ!
あと広家の娘の夫のひいじいさんでもあります……なにそれこわい……

益田元祥略歴:
・大内傘下の石見領主、益田藤兼の次男として生まれる
・大内義隆が滅び、陶と毛利が対立したときには藤兼が陶方に一味(縁者なので)
・元春の調略で毛利に降り、元春の娘を長男の嫁に契約する藤兼
・長男が死亡したため、家督と婚姻契約は次男の元祥にスライド
・藤兼・元祥は吉田に訪問して元就を接待&ここで元祥が元服
・だいたい元春の手に属して各地を転戦、元祥は元長から「自身の太刀働き比類なし!」との感状もらう
・元春・元長没後は広家にぴったりと寄り添って活躍
・完全なる吉川方かと思いきや、次男を隆景に仕えさせる
・長男が夭逝するも、次男を補佐に立て嫡孫を守り立てる
・朝鮮から帰朝の後、輝元の信頼を受けて事務方でも活躍
・関ヶ原の乱の最中に、家臣が毛利秀元の小姓と喧嘩沙汰を起こすが、すぐに落着
・関ヶ原の直後、家康から「所領安堵するから毛利家を出なよ」と誘われるも断固ことわる
・関ヶ原の戦後処理(主に金銭・返納米問題)をてきぱきと処理
・借金まみれになった毛利家の財政を立て直しかつ貯蓄までする
・元春の娘(七尾局)との間に十代から四十代まで三男四女をもうけ、後室との間にも男子二人
・子供たちすべてがそれなりの地位を得たり有力者に嫁いだり
・八十三歳の大往生

なんかほかにもあった気がするけど思い出せん。
この人の有名なエピソードは、江戸初期の毛利家の財政立て直しと、
あと輝元に献上した名物「益田壺」を石田三成に横流しされた話かなw
とにかく家柄良し、ツキも良し、武功も良し、算術にも長けているうえ、
義にあつく、親類縁者・家中への思いやりもすばらしく、処世術も満点、
長寿で繁殖力も強いというパーフェクトぶり。
この人がなぜあまり有名にならないのか、ホント不思議……

とりあえず今回読んだのは、慶長四年の毛利家中一斉所領替え問題のときのもの。
この所領替えは、朝鮮出兵などで宙ぶらりんになっていた秀元の処遇問題
(輝元の養嗣子になったけど実子が生まれたので所領をもらって別家を立てる約束)
に端を発していると記憶してるけど、勉強不足なのでいまいちあやふやです。
でもつまりは毛利家傘下のすべての家臣・国人衆を対象に、領地の配置替えをするってこったね。
その件で、益田元祥が輝元の奉行人である榎本元吉に申し入れたのが↓の書状。


●益田元祥書状(毛利家文書(1270)

(端裏書)「榎中太(榎本元吉)様 人々御中     益玄 元祥」

罷り下ってから、お会いしていませんでしたね。
内々に話をしておりました所領替えのことで、ご内意を承り、安堵いたしました。
家筋の者たちを散らさずに、今までは余分に抱えておりましたが、
なんといっても、まだ皆を召し放たずに連れて新しい土地に移り、
ときどきご奉公を致したいと考えて申し上げたことです。
ですから、私が自分勝手にしたいわけではありません。

悪所であっても、内の者がついて参りそうな土地もあるでしょう。
よい場所であっても、内の者たちが行きたがらない土地もあります。
悪所であってもいいので、内の者たちが行きたがるような
土地を仰せ付けてくださいますように、お願い申しあげます。
今まで抱えてきた者たちを放免しなければならないとなると、実に困ってしまいます。

先日も申したように、石見では那賀郡が私の知行地の上に続いた土地です。
江之川を隔てており、銀山周りの障害にもならない場所です。
ですから、先年広家様があの地を返上したときには、皆にお配りになって、
ご公領などは少しも置かれませんでした。
これをご了解いただければ、下々の者たちが残らずついてくるはずです。

また、私の知行地の下に続いているのは、長州阿武郡です。
現在は宍道・桂五郎左・宰相(秀元)様の御小姓衆に与えられているあたりです。
こちらは悪所であり、現在知行している衆も、
「今回替えていただかねば公役をこなすことができない」と申されるような土地です。
しかし我らにとっては近い場所ですので、内の者たちも付いてくる気になるでしょう。
人々が欲しがっている他国の土地よりは、こちらを望んでおります。
もしもし広家様へお与えにならないのでしたら、私に与えていただききたく思います。

もう一方は吉賀郡、また山代五個八個などが、私の知行地と地続きです。
これらのうちどれかへと替えていただければ安心できます。
また筋目の船頭たちを多数抱えておりますので、少し海に面した所でなければ、
私が抱えて行くことはできません。
もし先に挙げた土地すべてを蔵入地に仰せつけられ、誰にもお配りにならないのでしたら、
周防の内で、富田に引き加えて都野郡の内から仰せ付けてくださいますようお願いいたします。
人々が欲しがる佐波郡などは、人数を連れて引っ越すことなどなかなかできない場所です。
その事情は、先日もお話しした通りです。

とにかくよく(輝元の)御機嫌を見てこのことを申し上げていただき、
ここに述べた内のどれかに内諾をいただいて、安心したく思います。
もうだいたい配置が決まってからでは申し上げても手遅れになるので、
御沙汰もない今のうちに申し上げたいと思います。

長老(安国寺恵瓊)を通じて申し上げるべきなのでしょうが、
内々に申したように、もし(輝元の)御機嫌に配慮せずに強硬な態度で申し上げられたら
私が迷惑することになりますので、あなたにお頼みしているのです。
しかしながら、何かあったときのために理屈が合うように、
大筋のことは以前に申しておきましたので、それはご承知置きください。

また、那賀郡のことは、時代にもよると思いますが、
石見あたりに城取りなどを仰せ付けられるのであれば、銀山の山吹城と、
那賀郡のうちの小石見あたりに、一城仰せ付けていただかなくてはいけない場所がらですので、
そのような配置替えの障害になってしまうでしょうか。
その問題がなければ、那賀郡を私にお配りいただけるように申し上げたいところです。

たとえ城の守りを仰せ付けられたとしても、私も妻子は残らず広島に居住しておりますので、
仰せ付けられたならば十分に武具や弾薬、兵糧などをしっかり準備して、
もしものときに安心していられるようにしたうえで、きちんと馳走いたします。
こうした件は差し出がましく申し上げるようなことではありませんが、
あなたにはお伝えしておきます。
もしかしたら城の件で那賀郡を私に仰せ付けられないということがあればと思って
申したまでですので、ご理解ください。

この書状をご覧になって、何かのついでに(輝元へと)口上でご披露いただけますよう、
お頼みいたします。
重ねがさね、またお会いしたときにお話をさせてください。恐惶謹言

     (慶長四年)四月二日     元祥
          榎中太(榎本元吉)様

なお、現在の那賀郡の給人は、周布・久代瀬兵衛・都野・尼子殿、
それに元政様もお持ちでいらっしゃいます。
阿曽沼・三加賀・平市允・木原次郎兵衛・御末様もです。
私も先の検地で二千石ほど持っていますので、これもお心得ください。
元氏もお持ちです。


どうよ、この理詰めっぷり!(ドヤ顔
希望をA案・B案・C案と出していって、却下される理由まで推測して先手を打つという
手回しのよさ……これだけで「デキる!」ってわかる気がするんだ。
んでもって、「家中の者たちを手放したくないから」という理由で
希望の土地を選ぶところがいいじゃない。なんというオトコマエ。
個人的に気になったのは、「益田の妻子は皆広島に居住してる」ってとこかな。
それと「尼子殿」が領地を与えられているわけだが……
そういえば義久・倫久兄弟は、永禄九年に元就に投降した後、
軟禁状態ではあるけど、輝元に手厚く保護されてるんだよね。
そして義久には子がなかったので、倫久の子が「佐々木」を名乗り、
毛利の被官になっていたはず。
あと益田、安国寺のことは取次ぎとしてあんまり信頼してなかったのねw
これは朝鮮でのアレコレが関係してそうw

で、この書状を受け取った榎本は輝元に見せちゃったらしく、
輝元がそれに答えているのが↓の書状案(榎本宛)。


●毛利輝元自筆書状案(毛利家文書1271)

 ※この文書は、前掲の第1196及び第1270号文書と照らし合わせるに、慶長四年のものである

益玄(益田元祥)の書状をよく読んだ。
まったくあの人はしっかりした人だ。
これからも協力してほしく身内にもしたいと思ったから、
松寿(秀就)の母の妹を修理(益田景祥、元祥の次男)に娶わせるのだ。
そのことをあちらもよくわかっていて、内意としては、ずいぶん歓迎してくれているらしい。

今回の所領替えに関しては、内々に仲良くしている衆も、
思いもよらないことを言ってきているが、何とか話を濁して返答を引き伸ばしている。

あの人(元祥)の所領を替えるつもりはない。
表向きは、贔屓をするようなことをしたらいろいろとまずくなるので、
なんとなくそのままにしておこうと考えている。
これに関しては益玄にも言ってはいけないよ。
ただ、「あなたに関しては所領替えは行われそうにないので、
ご心配なさいますな」とだけ言っておけばいい。
これからも疎意なく、身内として親しくしていきたいという旨は、
内々に語って聞かせてくれ。よろしく。


輝元が元祥にベタ惚れな件……すっごい褒めてるね!
景祥が児玉元良の娘を娶ったのには、こんな経緯があったのか。
縁談の時期もつかめて満足!
家康が元祥の引き抜きを打診したときに、
「毛利家には景祥を置いていけばいい」って提案したのは、
この所縁があったからなんだろうな。

そんなわけで、↓は所領替えの発表が済んでから、元祥が提出した起請文。


●益田元祥起請文(毛利家文書1196)

 ※この起請文は、神文以下は熊野牛王宝印の裏を返して記してある

謹んで言上いたします。

一、今度の御分国のことについて、御父子様(輝元・秀就)おそろいになり、
  直接仰せ聞かされました。実にかたじけなく存じ奉ります。
  この件は他言いたしません。

一、私の身上のことについて、佐石(佐世元嘉)を通して、内々にご内意を申し聞かされました。
  とりわけ、この春には御分国の衆は皆所領替えを仰せ付けられましたが、
  私のもともとの知行は替えないとの佐石への御書は、
  外聞も実にかたじけなき次第であり、これ以上の言葉が出てまいりません。

  そのうえ七内(益田景祥)の縁辺などもお気遣いくださり、
  あれこれと本当にかたじけなく、申し上げれば限りがありません。
  このご厚恩は先々も少しも忘却せず、
  殿様(輝元)・松寿様(秀就)へ無二のご奉公を遂げる覚悟であります。

一、縁者・親類、そのほか仲のよいどんな者であっても、
  公儀に対して悪事を企てた場合には、私は同意いたしません。

これらの条々は、私の心底からの言葉ですので、もし私を讒言する人がいた場合には、
お尋ねになられ、真相を究明したうえで判断していただければ幸いです。
もし私がこの旨を一つでも違えることがあれば、

  梵天・帝釈天・四大天王、日本国中のすべての大小神祇、
  とりわけ厳島大明神・杵築大明神、別して氏神の八幡大菩薩、
  春日大明神・摩利支尊天・天満大自在天の御神罰を、
  子々孫々までこうむることになるでしょう。
  よって起請文件のごとし。

     慶長四年六月二十一日     益田玄蕃頭元祥(花押・血判)
          佐世石見守殿


以上、テキトー訳。

「ご厚恩は先々も少しも忘却せず、殿様・松寿様へ無二のご奉公を遂げる覚悟」
ってのが、泣かせるねぇ……この言葉、ただの飾りじゃないんだもん。
ホントにしっかりこれを守って貫いたところがすごいよ。
家康が「安堵する」って言った十万石の所領を捨てて、貧乏大名についていったんだよ?
たった十分の一の身上になっても、自分の言葉を守ったわけだ。
なかなかできないと思う。
裏を返せば、これほどの男をそこまで惚れさせる輝元も、すごい人だと思う。
 〔追記:どこかで読んだ地誌の内容を、記憶をたどって書いちゃいましたが、
     益田の毛利八カ国時代の分限は、12,500石だったようです。
     元祥自身が遺言状に書き残してたわ_ノ乙(.ン、)_〕


元祥に関しては、「牛庵覚書」という書物があって、
これは元祥自身の覚書なんだけれども、ものすごい長文_ノ乙(.ン、)_
いつか自力で読みたいと思います!!!
あといろいろこの人の周辺で気になることも多いので、
そのあたりも追い追い……
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