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2013-12-02

とある吉川家臣の遍歴(下)

前回のあらすじ:
吉川興経に仕えた朝枝加賀守は、興経幽閉の際に吉川家を立ち退き、沼田で小早川家臣となった。
加賀守は小早川家中では高家である有田家の所領を相続し、有田姓を名乗る。
そして有田加賀守として、厳島合戦や須々万城攻略で武名を挙げ、
さらに九州の国人衆懐柔に奔走したり、伊予河野氏への検使としても活躍した。
河野大方(宍戸隆家嫡女)の手引きで妻を娶り、実子半兵衛が誕生するも、
後継ぎとして引き取っていた、亡き弟三郎左衛門の遺児である右京に跡を継がせる。
天正12年10月9日、死去。享年不明。
右京は安芸に引き移った河野母子のそばで仕えたが、
河野通直が死去すると隆景のいる筑前に移り、肥後国人一揆鎮圧の際に戦死した。
天正16年12月2日、享年41歳。

そういえば、朝枝加賀守・三郎左衛門に関しては、
『陰徳記』の「少輔次郎元春、吉川家相続のこと」にちょろっと出てたねw
こっちでは二人とも小早川に越したことになってました。

というわけで今回は、右京のの跡を継いだ半兵衛の訳に挑戦していきたい。
例によって()内は管理人による補足でござんす。


●朝枝嘉右衛門聞書(岩国徴古館蔵「吉川家臣覚書」)②

【朝枝半兵衛景進】

幼少のとき、加賀守・右京と死に別れ、加賀守の後妻が津生和泉に再嫁したので、和泉のもとで育った。
同腹の妹が二人おり、一人は浅野甲斐守の家来となった横見四郎兵衛の母である。
もう一人は福島左衛門大夫(正則)の家来、鶴見平右衛門の妻となり、
平右衛門が牢人すると京都の三条通に住まい、平右衛門が死去すると、
岩国の半兵衛のもとで暮らして死去した。瑚□慶珊大姉。

半兵衛は、小早川家では有田姓を名乗った。
有田右京の跡、20貫を相続し、幼年から隆景公の御手廻りでご奉公した。
二度の朝鮮出兵にも従軍し、最初に渡海したときは14歳で、小姓として召し連れられた。

隆景公がご他界なさった後は、本家の輝元公が
粟屋四郎兵衛(景雄)・井上五郎兵衛・椋梨和地・堅田和地(大和守元慶?)・梨羽をはじめ
小早川家の衆を召し抱えてくださったので、長門のイクモ(生雲)村で380石の知行を拝領した。
その後二歩上がりの新縄になり、500石に加増された。
梨羽壱岐(景宗)と同等の分限である。
この者たちが、(輝元の)次男の日向守(就隆)様に小早川の名字を名乗らせ、
御家を再興させてくださるようにと申し出たが、実現しなかったため、
御本家から立ち退いたとき、半兵衛も一緒に立ち退いた。

半兵衛はあちこち浪人しているうちに広島にやってきて、福島左衛門大夫殿にお仕えしようと考え、
左衛門殿の帰国を待っていたところ、江戸で左衛門殿が遠島を仰せ付けられてしまったので実現しなかった。
  〔(朱書注)左衛門大夫遠島……とあり、その後大坂陣で花房が……とあるのは年代が合わない〕

こうして広島に足を留めていると、広家様がお聞き付けになられ、
桂但馬(春房)を通して岩国に来るようにと仰せになったので、関ヶ浜までやってきた。
桂但馬を通じ、「(吉川の)御家に召し置かなくてはならない家筋なので召し抱えたい」
と伝えられ、ありがたく存じ奉り、ご奉公申し上げた。
当面の堪忍料として、60石の知行を与えられ、追って加増してくださるとのことだった。

広家様の一代のうちは、使番を仰せ付けられて、あちこちへと遣わされた。
大坂陣の前には、西国の様子を探るために(幕府より)花房助兵衛殿(職秀、職之)が
備中へと遣わされてきたので、指示を仰ぐために半兵衛が使者として遣わされた。

備中の助兵衛殿の宿所に参上すると、口上は直接お聞きになるということで、
助兵衛殿の家老一人とともにまかり出て、対面した。
助兵衛殿は炉の脇に半兵衛を呼び入れると、家老に対して
「続きの間には三間ほど掛け金をかけてくれ」とお命じになり、
家老には「そこで話を聞いているように」と仰せになった。
広家様の御口上をお聞きになると、助兵衛殿はこう仰せになった。

「このたびは私の方へのお問い合わせが遅かったので、それはそれは心配していたが、
こうして書状と口上を承り、さてもさても安堵した。
それというのも、江戸の家康公の御前にて、亀井能登守(政矩)が
『吉川も大坂籠城の人数に加わると聞いております』などとを言い出したのだ。
家康公はそれをお聞きになり、『なんと、そうだったのか。
最近では弓矢(戦)の剛者は広家の他にはそうそういないというのに、
なんとも苦々しいことだ』と仰せになられた。

そのとき私は、『広家が籠城するという情報をお確かめになってから仰せください。
そのようなことはありえないと私は思います。
上様もご存知の通り、私は広家とは特別に心安い間柄です。
彼の人の所存もよく存じております。
十のうち十勝てるとわかっている合戦でさえも、思案を重ねるような性格です。
今回の大坂籠城は、大将は秀頼公、その他は旗本の若者共、あとは諸牢人を掻き集めたにすぎません。
百のうち百も勝ち目がないとわかっている籠城の人数に加わるような人ではありません』
と申し上げた。
すると能登守は、『今回の籠城の人数の確かなことはわかりませんので、
風聞を申したまでです』と言った。

家康公は、この助兵衛の申したことに納得してくださったが、
『しかし、関ヶ原陣のときに、広家は当方に別してひとかたならぬ忠義を貫いてくれた。
だから周防・長門の二ヶ国を広家に与えたが、
広家自身がこの二ヶ国を輝元に与えてくれるようにと固辞し、
それがかなわないときは輝元同様に牢人の身になる覚悟だと言うので、輝元に遣わしたのだ。
とはいっても大忠にほかならないのだから、そのほかに三、四郡ほどは広家に宛行うべきだったのに、
そうしなかったから腹を立てて籠城の人数に加わったのかと思った』
というご上意であった。
そう仰せられると私も何も言えない。
こんなことがあったので、こうして使者を立ててくれて、本当に安心した。

そうして大坂の陣が目前に迫ってきたので、私は西国の様子をうかがうために罷り上ってきた。
家康公もおっつけご上洛なされる。
そなたは急いで国元に帰り、私が申したことを広家に伝えて、
兵の人数はそろえなくてもよいから、早々にお手廻りの衆だけをお連れになって上方に行き、
大津・草津あたりまで家康公のお迎えにおいでになるように、と進言してくれ。
お迎えに行ったら、『ご上洛の噂を聞いて、手廻りだけで馳せ参じました。
もし御用があれば仰せ付けください』と家康公に申し上げるといい。
そうすれば、江戸で私が耳にしたご上意の件もあるのだから、
戦が終わったら一ヶ国は拝領できるだろう。
これについては、この助兵衛が保証してもいい」との御返答だった。

そのとき半兵衛はこう申し上げた。
「只今お聞きした、江戸の家康公の御前で仰せくださったこと、
それにお迎えのため早々に罷り上るようにとのご助言、
広家が聞けば、どれもこれも忝く存じ奉ることでしょう。
私ごときでさえ、このお礼の気持ちは心の底まで申し上げることができません。
実にありがたいことでございます。
しかしながら、家康公のお迎えのために広家が罷り上るというのは、
先程口上でも申しましたように、この二年ほど広家は病床に伏しており、何をするにも思うに任せません。
助兵衛殿のご内意をお聞きしても、私が考えますには、罷り上ることはできかねると思います。
そのようにご理解をいただきたく思います。
この件を申し上げないままお迎えに罷り出なかった場合、さぞご不審に思われるでしょう。
ですから、前もって申し上げておきます」

こう申し上げると、助兵衛殿は、
「ふむふむ、事情は確かに承知した。広家がおいでにならなければ確かに疑念をかけられよう。
よく気が付いて申したものだ」と仰せになり、ご自分の家老に対して、
「使者に参るときなどは、このような心遣いが肝要なのだぞ」と仰った。
そして小声になり、家老には聞こえないように、
「広家の御心中は、そなたの申す通りだと思う。しかしそれは考えが古い。
これからはそのようなやり方では通じない。このことを広家によく申し上げてくれ」
と仰せになった。半兵衛はお料理でもてなされ、帰国した。

帰宅して早々にこの件を広家様に申し上げると、
ご病気なので上坂できそうにないと助兵衛殿に申し上げたことをたいそうお気に召され、
「これは半兵衛の一存というよりも、神仏のご加護ともいうべきだ」と、
それはそれは御機嫌なご様子だった。
「明日、老中も同座して話を聞くから、この件を申すように」ということで、
老中がお揃いになってからこの話をし、広家様の意にかなうことができた。
大坂の陣へもお供いたし、大坂に着船するとすぐに助兵衛殿への使者に立った。

広家様の代に、分限が少なくて奉公を続けることができないため、二度辞表を出した。
しかし、後日取り立てると言われたまま、時だけが過ぎてしまった。
広正様の代には、萩に駐在して奏者役を務めた。
隠居を申し出て、かわって伊兵衛がご奉公すると申し上げたところ、お許しをいただいた。
「半兵衛の代のうちに取り立てたく思っていたのに、何かと機を逸してしまった。
普通の楽隠居だとは思わないでくれ。おまえの力が必要なときが来たら働いてほしい。
そのように心得ておくように」との御意だった。
2~3年して、主膳(吉川就紀、広正の子)様の後見役に山縣又右衛門が付けられ、
その副役を半兵衛が仰せ付けられ、江戸に罷り下った。
又右衛門は90石の仕組で罷り下るようにとのことで、その通りにした。

半兵衛は在世中に一代のことを書き表したいと申していたが、
「当家は私の代になって散り散りになり、その上親とは幼いころに死に別れたので、
これまでの書物なども失ってしまった。これではどうしようもない」と諦めていた。
半兵衛が内々に話していたことを書き出すと、以上になる。
きっとこのほかにもご用を務めてお役に立ったこともあるだろうが、
こうした事情があるので書き付けなかった。
このほか、キリシタンの宗門のこと(島原の乱か)で所司代板倉周防(重宗)殿へと
森脇源右衛門と半兵衛が罷り出て、首尾よく罷り下ったのでお褒めいただいたとのこと。

広正様の御代にも、子供が多数いたので身上を保てないから辞めさせてほしいと申し上げたが、
慰留されてご奉公を続け、こうして嘉右衛門まで続いている。


以上、テキトー訳。これでおしまい。

なんかな、加賀守・右京の代はそれほど目立った突っ込みどころがなさそうなのに、
年代が後の半兵衛の情報が一番怪しいってどういうことなの。
まず朱書で先人が突っ込んでいたように、
福島正則の左遷(元和5年)より大坂の陣(慶長19~20年)のが早いからそこがまずおかしい。
また、粟四兵ら隆景遺臣たちが出奔したのは、就隆誕生以前だって(「伊予の戦国史」管理人様のご指摘)。
これについては、秀包遺児とか、小早川家再興運動の神輿になった候補者が別にいて、
再興運動自体はあった可能性も捨てきれないそうだけど。
それに、根拠はないが、花房助兵衛とのやり取りが、ものっそいぁゃιぃ……よね?
だって、いきなりこんなに詳しいなんておかしくない?
まるで小説のワンシーン読んでるみたいよ。話盛ってるよね???
花助兵と広家の仲が良かったってのは、仲をうかがわせる書状もいくつか残ってるし、
あんまり疑わなくて良さそうだけど、家康発言による広家の持ち上げっぷりがな。
実にぁゃιぃ……

だがしかし。この半兵衛・花助兵会談は、これはこれで面白いので好きです。
史実かどうかは置いといてね。逸話として。
「確実に勝てる戦いにさえ慎重になる性格」って評価されるとか、
広家さん、花助兵と一緒のとき何したん……と、妄想が膨らむよね。
むしろ「慎重な性格」ってのは、半兵衛自身の広家への批評かもしれんな。
思い起こせよ関ヶ原……いや待て、あのときだって広家は、
「西軍の統率がバラバラで、こんなんじゃ勝てそうにない」って判断してたじゃん。
まあ私の反論はどうでもいいか。相手が花助兵にしろ半兵衛にしろ、もうこの世にいないし。

花助兵が「広家の考え方は古くて今の流儀には合わない」って指摘したのは、
いったい何を指すのかな~、と考えてみたけど、
「徳川方からの吉川への優遇や加増などを、宗家の毛利家や世情の評判を憚って遠慮している」
っとこが、「古い」と言われる部分なのかな、なんて思った。
だって慶長12年ごろから病気を理由に家康と距離置いてるんだよね、広家。
慶長6年には、秀忠・井伊→黒田長政ってルートで加増の話があったらしいし(真偽未確認)。
慶長8年の上洛時には家康から熱海の湯桶拝領してるし。
慶長11年の江戸の普請では、家康から「現場にいなくていいから熱海に湯治においで」って誘われてるし。
そもそも江戸証人からして「血筋の者じゃなくていい」って、かなりの優遇だよね。
毛利宗家の手前、こうした優遇はまずいわな。
断リ続けると今度は幕府が怖いし、となると接触を控えるしか……
というかまた私は横道に……反省。

半兵衛に話を戻すと、母親が子連れで再婚した「津生」さんてのがヒットしない。
いきなりつまずくかと思いきや、「坪生和泉守元貞」が小早川家中にいるみたいなので、
たぶんこれじゃないかと。
前回読めなかったメモ書き?部分の「□□生」は、きっと「つほ生(つぼう)」だ。
きっと写しを作るときに「坪」を「津」と書き間違えたか読み間違えたかしたんだろう。
よくあることだよね(私も今回読み・書き間違いともにひどい頻度orz)。
同母妹が嫁いだらしい横見某というのも、もとは小早川家中だよね。
鶴見はわからぬ……あと半兵衛が跡を譲った伊兵衛てのは誰だ。子の一人か。
次回岩国訪問時にでも、系図を見せてもらいましょうね。

そうそう、前回記事・今回記事ともに、人名検索に利用させていただいたのは、
村井良介氏の「芸備国衆家臣団一覧表」(pdf版)でござんす。
「右京=景勝」情報も、正確にはこちらから「伊予の戦国史」管理人様経由で。

用語についても今回調べきれんかったのが。
「二歩上がりの新縄」て何じゃ。「新縄」は「あらなわ」で、荒縄(太い縄)のこと?
なら、「二分増えて身上が太く(豊かに)なった」ってことかな?
「90石の仕組」ってなんだろう。予算のことデスカ?
基礎知識のない自分の身がうらめしい。
でも独学だったらこんなもんだよね(震え声

そんなわけで、吉川家臣→小早川家臣→毛利家臣→吉川家臣という遍歴を辿った
朝枝・有田三代を追ってきたわけですが。
『陰徳記』読んでて、「侍は渡りもの」って言葉にたびたび出会うわけだけど、
実例がこんな感じなのかな。
特にまとめらしいまとめはありませぬ。

その他、つらつら思うことは、長くなったしただの妄想だから、続きにて。







この聞書では花助兵の口から語られたことになってる、広家二ヶ国拝領辞退の話。
実際に花助兵が語ったのではないとすると、
朝枝半兵衛もしくは筆者の嘉右衛門が創作したってことになるよね。

関ヶ原の戦後処理で、家康が広家に二ヶ国を与えると裁定した、とする説は、
後世の編纂物を根拠としており、一次史料(正本)が現存しないことから、
現在では虚説と断定されることがある。
だけど私はこういう話を読むにつけ、
広家が当初二ヶ国を拝領する話自体があったことは否定できないんじゃないかと思う。
何かしらの根拠があるからこそ、家中に浸透していて、
こういう部分で現出してくるんじゃなかろうか。

だからといって、検証し直す必要がないというのではなく、
いろんな可能性を検証してみたいと思うのだけれど。
そもそも、正本がないからといって「その内談自体がなかった」と結論付けるのは
性急というかいささか乱暴に過ぎる気が。


さて言いたいこと言ったから、最後にわりと好きな知行計算して終わろう。
知行の変遷見ると泣けるね。興経時代はよくわからないけど。
加賀守:?→75貫→100貫→220貫
右京:120貫→220貫
半兵衛:20貫→380石→500石→無収入→60石
ググって見つけた1貫=1石=約10万円で換算してみて、
半兵衛の最終的な年収が現米支給で、現代価値換算で600万とすると、
家族が多かったり家人を抱えなきゃならなかったりって考えると、苦しいわな。
もし半官半民で60石だったら……いや、うん。

あとよくよく考えてみると、天正16年以後くらいからの、
小早川家・吉川家の所領の段違いっぷりも泣けるね。
今更だけどね。景さま50万石だぜ。
広家さんてば天正19年の所領替え以降でも、公称11万石だけど実際は8万石だぜ(あやふやな記憶では)。
秀吉に属したときに「毛利両川」体制なんて終わってたのさ。
それでも位階や広島城下の屋敷配置は釣り合ってたかのような錯覚を起こさせるから
逆につらくなりました。かしく_ノ乙(.ン、)_
このへん詳しく調べてないけど、ちゃんと調べたら泣きそうかも。
でもいつか調べて把握したいです(・`ω´・)
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