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2013-05-19

元祥さんと元長おにいちゃん

久々に図書館に行ってみたところ、欲しい本が増えました_ノ乙(.ン、)_
全部読みたいからコピーなんてやってらんねーって感じ。
さて、どこでポチるかなー。古本でしか手に入らないのがつらい。
物欲に燃えたからかモニターを睨みすぎたからか、
昨日から今日にかけて、これまた久々に持病が出てきて死んでたよ……

さて、相も変わらず陰徳記を離れて書状群読んでます。
今回は吉川元長から益田元祥に送られた書状をエンヤコラ。

もともと益田氏は、陶の縁者だったのと、
仇敵の吉見氏(領地争いがパなかった)が早々に毛利と結んだので毛利と対立していたものの、
元春の扱いで、元祥の父藤兼のときに毛利傘下に入ったんだよね。
これに関しては元春と元就の連携が取れていなかったらしく、
元春が和睦をまとめてきたら、元就が「吉見にどう言い訳すんの!」って怒ったらしいw
益田を潰して係争地を吉見にあげたかったってのが、元就の本音だろう。

そんでどーにかこーにか毛利に食い込んだ益田氏は、元春の娘を娶ることに成功し、
それからは毛利家に忠実に、元春の手に属して活躍した。
元長にとっては、元祥は義弟に当たるわけだ。
元長はだいぶ元祥に心を許していたのか、天正六年にはこんな↓起請文まで送っている。


●吉川元長書状(益田家文書384)

詳しく返事をありがとう。また申したいことがある。

一、輝元に対して、これからもずっと懇意にしようという気持ちが一番大事である。

一、ご父子(益田藤兼・元祥)と我ら親子(吉川元春・元長)の仲がこうなった上は、
  内外の大事・小事について、我らから相談をさせてもらうことになる。
  いわれのないことだと思わないでくれれば、私から毎回何かと連絡を入れよう。
  「もしかしたらこんなことがあるかもしれない」と思うことがあったら、
  とにかくこちらに知らせてほしい。
  またおまえからも何か言ってきてくれなくては困る。
  いい加減なことを言ったり、仲間はずれにしたりはしない。
  この件は申すに及ばない。ただただ、
  内外ともに心安いこと、息のかかるほど近くにいるのがいいことだと思う。
  差し出がましくなってはいけないなどと、遠慮はしないでくれ。

一、輝元の分国がどれほどになろうとも、隆景(小早川)(※後から書き入れてある)・
  元政(天野)・元清(穂田)・元康(毛利)・私の父の四人、
  そのほかでは、ご父子(益田父子)・隆家(宍戸)父子(元秀)・
  信直(熊谷)が毛利一家の衆である。
  この衆の仲については、たとえ少し考えが違ったとしても、
  同じように行動しなくてはならない。
  たとえ人から許し書きがあったとしても、それで覚えを失うようになれば、
  諸人も見限るようになり、ゆくゆくは身をも家をも失うことは歴然としている。
  また天道も必ず見放すだろう。古今の世情をよく考えてみてほしい。
  それに、この衆が結束していれば、四、五カ国程度なら固く保つことができるはずだから、
  それほど世間の情勢を恐れることはないと思う。

一、だいたいにして、上代から今の世までも、人々は親しい仲を裂こうとしてくるものだ。
  それに気をつけて、用心するのが肝要だ。
  どんな理由があっても、怪しい話を聞いたならば、すぐに糾明してほしい。
  またこちらからもすぐに申し入れよう。

一、あまりに言わずもがなのことなので、書面に書くのもどうかと思ったが、あえて書いた。
  もしそちらが一大事に及んだならば、私は無二に協力しよう。
  おまえも私に協力してほしい。

  ここに述べたことにもし偽りがあれば、梵天・帝釈天・四大天王、
  日本国中の大神祇、八万台菩薩、本寺鎮守、春日大明神・厳島大明神、
  氏神である安芸の吉田祇園・牛頭天王、石見の一宮大明神・瀧蔵大権現、
  とりわけ大日覚王・金剛大薩埵、勝軍地蔵、摩利支尊天、
  別して八大祖師並びに以下の諸大徳・先師代和尚、などの罰を蒙るべし。

  この旨をもって、私の心中を知ってもらいたい。
  それではまた、いろいろと話をしたい。恐々謹言

     天六(天正六年)五月二十日     元長
          元祥 参

  悪筆で読みづらいと思うが、文意がわからない箇所や誤字脱字があれば言っておくれ。
  それを聞いて返答しよう。
  この書状は特に内々に送っているので、誰にも見せないでほしい。


元長さんさすが元長さん! 懐こい人だなぁ。というか何かあったんか……?
天正六年五月ごろというと、上月城の尼子勝久・山中幸盛を囲んでいるころかな。
表題には書かれていないけれど、「悪筆云々」とあるということは、元長自筆だろうか。
年齢的には、元長が三十一歳、元祥が二十一歳といったところ。
元祥が家督相続するのは、まだ先の天正十年のことだから、
どういう意図で家督前の元祥にこの起請文を送ったのか、気になるところではある。
誰にも内緒で義弟に何を吹き込もうとしてたんですか元長さん!?!?
あと、隆景を後から書き足してるあたり、モニョモニョするね!

そしてお次は、おそらく同年末のものと思われる書状↓


●吉川元長書状(益田家文書383)

近日はあまり話しをしていなかったね。
こちらから申し入れるべきだったけれども、いろいろとやることがあったんだ。
まずはこの表の諸事の定めについて、
盛重(杉原)からまだ返事がないものだから、まだ決められない。
使者が今日か明日には帰ってくると思う。
播磨のことも、珍しいことは起こっていないだろうか。その後連絡が来ていない。
輝元(毛利)が年内に出張すると聞いていたが、もう少し延期されるようだ。
また会ったときにいろいろ話をするつもりなので、まずはここまで。
恐々謹言

     十二月十九日     治部少輔 元長
         元祥

なおなお、あれこれとしているうちに、はや年も暮れてしまったが、
おまえたちが帰陣し、また我らも罷り帰れば、また五十日も六十日も暇になるだろう。
今回は陣所が遠くて、考えていることを切々と相談できず、残念だった。
来春おいでのときは、ぜひとも近くにいて、ときどき話をしたいね。
同じ気持ちならうれしく思う。
また、いつもいつも申しているように、何事も急がなくてはならない。
この書状は読んだら燃やしてくれ。
また、政慶(宍道)がこちらに来るそうだが、
そちらに連絡がいっているかどうか、聞かせてくれ。かしく


「もっと頻繁に会って話したかった(´・ω・`)」って、
アンタ元祥のカノジョですか元長にーさん!!!
この人の書状は、人懐こくて感状がダダ漏れてて好きすぎる!
益田のことを考えるつもりが、元長に引き込まれていく……そして脱線。

輝元のみならず、元長にまでこんだけ好かれる元祥も恐ろしいよね。
元長は文武両道というか、むしろ文系オタクの節があるから、
その話し相手として好かれるには、それなりの教養とか持ち合わせてないと難しそう。
まだ二十一歳なんだぜ……このころからきっと優秀だったんだろうな。

さてお次、年代は少し飛んで、天正十四年のもの↓


●吉川元長書状(益田家文書390)

なんといっても、今回のご自身の太刀働きは、
実に比類なきもので、粉骨の至りである。
私がそちらに参って申すべきではあるが、差し障りがあってそうできないので、
まずはこの者を遣わして申し入れる。
よって太刀一腰・馬一匹を差し上げる。差し当たってのご祝儀ばかりである。
いずれも拝顔のときにお話しよう。恐々謹言

     (天正十四年か)十一月九日     治部少輔 元長
          元祥 御陣所


以上、テキトー訳。

最後の書状は、秀吉の号令で行われた九州征伐のとき、宇留津城攻めに関するものだと思う。
元長が「差し障りがあって行けない」というのは、
小倉城で病床にあった元春の看病をしていたため。
吉川衆は元春・元長・経言といった大将格は不在のまま人数だけ出していて、
十一月七日に黒田孝高・小早川隆景らとともに、宇留津城を攻め落とした。
そこで元祥が活躍したと!
頭もよくて戦もできるなんて、ホント羨ましいなちくしょー!

元春はこの後の十一月十五日に永眠するわけだけど、
そのころの元長書状なんかも悲痛でたまんないんだよな……
そのうちちゃんと読まねば。

ともあれ、義兄に心底気に入られる元祥が垣間見れて、
なんとなく幸せでござる(*´∇`*)
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