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2011-10-12

三村家親のお手柄

帰りが遅くなってしまったので、
面白そうな章を探すのを断念して昨日の続き。


大江の城没落のこと

]大江の城(溝口町)には吉田左京亮の嫡子、吉田肥前守がいた。
そのころはまだ源四郎といって十二歳になったところだったが、
家之子郎党たちが補助して共に二百人ばかりで立てこもっていた。
元就様は三村修理亮家親に言った。
「左京の嫡子で源四郎という者が大江の城にいる。おまえは父の左京を討ったのだから、
この源四郎も討ち果たすがよい」
これを聞いた家親は、「もちろん、そうしようと思っていたところです」と喜んで了承した。
検使として香川左衛門尉光景が遣わされた。

同(永禄八年)九月三日、三村は二千騎ほどでその城に押し寄せた。
大手門には三村家親自身が真っ先に進んで攻め入り、城中の兵も命を投げ打って懸命に防戦したが、
二度までは追い払うことができても多勢に無勢、かなわず一、二の門を破られてしまった。
裏門には香川左衛門尉光景・嫡子少輔五郎広景・次男兵部大輔春継がつき、
激しく切り入って城の戸を押し破る。
少輔五郎・兵部大輔・郎党の三宅源四郎は多数の敵を切り伏せて、首を取って城中に乱入した。
左衛門尉は左肩をしたたかに射られていた。

城中の兵、谷上孫兵衛尉・福山肥後守・熊谷(くまたに)又兵衛尉を先頭に、
六十人あまりが源四郎を真ん中に取り囲んで、大手門に一直線に駆けてくる。
さすがの三村も道を開けて通してしまい、手出しもできずに通してしまった。
家親は逃がすまいと追いかけたけれども、まったく相手にされずに打ち払われ、源四郎の命は助かった。
実に立派な引き際である。
寄せ手百三十人あまりが首を取り、勝鬨をわっと上げた。

家親はそのままこの城にしばらくとどまったが、
冨田から牛夜中に尾弾正忠・秋上伊織助・本田与次郎などが、三千ばかりを率いて夜中に押し寄せてきた。
家親もそろそろ来るだろうと用心していたので、すぐに城門から出て激しく応戦した。
香川左衛門尉・同少輔五郎・同兵部太輔は裏門から打って出、向かってくる敵を追い払い、
正門の寄せ手の横合いに突きかかったので、尼子勢もたちまち勝機を失い、一気にサッと引いていった。
どうしたことか、この合戦では、味方に死人は一人も出なかった。
三村の郎党が四、五人ほど負傷したが、命に別状はなかった。

さて、この城には家親が三村五郎兵衛尉・海辺左近右衛門・村松宗兵衛尉らに五百騎程度を残して駐屯させた。
三村自身は法性(勝)寺の城に帰ったが、やがて元就様が南条氏に対して人を出すように命じ、
宗勝がこれに応えて、山田越中守・一条市助・南条備前守・正寿院利菴・赤木兵太夫らをはじめとして
主だった兵を六百あまり向かわせたので、三村の手勢は城を明け渡して法性寺に戻っていった。
三村は法性寺の城からあちこちへ打ち出て冨田勢と三度ほど槍を交えたが、
家親は一度も不覚を取らず、すべてに勝利を得たそうだ。


以上、テキトー訳。

前回に続き、地味~な攻防。
若干十二歳の大将を捻り潰そうとする方もアレだけど
担ぎ上げるほうも大概だよな。
まあうまいこと逃げたみたいだが。

面白そうな話は休日にでも探しておきます
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