--------

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2013-05-30

届かなかった手紙

すっかりサボり癖がついてしまっただけで、私は生きてます。

さてさて今回は、書状読む前に石見吉川家についての情報を整理してみるよー!
私が気になってるのは系図なので、まずは系図だな。


◆石見吉川家の系譜◆

まず、駿河時代の吉川氏始祖から追ってみると、
①経義→②友兼→③朝経→④経光と続き、
この次の⑤経高が正和二年(1313年)に安芸の国大朝本荘に移る。
ここで経高は末弟の経時を駿河に残し、
他の弟たちを引き連れて安芸に引っ越すわけだけれども、
その弟たちが分家となっていくのね。
経高:安芸吉川初代
経盛:播磨吉川初代
経茂:石見吉川初代
経信:境氏吉川初代

惣領の安芸吉川は、
⑤経高→⑦経秋→⑧経見→⑨経信→⑩之経→⑪経基→⑫国経→⑬元経→
⑭興経→⑮元春→⑯元長→⑰広家→⑱広正……と続く。
石見吉川は、
①経茂→②経任→③経世→④経氏→⑤経義→⑥経康→⑦兼祐→
⑧経典→⑨経安→⑩経家→⑪経実→⑫正実……と続いた。
こうして見ると、本家―庶流の関係とはいえ、
元春・元長や経安・経家の代から、ずいぶん以前に分岐しているのがわかる。
私が追ってる時代は16世紀後半だから、
支流が分岐して250年くらい経ったころってことになるのか。気が遠くなるな。

石見吉川初代の経茂は、安芸の国の大朝本荘鳴滝村の地頭職を拝命した。
そして石見の最有力豪族、益田氏の一族である永安氏兼祐の孫娘「良海(夜刀)」と結婚した。
この妻が領有していたのが石見の国の長安本城の一部およおび津淵村で、
経茂は妻の領地を受け継いで石見に移り、邇摩郡の殿村に居館を構え、
ここに石見吉川氏が誕生したわけだ。一時「津淵」姓を名乗っていたこともあったとか。

代々領地を運営していたが、七代兼祐のときに大内氏に仕え、
津淵村から所領替を命じられたが、伝来の地を取り上げられることへの抵抗なのか、
以後は諸役を拒んで出陣せず、領地没収の憂き目に遭う。
八代経典は大内義興に臣従して失地を回復し、
九代経安も大内氏に仕え、その滅亡後は毛利氏に仕えた。
この流れの中ででようやく津淵村に回帰し、福光城に入ることができた。
……経安に関係する書状類は愁訴の用件が非常に多いけど、
父祖の代の経過を見てみると、加増にこだわる気持ちもわからんでもない。

実はこの経安、経典の実子ではなく、経典の妹の子供で、
父は久利郷(義興から経典に与えられた地もこの一部)の豪族、久利淡路守だった。
経安は幼いころは余七郎という名で、初名を経冬といった。
経典の男子兼栄は早世したため、妹の子である久利余七郎を三女の婿として、
石見吉川を継承させることにした。
こういう女系の相続形態はわりとよくあるよね。

さてここで。最近ようやく私がたどり着くことのできた系図の登場だよオロロ~ン!
でもwebってどう表記したらいいのかわからんな……
とりあえず出会った系図とその他いろんな情報を混ぜてアップしちゃいます!

【石見吉川九代 経安】永正十七年~慶長五年十一月二十七日(★1)
(幼名:亀寿丸 余七郎 左近将監 和泉守 初名:経冬 法号:盛林)
 久利淡路守と吉川兼祐娘(吉川経典妹)との間に生まれる。
 天文十年十二月五日、吉川経典の婿養子となり譲状を受ける(石見吉川家文書25)。
 天正二年四月五日、嫡子経家に領地を譲り渡す。
 天正九年に経家が没した後は、経家の遺児たちを養育する。
 天正十三年、隆景・元長が上坂した際に追従し、その帰りに高野山にて出家。
 慶長五年十一月二十七日、福光城で没す。享年八十一歳。
 福光浄光寺に葬られる。
  妻:吉川経典の三女(永禄二年七月十日死去)
  子:女子……久利左馬助の妻、妙法と号す
    女子……小坂越中守(★2)の妻、妙心と号す
    経家……石見吉川十代

【石見吉川十代 経家】天文十六年~天正九年十月二十五日
(幼名:千熊丸 小太郎 式部少輔)
 九代経安と経典三女との間に生まれる。
 弘治三年五月、石見銀山を攻略して安芸新庄に帰る元春に、修行のために預けられる。
 一つ年下の惣領家跡継ぎである鶴寿丸(元長)とともに育ち(★3)、
 永禄三年十二月十三日に鶴寿丸より加冠を受けて元服(石見吉川家文書130)。
 永禄五年十一月、父経安とともに出雲月山冨田城攻めに参加して初陣を飾る。
 永禄十一年正月五日に元資(元長)より式部少輔に任じられる(石見吉川家文書131)。
 天正九年、鳥取城督として織田信長の将羽柴筑前守秀吉に降伏し、
 十月二十五日、城内の真教寺にて切腹。享年三十五歳。
 鳥取城青木局に胴体が葬られたが、後に現在の円護寺内の墓所に移された。
 鳥取市戎町の真教寺に明治期まで位牌(殉死者の位牌も)があった。 ※現在は未確認
 殉死者:郎党の福光小三郎・若鶴甚右衛門、与力の坂田孫次郎
  妻:境左衛門尉経輝(境氏吉川十代)(★4)の娘(寛永三年七月十三日死去)
  子:女子(あちゃこ)……石見都野弥次郎(★5)の妻、後に武安十兵衛に嫁す
    経実……石見吉川十一代
    家種……宮寿丸 采女正 慶長五年八月、伊勢阿濃津城攻めで戦死。
    家好……竹松 与右衛門 兄の家種死後、その跡を継ぐ(★6)
    女子(かめ五)……福富与右衛門の妻
    女子(とく五)……粟屋加賀守の妻
 
【石見吉川十一代 経実】元亀元年(★7)~元和六年四月二十四日
(幼名:亀寿丸 小次郎 勘左衛門尉 初名:経盛 法号:宗宅)
 十代経家と境経輝の娘との間に生まれる。
 天正十一年八月十八日、元長より加冠を受け、経盛を名乗る。改名時期不詳。
 天正十三年、四国征伐で初従軍。
 文禄元年、朝鮮出兵で初陣。
 慶長五年八月二十四日、伊勢阿濃津城攻めで重症を負い、
 京都で療養中に関ヶ原の戦いが終わる。同年末ごろ石見に帰国し、岩国に移る。
 六百石を与えられ、吉川家の家老として活躍。
 元和六年四月二十四日に没す。享年五十一歳。錦見の普済寺に葬られる。
  妻:不詳
  子:正実……石見吉川十二代(縁辺についてはコチラ!)
    正知

〔注〕
★1 ウィキペディアでは大永2年~慶長5年10月21日となっているが、
  没年月日は手元の資料の日付を採択し、それより生年を導いた。
  同年十二月一日付で広家から経安に送られた書状が存在するので、
  ウィキペディアの通り10月21日に死去していれば、
  その報は11月中には広家に届いているはずだから。
  なお「岩邑年代記」でも、十一月二十七日に没した、とある。
★2 小坂越中守は、『陰徳記』には広家の乳人として登場するが出自は不明。
  吉川家文書・石見吉川家文書ともに小坂氏の名前が散見されるので、
  おそらく石見の豪族と思われる。
★3 手元資料には、元長とともに育ったのは「四年間」とあるが、
  立花城攻めの後に送られたと思われる元長→経家の書状に、
  そのころまですぐ近くで暮らしていたと思われる文言があるため、
  永禄年間はずっと新庄で暮らしていたのではないだろうか。
★4 経輝その人に関してではないが、経輝の甥に境与三右衛門尉がいる。
  与三右衛門尉は元長の奉行人でもあり、新庄の西禅寺で親交を深めた
  恵雍・元長・経家・香川春継といったグループに加わっていた可能性も。
  経家の妻の従兄弟という縁からか、与三右衛門は鳥取城の端城、丸山城に籠もり、
  『陰徳記』では私の心を掻っ攫っていきました_ノ乙(.ン、)_
★5 都野弥次郎は『萩藩諸家系譜』にも見える石見の豪族、都野三左衛門家頼。
  慶長二年十二月二十二日に朝鮮の蔚山で討死。
  武安十兵衛についてはわからないが、同姓の人が輝元から温泉津の奉行を命じられているので、
  その一族の人だと思われる。
★6 家好は鳥取の池田藩に仕えたようで、
  その末裔に落語家の五代目三遊亭円楽師匠(本名:吉河寛海)がいる。
★7 手元資料では生年が「永禄十一年(1668年)」となっているが、
  同資料の「元和六年(1620年)四月二十四日経実五十一才で歿す」という記述と計算が合わない。
  信頼が置けるのは没年の方だと考え、生年を元亀元年とした。

私が現時点までに調べたところでは、以上!
ふえぇ~、予想外に長くなってしまった……こりゃ時間かかるわけだわ。
でもできれば、経実の妻の素性も知りたいんだぜ。

さて、一応「諸家文書」カテゴリに入れてるから、書状読まなきゃね。
慶長五年十二月一日付の、広家から経安に送られた手紙を読んでみたい。


●吉川広家書状写(石見吉川家文書100)

いつも取り紛れてしまって悪いとは思いながら、その後連絡していなかったね。
こちら(上方)は特に問題はない。様子はあれこれと聞いていることだろう。
何度も言うが、今回、津の城(伊勢)における
勘左衛門(吉川経実)の手柄はすばらしいものだった。
大きな怪我を負ったけど、全快してそちらに戻ったそうで、喜ばしいことだ。
あなたもさぞ喜んでいることと思う。
あなたも来春には周防に下ってきてくれるだろう。
私もそのときには下国できると思うから、会ったらいろいろ話をしよう。
恐々謹言

     (慶長五年)十二月一日     広家
          盛林(吉川経安)参

なおなお、勘左の手柄は本当に言葉にできないほどだ。
無事に下向したのだな。本当によかった。かしく


以上、テキトー訳!

日付は12月1日。経安はこれより少し前、11月27日に帰らぬ人となっていた。
関ヶ原の乱の戦後処理で、先祖代々固執してきた本領を離れなければならないことになり、
経安の悲しみはいかばかりだったかと思う。
岩国には移らずに本領で死ねたのは、よかったというべきなのかな。
おそらく京都で怪我の療養をしていた経実が無事に帰りついたとの連絡があって、
広家がこの手紙をしたためたのだと思うから、最期に嫡孫には会えたんだろうな。
それだけが救いというか……

経安の死を知った広家も、すごく悲しんだだろうな。
会いたかったと思うんだ。
この後広家は、経実やその子供たちをとても大事にしてたようで、
正実の妻に元春の孫娘(毛利宗家永代家老の娘)を娶わせたり、
経実の病気を心配する書状がたくさん残ってたり、
死の間際に経実を思い出して、正実に「おまえのお父さんには本当に助けられたよ。
経実が生きてる間に言ってあげられなくてごめんね」と言ったような書状を残したりしてる。
私はこういう結びつきに弱いな。

そんなわけで、これからはまじめに更新したいと思いますが、
ちょっとしばらく忙しくなるので、どうなるかは風まかせ~!
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

検索フォーム
カレンダー
09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
Twitter
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。