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2013-12-01

とある吉川家臣の遍歴(上)

ウィークデーがわりかし忙しいので更新できぬまま、
なんとはなしに最近仕入れた資料だけ流し読みする日々……
トリ頭だから右から左に情報がすり抜けてゆくのよ。やんなっちゃうorz

このままではよろしくないので、何かまとめられそうなネタを探したところ、
岩国に伝わった吉川家臣関連で面白い話を見つけ、ついったでだだ漏らしっぱなしだったことに気付いた。
忘れないうちにまとめておこうと思う。
例によって例による理解できてないテキトー訳なわけですが、
今回は原本が筆文字なので、読めなかった文字とかもあってさらにカオスだよ♪ヾ(。・ω・。)ノ゙
もちろん崩し字など読めるはずもなく、楷書で記された部分をどうにか読んだだけです。

最初にどんな話かってのをさっくり説明しておくと、
吉川興経の家臣だった朝枝(有田)加賀守、その甥であり後継者の右京、
そのまた後継者の半兵衛(加賀守の実子)といった人物が語り継いできた話を、
子孫の朝枝嘉右衛門という人が「聞書」として著したものらしい。
文中に「慶安五年まで何年」とか出てくるから、成立年代はその辺なんだろうと想像。
朝枝氏の系図は見たことないので、あんまり詳しく追えてませぬ。
()内は管理人による補足でござる。


●朝枝嘉右衛門聞書(岩国徴古館蔵『吉川家臣覚書』)①
「朝枝久呉より差し出す」
「朝枝嘉右衛門、父半兵衛よりの聞書の写し」

【朝枝加賀守】

若い頃の名は弥次郎、その後右京、加賀守を名乗る。
もとは朝枝・境と並び称されるような、吉川家の家臣だった。
しかし、この加賀守の代になって牢人することになった。
それというのも、興経公が毛利元春公を養子にされるときに、
興経公が叛逆を企てていると噂する者たちがいた。
毛利元就公が興経公に切腹を仰せ付けられたので、加賀守は吉川家を出た。
この話はよく効かされているが、加賀守は興経公にあれこれと諫言をしたけれども、
興経公が全く聞いてくださらなかった。
加賀守は「結局私が何を言っても、興経公は今までどおりに私が守ってくれるとお考えになって
本気で向き合ってくださらないのだろう。
頼りにしている家臣たちがいなくなれば、(元就への)逆心もおさまるはずだ」
と考えた末、立ち退いたのである。

その後は、安芸の奴田(沼田)、隆景公の領内で暮らしていた。
隆景公はそれをお聞きになると、元春公に了解を得て、加賀守を家来として召し抱えてくださった。
そうして数年奉公したので、有田式部少輔の跡である75貫を拝領した。
また御座敷へと呼び出され、有田の名字を名乗るように仰せ付けられた。
有田というのは小早川家では高家であり、詳しくは小早川の系図に載っている。

安芸の厳島の陣で陶と決戦となったとき、同国の大(火か)立・廿日市へと毛利家が進軍された。
厳島の本城には隆景公が人数を籠め置かれ、御三殿がいろいろと相談をしたが、
「こうなっては野嶋(能島)・来島に頼らなくてはかないそうもない」ということで、
この両家の居城がある伊予へと加賀守が遣わされ、
すぐに両家を引き連れて罷り帰ってきた。
この証拠として、両家から加賀守への書状がある。
そうして両家の者たちと相談し、未明に厳島へと打ち渡った。
隆景が配下の城に籠城なされるので加賀守もお供し、陶を追い崩して二度高名した。
隆景公からの感状が二通ある。
陶を討伐なされたので、周防・長門の両国は元就公の御手に属した。
その翌年の春、周防のスヽマ(須々万)の城を攻め落とした際にも、加賀守は高名した。
これも感状が一通残っている。
同年、周防の大野という土地で25貫の御加増があった。

その次の年から三年間、筑前の立花道接(雪)・高橋・秋月の三人衆へと、
「中国(毛利)にお味方なさるならばご出陣なさってください」と交渉するため、
加賀守は安芸と筑前を行き来した。
この三人衆、またその他にも一味すると約束してくれた者たちがいたので、
(元就が?)立花陣を思い立たれたそうだ。
筑前においでになると、元就公・元春・隆景公が連署された判物をいただいた。
それには、「そなたが三年間も苦労してくれたからこそ、今回の立花への出陣が決まり、
大変うれしく思う。ついては、そちらの土地で案内を務めるように」とあった。

筑前では、ハカタ(博多)の小福寺を宿にして、方々をめぐっていた。
市川経佳(好)が籠っていた山口の城へと、豊後から義長を騙って乱入してきた者があった(大内輝弘)。
(毛利家は)すぐに筑前から撤退され、すぐに叛逆した者たちを討ち果たした。
隆景公は山口に加賀守を1年間残し置かれたので、翌年になってから沼田に帰った。
そこへ、博多の小福寺の万念和尚が訪ねてきた。
寺で讒訴され、住むことができなくなったので、加賀守を頼ってきたそうだ。
この件を隆景公に申し上げると、沼田の蓮華寺という寺に二百貫をつけ、万念和尚を住まわせてくださった。
後年、輝元公へと話を通してくださり、万念和尚は吉田の洞春寺の住持となった。

その後、伊予の河野弾正(通直?通宣?村上通康?)殿が死去された。
ご子息の四郎殿(牛福、通直?)はまだ幼少だったので、隆景公は河野家に加賀守を付け置かれた。
加賀守は伊予で、河野家から100貫の知行を拝領した。
また隆景公からも、伊予への出張手当として、安芸の大崎でニ十貫を拝領した。

河野大方(宍戸隆家の娘?)様から、半兵衛の母が加賀守に娶わされた。
母の本国は土佐の国で、吉良殿の一老である天竺飛騨守の息女として生まれた。
居城は土佐の内浦というところだったが、長祖加辺(曽我部)殿がその城を攻め落とされたので、
父子三人は切腹し、母は娘(半兵衛の母)を連れて伊予のドフコ(道後)の町に落ち延び、
育てた娘を河野殿へと進上したそうだ。
そして加賀守に実子である半兵衛が生まれたので、安芸の本領120貫を、甥の有田右京に譲った。
伊予の戦乱のときは、沼田(隆景)からの下知や法度を諸国人に通達するため、
加賀守が伊予に駐在していた。
加賀守は年老いてしまったので、跡を右京に任せて沼田へ帰った。
それから2~3年して加賀守は死去した。
命日は天正十二年十月九日、戒名は三甫宗玄居士である。慶安5年まで69年。

加賀守には弟が一人いて、朝枝三郎左衛門という名で、
興経公ご切腹の際に共に死去した。その子供が右京である。
当時は幼少だったので、今田上野介(経高)の判断で出家させていたが、
加賀守に実子が生まれないので、上野介から引き取って沼田で育てた。
桂伯耆殿のハイ(不明)と、この右京とは同腹の兄弟である。


【有田右京進】

若名は弥四郎、加賀守の跡の両方(小早川家知行分・河野家知行分)合わせて220貫を拝領。

島津陣のこと、大公(閤)様の九州征伐のときまでは、伊予に暮らす。
隆景公が太閤様から筑前一国・肥前の基諱郡・養父郡の50万石を拝領して、伊予を返上した。
このようになったので、河野大方様・同四郎殿(牛福、通直?)は、
安芸の高原で3000貫を与えられ、そこでお二人で暮らされていた。
その年、四郎殿が死去なさったので、右京は筑前に罷り下った。
肥後の国の半国を領していた佐々陸奥守(成政)の領内、鰐(ワニ)の城主が叛逆したので、
隆景公の指令により、粟屋四郎兵衛・有田右京の二人が兵を率いて鎮圧に向かった。
城の抵抗が激しかったため、四郎兵衛はけがを負って引き返し、右京進は討死してしまった。
今はなくなってしまったが、そこに廟所が建てられ、半兵衛が13歳で筑前に罷り下ったときに参詣した。
戒名は真宗道鐡居士、命日は天正16年12月2日、享年41歳であった。
慶安五年まで六十五年。

     隆景公
   筑前一国五十万石肥前二郡
   御城本名嶋備後内出雲内十六万石周防の内安芸の内

  宗玄事
   井上五郎兵衛・粟屋四郎兵衛・桂宮内少・兼久内蔵丞
  高山主水事
   ムジヤアゲ弥左衛門
        鵜飼(ウカイ)新右衛門
        手嶋市之介
            □□(つほ?)生和泉・同与兵衛

以上、テキトー訳。つづく。

長いな……_ノ乙(.ン、)_
軍記の一章ってわけじゃなく、ひとまとまりの家伝のようなものだから
片手間にやっつけるってわけにはいかんでな。
文中に出てきた誤表記というか異表記?は、一通り残してみたよ。
沼田→奴田とか、長曽我部→祖加辺とか、おもしろいよね((└(:D」┌)┘))

右京の段の、最後のメモ書きみたいなのはよくわからんかった。
□のところは読めてませんすみません。
あとすみません河野さんちはあれこれありすぎて把握できてません><。
ツッコミ大歓迎です(・`ω´・)

この朝枝(有田)加賀守、吉川家から小早川家に転職して大出世!という人なんだけれども、
この「聞書」が『吉川家臣覚書』に収録されていて差出人が朝枝姓ってことは……
そうだね、プロテインだね!じゃなくて子孫がまたぞろ吉川家に帰参したんだね!
こんな足跡をたどってる家臣がいるのか!って、大興奮しとりますwww
加賀守の代から、だいぶ時間が経ってからのもので、しかも聞書なので、
ちょこちょこ突っ込みどころはありそうな感じ。私にはわからんが。

これを最初に読んだとき、真っ先に思い出したのが、
隆景遺臣の行方を追ってらっしゃる、ブログ「伊予の戦国史」の管理人様だったわけで。
私はそのときついったーの本アカウントを抹消していたので、急いで作り直して
「有田加賀守を知っとるけ!?」と凸したわけですさ。
んでもって、その方に論文の所在などを教えていただいたりして、今に至る、と。
ホント毎々お世話になります。
私なんかと違って、すごくまじめに緻密に調べてらっしゃる方だから尊敬するわ。見習いたい。

その方からご紹介いただいたのが、川岡勉氏の論文、
「永禄期の河野氏権力と芸州:小早川氏の検使の派遣」(「地域創成研究年報vol.2」、2007年)。
同論文は、『吉川家中并寺社文書』(岩国徴古館蔵)に収録された伊予関係文書を通して、
小早川隆景・伊予河野氏の動きとその間をつないだ検使の実態に迫っている。
私は小早川氏や河野氏関連はまったくさっぱり調べてないので、
こういう情報をピンポイントで教えていただけたのはとてもありがたい。
川岡氏よると、朝枝(有田)加賀守の実名は「経道」さんらしいですお。
書中に見える略名は「有賀」さんだね。
そして、加賀守は河野の「局方」、つまり宍戸隆家嫡女らから信頼を寄せられ、
隆景に対して「なんとしても有賀を伊予に置いてほしい」という要望があったと見てよさそう。

それを考え合わせてみると、今回テキトー訳した聞書に見える、
「半兵衛の母は河野大方から娶わされた」という状況は、河野側の引きとめ工作なのかもわからんね。
川岡氏が紹介していらっしゃる隆景の有田加賀守宛書状が推定永禄11年で、
そのときすでに「老体の儀」と労わられていたほどの年齢だったのに、
子供産めるほどの若い奥さんもらうとかけしかr(ry……いや、それだけ見込まれてたってことで。
若いってだけじゃなく、実家が没落したとはいえ血筋もいいみたいだし。
隆家嫡女だけでなく、宍戸氏の総意として、また平岡衆・来島衆といった伊予勢からも
検使役の指名がかかるほどの人だったようなので、
その有能さも推して知るべし、といったところか。
この人が吉川家に奉公続けてたらどんな仕事したんだろうね。

次の右京は早々に戦死してしまったのであまり活躍の機会がなかったようだけど、
河野母子に見込まれて、ぎりぎりまでそばにいたんだね。
右京の実名は「景勝」らしい。
こちらも「伊予の戦国史」管理人様からいただいた情報ですん。
「経」の吉川カラーから「景」の小早川カラーへと、右京の代で転身が完了したわけだ。

そんなわけで右京の代まで終わったので、次回は半兵衛の代をテキトー訳するよ。
日があかないようにしたいなぁ。
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