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2013-05-25

じっちゃんから孫たちへ

いやいや、日が開いてしまった><
久しぶりに生プロレス見たり、飲み仲間との約束があったりしてたんですよ(リア充アピール

そんでもって、最近、石見吉川家のわりと詳しい系図にぶち当たったきっかけで、
経家ダイスキ熱がぶり返してきているので、その辺の話題を漁りたくなりました。
そして新しく購入した本に読解のヒントが満載だったので、
ここぞとばかりに経安の置文にチャレンジ!

これは経家が鳥取城で果てた後、
残された子供たちのために、経家の父である経安が書き記したものだね。


●吉川経安置文(石見吉川家文書103)

「子孫披見のため、これを書き置く   経安」

ここに、義昭将軍が、織田上総介信長を討伐するため、備後の国の鞆の浦に移られてきた(天正四年)。
毛利右馬頭大江輝元朝臣は副将軍に任じられ、併せて
小早川左衛門佐隆景、吉川駿河守元春父子もその命に応じ、
都(信長)と田舎(安芸=輝元)との間で、何年間も戦争が繰り広げられた。

そうしたとき、因幡の国の守護である山名大蔵大輔豊国(鳥取城主)の家中の者たちが信長に背き、
芸州に味方するようになった。
そのとき、吉川家の惣領である元春・元長の貴命に従い、
私の息子である式部少輔経家が、因幡の鳥取城の城督として立て籠もることになった。

去る(天正九年)三月十八日に経家が鳥取城に入城すると、
織田上総介の先陣として、羽柴筑前守秀吉が五万余騎を率いて、
同年七月十二日に、因幡の鳥取まで進軍してきた。
秀吉は鳥取城の三里四方に柵を結いめぐらし、川のあたりには乱杭を打ったり逆茂木を並べ、
そのうえ川の底には縄網を張り巡らせ、諸陣の櫓には太鼓・法螺貝・鐘を配備した。
あちこちに焚かれた篝火は、万灯会さながらだった。

こうして、昼夜を問わず戦いが行われた。
実に、時間というものは人を待ってはくれないものだから、
月日が経つにつれて城中では方策がなくなっていき、兵糧も次第に尽きていった。
そうなると城兵たちは、あるいは牛馬を食べ、ついには人肉までもむさぼりだした。
獄卒・阿修羅・羅刹による責め苦もこのようなものかと思えるほど、
目も当てられぬ有様で、前代未聞と表現してもまだ足りないほどだった。

城中は芸陽勢の後詰を待っていたのだが、遠い因幡のことであるし、
大きな大河を隔てていたので、味方の勢の努力むなしく、
天正九年十月二十五日に落城した。
経家は三十五歳であった。

経家はたった一人で腹を切って、数千人の軍兵を助け、
その名誉を都にも田舎にもとどろかせた。
敵も味方も皆感動し、その戦は終わった。

当家の子々孫々の末代に至るまで、この名誉に比べられるものはなかろう。
愚息の軍功を数え上げたりすることは恐れ多いことではあるが、
一族の者たちがこの末法の世において、さらに上を重んじ、
忠節を尽くすことが一番大切だと思うので、
経家一生の格別の名誉を記し置く。
また、郎党二人(福光小三郎・若鶴甚右衛門)、与力一人(坂田孫次郎)が
そのとき経家に殉死している。

この一巻の書は、他家の者に見せてはいけない。
子孫たちに見せるために、経安が記し置いたものである。

     天正十年壬午二月十三日     和泉守藤原経安
          吉川亀寿丸殿(経実)
          同次男宮寿丸殿(家種)


以上、テキトー訳。

安様ェ……_ノ乙(.ン、)_
この人は、石見吉川家文書とか吉川家文書とか読んでると、
なんか愁訴ばっかりしてる印象なんだけど、
一人息子の経家を実に大切に思っていたんだな、というのが伝わってくる気がする。
経家は最期に臨んで父経安に遺書を書いててさ、それが形見分け注文なんだよね。
本家の経言(後の広家)に送ってるのも形見分けの依頼だし。
あと元春・元長宛(実際の宛名は本家家臣宛)の遺書も愁訴だし←このへんは実に経安の子w
実務的すぎんだろ(´;ω;`)

おっと、経安の話だった。
なんだか書面を見ると、経安もすぐに死んでしまいそうな感じで切ないんだけど、
べつにフラグじゃありませんから!
経安は、関ヶ原の乱が起きた慶長五年十二月、
防長に移ることなく、居城であった福光城で亡くなってる。享年八十一歳。
孫の経実が立派に成長するまで、しっかり存命してたんだよ。

この書置きで印象に残るのは、子孫たちに対して、
「ますます上を重んじて忠勤に励んでほしい」と望んでいる点だった。
石見吉川家というのは吉川一族のなかでもちょっと特殊で、
元春が養子に入る以前から安芸吉川家とは距離を置いていて、
わりと独自に行動してたらしい。
興経が尼子にフラフラしていたころも大内に従ったりしてるしね。
それに経安自身は久利家の出身なんだよね。母は石見吉川家だけど。
女系の縁で石見吉川家八代である経典の婿養子となったようだ。

大内が滅んでから毛利配下に属しているので、
ここでもまだ安芸吉川家から独立した性格を保持していたんだと思う。
天正九年時点の領地の安堵状も、石見の本願地に関しては輝元から、
新庄の領地については元春・元長から安堵を受けている。
だからこの時点でも、安芸吉川家から独立して毛利家に従っていたはず。
あと、経安は元春だけでなく、隆景を通じても愁訴してるし。
もっと言うと、天正十九年の安芸吉川家(広家が出雲の月山富田城主に)の領地替えのときにも、
広家や輝元に近侍している僧侶が、石見吉川家の知行がそのまま保持されるように周旋しているから、
関ヶ原の乱の前までは、この独立性は保たれていたんじゃないかな。

だから経安が文書中で重んじるべきとした「上」というのは、
毛利家のことなのかな、などと思いながら読んでおりました。
とりあえず安芸吉川家の元春・元長が惣領である、
という認識に立っていたということは理解できた。

しかし……経実(亀寿丸)がわりと無鉄砲な感じに育ったのは、
じいちゃんがこんな調子だったからかしら、とも思わんでもないw
朝鮮では、戦いの最中に味方が退却していってるのに、
「大将の下知があるまでここを動かん!」とかやってたり(陰徳記)、
関ヶ原の前哨戦である伊勢阿濃津城攻めでは、
全身に五ヶ所もの傷を負うほど奮戦したり(実話)。
ちなみに弟の家種(宮寿丸)は、このとき戦死したらしい。
父の名は大きいし、養育してくれたじいちゃんも
「上様のためにしっかり働いて来い!」って感じだと、頑張る子になっちゃうのかも。
私としては、経実のそういうところが、大変愛しいわけですけれども。

石見吉川家……しばらく読み込んでみようかな。
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